昨日の話で、力にしてくださる方には、それがすでに備わっている、と書いた。
これは「良い」方向だけの話に限らない。
「なんだよ、それ、違うよ!」と感じられる方も、同じなのだ。
ただ、それがストレートに表れないだけで、気づきのヒントになる、
その力をすでに持っているという部分では同じ。
なので反発や違和感や心苦しさや、そういう、何らかの「心の動き」を感じられた場合には、
それを少し離れた位置から、冷静に見つめてみてほしい。
「どうしてこれに、納得できないんだろう?」と。
そこに、あなたが大事にしている価値観や、逆に、小さい頃に教わり固めてしまったガチガチの思い込みや、
経験で痛い目に遭い、「もう無理」と思い込んでしまった決めつけが、見つかるかもしれないのだ。
「人は自分の鏡」という、仏教の説話のような話は、そうやって使うと、
結構な確率で「重要なメッセージ」として役立つ。
何かが引っかかった、マイナス方向であっても心が動いた、ということは、
そこに「あなたの持っている何か」が、潜んでいるのだ。
たとえば、自分にイヤなことをしてくる相手、そのイヤなことの内容が
実は昔、自分もやってしまって後悔したことがある……ようなものだったり、
逆に昔、それですごくつらい目に遭って、そのときどう対処したらいいかわからなかったため、
もう自分のなかで「怖いもの」になってしまっていて、
今なら上手に対処できるのに、反射的にいきなり反発してしまう、見たくなくなってしまう、とか。
犬に噛まれたことがある人が、大人になってからも小さい犬でさえ苦手なのと、少し似ているかもしれない。
イヤだから、怖いから……。そういう、思い込みや決めつけのようなものが、潜んでいるわけである。
で、「そういうもの」に気づいたら、「じゃあ、本当にそうなの?」と、自分にまた、静かに問いかけてほしい。
すると、今はもう少し、自分だってだいじょうぶになっているのでは? とか、
それって実は、こういう別の見方もできるのでは? など、
そこにフッと、何かしらの「思い」が湧いてくることがあるのだ。
そうしたら、あなたの中の「思い込みの固まり」が少し、ほどけることになる。
ただし、『イヤだ』という感情に強く支配されていると、こうしたこともうまく浮かんでこないので、
少し時間が経ってから、とか、自分が落ち着いて見つめられるときにやってほしい。
さらに同様に、これは、イヤなことを言ったその本人に対しても、使うことができる。
何かを断定し、こういうときはこういうものだ、と押しつけてくる人は、
それによって「自分を相手に認めてほしい」ことも多い。
相手から「そうだね」「すごいね」と同意・尊敬・感謝をしてほしいのだ。
それは裏を返せば、他人から認めてもらうことによって、やっと自分を認められる、
自分で自分のことを認められていない、許せていない、愛せていない人、なのかもしれない。
これが行き過ぎになると、たとえば「強引」につながったりする。
常に自分の言うことに従ってればいいんだ、それが正しい、間違わないんだ、というパターン。
その人はそうやって、なんとか自分の価値を、自分で保とうとしているかもしれないのだ。
そしてこれは、こういうことを書いている私にもまた、当てはまりうる話。
なので、私は極力「私はこう考える」という、自分の意見としてのニュアンスを残すように心がけている。
それが一番正しいのだ、とか、世間一般はこうだ、という感じの決めつけにならないように……。
とはいえ、もし、そう感じることがあったら、ぜひ、メッセージやコメントなどでご指摘くださいm(_ _)m
それはまた、私の学びになるのです……。