木元見春 のすべての投稿

生きていこうとする力

先日来、人の心と身体のすごさ、不思議さを感じる話にいくつか出会っている。

心の病や機能性障害などに関する話なのだが、それらから私が感じたことは、

人は、生きていこうとする力を元々備えているのだな、ということだった。

このことは、以前から何度か、その欠片のようなものを感じてはいた。

たとえば映画「レナードの朝」を観たり、

ノンフィクション「24人のビリー・ミリガン」を読んだりしたときに、

生きるために、人は「あらゆる方法」で自分を支え、守ろうとするのだな、とか。

その方法は、ときに人智をも超える。

これ以上自分を「傷つかせない」ために別の性格をつくり出したり、

機能的な障害が起きてもそれを補いながら、できるだけ恒常性を保とうとする。

すべて、自分の意志でも誰の意志でもない。

心や身体が、そう判断するのだ。

それゆえに、結果として本人にはつらいことになったりする。

たとえば「レナードの朝」では、たまたまある薬物が劇的な効果をもたらし、

患者は回復を見せるのだが、やがて激しい副作用により投薬を続けられなくなり、

元の「硬直してただジッとしている」状態に戻ってしまう。

その奇跡的な一時回復は、本人や家族にとって幸福だったのか、不幸だったのか?

そんなことを考えさせられたりもするが、

別の見方をすれば、「身体があきらめず生きていた」からこそ、

そうした奇跡が起こりうることを本人や家族は知ったのである。

24人もの人格を生み出したビリー・ミリガンの場合は、

「生きていくうえであまりにもつらかったこと」を封印するために、多重人格を作り出していく。

でも、それもまた、まさに「生き続けようとするからこそ」なのだ。

確かに別の苦しさをもたらしはする。けれど、そうした力があること自体は、

ただ素直に、すごい、と、私には思えるのだ。

もうひとつ、こちらは現在進行形の実例の話。

画家の翠葉さん のブログから知ったのだが(翠葉さん、ありがとうございます)、

かっこちゃん、こと山元加津子さんという、福祉の世界でとても有名な先生がいる。

その同僚である宮田俊也さんという方の話である。

宮田さんはある日突然、ひどい脳幹出血で倒れ、寝たきりで二度と意識も戻らない状態になるはずだった。

が、なぜか同僚であるかっこちゃんは大丈夫だと思い続け、

「きっと、宮ぷー(学校の生徒につけられたあだ名)は意識が戻る」と応援し続けた。

病院側の努力・協力もあり、結果として宮ぷーは徐々に意識を取り戻し、まったく動かないはずの身体も

ほんのわずかながら動かせるようになり、身体の微細な動きで気持ちを伝えられる

意思伝達装置、という媒介を通じて、会話ができるようにまでなっていくのである。

彼のここまでの回復は、確かに奇跡、と呼べるかもしれない。

だがしかし、これも「人智を越える」例ではあるのだ。

罹患したら100%絶対にダメ……な病気は、たとえば感染症なら

「狂犬病」や「狂牛病」だけだし(ただし、これも厳密に100%とは言えないそうで、

狂犬病には数例の延命報告があり、狂牛病もこの先はまだ不明、であるらしい)、

それ以外は「遺伝子的要素」によりかかってしまう難病くらいだそうである。

あとは「10年後生存率」など統計による「あくまで確率的にみて」の話でしかない。

いったい、そこまでして生きようとする力が、自分のどこに潜んでいるのだろう。

それを事前に知ることは、自分にも周囲にも、医師にさえもできない。

でも、確かに、私たちの身体と心はそのような力を持っていて、

生きるために、私たちを守ろうとしてくれる。

以前書いた「死にたい気持ちは脳の過ち」である、という下園荘太先生の話によれば

鬱という病も自分を守るためだし、生きようとするあまりに脳がミスを犯すからこそ、

自死という発想が起きるのだ。

自分のなかには、自分のまったく知らないところで、

そんなすごい力がもともと備えられているのである。

翠葉さんを始め、このことに改めて気づかせてくださった方々とのご縁に、心から感謝したい。

最後に。

宮ぷーとかっこちゃん先生の話は、ドキュメンタリー映画として撮影が進められているので、

その情報をお知らせしておく。

わたしは以前、かっこちゃん先生ご自身のドキュメンタリー映画を観たことがあり、

この人はすごく困難な道を歩まれているな、でも素晴らしいな、と

思っていたのだが、そういう人がまた、よりによって(と言っていいと思う)

このような出来事にめぐり遭い、宮ぷーを支えているのかと思うと、

なんだかもはや、彼女は「神様」にそのように仕組まれ、

「障害」という状態が秘めているある種の素晴らしさを、

伝える使命を持たされているんじゃないか……とさえ思う。

●E.E.プロジェクト(映画についてと、予告動画)

http://www.ee-pro.net/movie/miyapu.html

●宮ぷーこころの架け橋プロジェクト チラシ(PDF)

http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko//miyapupuro/miyapuketui.pdf

●ブログ 「宮ぷー レッツチャットで、今日もおはなし」

(すごさが伝わる日記をリンクしておきます)

http://ameblo.jp/miyapu-ohanashi/entry-10940502691.html

ゆるせない人

きっと、誰にでも、1人や2人は、そういう相手がいると思う。

それって別に、あっても当たり前のことなんだと思う。

先日、私が「番外編」のブログのなかで紹介した「相手ではなく、自分のほうに焦点をあてる」という話も、

だからこそ、の視点なのだと、私には思える。

たとえばね。

私は昔、「近所に引っ越ししてきた誰か」に道で見かけられて、好かれて、

勝手に連絡先を調べられて、電話されたことがある。

ストーカーだの、性犯罪だの、DVだの、そういった被害の場合、

必ず「被害者にも隙があった」という説を唱える人がいるのだけれど。

じゃあたとえば、道を歩くときは常に油断せず、周囲を見渡して

自分にとっての敵がいないかを確認しつつ、顔を隠していなくちゃいけないのか?

宅配のゴミは手で宛先欄をちぎっていたけど、それでは甘かったのか? という話になる。

も、そういう説をぶつ人には、関西の芸人風に

「アホか、おまえ」

と言いたい。しかもあきれ顔でね。

明らかに、加害者のほうが悪いんだよ!

そういう手段で愛(そう、他人とのふれあいによる幸福感……だ)を得ようとする、

得られると思ってる、その発想と行動が間違ってる。

万が一……たとえば、ある女性が挑発的な格好をしていたから、思わず、と、考えたとする。

でも、その女性が挑発な格好をしたのは、少なくともあなたのためではない。

万人に襲われたいから、そういう格好をしているわけではない。当たり前だが。

何よりまず、淋しかったら、他人を傷つけていいのか。怖い思いをさせていいのか。

「自分がされて嫌なことは、他人にしないようにしましょう」っていう意識はなくてもいいのか?

すでにその段階でダメでしょう、って話になる。

まあ、第三者の声は別に気にすることはないのだけれど、

そういうわけでこの相手を、私が一般的な意味で「ゆるす」ことは、たぶん一生、ない。

当時は道を歩くのもちょっと怖くなったし、駅の階段とかで下を向くようになったり、いろいろ嫌な思いをしたのだ。

では、何をゆるすのか。

ゆるす、というより、「ああ、もういいや」ってことだと、私には思える。

そんな相手のことをいちいち思い出して何度もムカムカするのは、疲れた。

相手はゆがんだ発想により、私のことをもっと知りたかったのだ。

私が相談しに行った警察の人も、「本来、人が人を好きになる、ということを、

警察は止められないんですけどね……」という本音をボソッと漏らしてくれたのだが、

まあ、犯罪に至らない限り、実際そうなんだろうと思う。

もし犯罪に至ったところで、「もうその人のことをあきらめなさい!」って、

警察が、気持ちを変えるための仕事をするわけではない。その「行動」を抑止するだけなのだ。

しかも「犯罪に至ってから」ね。悲しいことに。

そう、つまりは、そのゆがんだ認識と発想を「本人が」自分で変えない限り、どうしようもないのだ。

そしてそれを、私がどうこうして「あげる」筋合いのものでもない。

だから私は、「もう、いいや」と思った。

そういうことが過去にあった。嫌な思いをした。でも、これからも道はのんびり歩きたい(当たり前だ)。

過去のことなんだから、もう、いいや、と。

そういう感覚……自分のなかの「暗い思い出」を過去のものとして、流してしまうこと。

一気には流せないだろうと思うけれど、思い出す必要がなくなった、と、「私自身が」徐々に、

切り替えていけば、いいんだと。

そんなふうに視点を変えることは、相手を「ゆるしてあげる」ってことではなく、

自分が自分に「優しくなってあげる」ことだと、私には、思える。

もう最近は、思い出すこともかなり減ったし(悲しいかな、ときに必要以上の緊張をすることはあるけど)、

相手のことも「かわいそうに……愛を求めても、その認識と発想じゃ、この先も無理だろうな……」と

冷静に、他人事として(いや、実際に他人事なんだけど)、みつめられるようにはなった。

自分の例を挙げて説明してみたけれど、私は「ゆるす」ということを、

そういう感じに捉えてる……ということが少しでも、伝わるだろうか。

すべての嫌な思い出で、こうした捉え方をするこはできない! 

と思う人もいるかもしれないけれど、

少なくとも徐々に、「自分に優しくなってあげる」ということは、

してあげてもいいんじゃないか、と感じている次第である。

「孤独」ではないということを。

前の文章の続きのようなもの……です。

私には、あなたを「助ける技術」はありません。そのような専門的な勉強はしておらず、

職業として責務を負ってきたわけでもありません。

ただ、人に話すのが怖い、と思う方に「一度だけでも、体験してみてください」と言いたいのです。

それが何を意味するのかは、ご自身で必ず感じていただけることだということは「知って」おり、

私は、きっかけのきっかけ、小さな小さな第一歩の、背中押し役なのだろうと思います。

また、自分は誰ともつながれない、誰にも話せない、

どこにも行けず、ひとりぼっちで孤独な人間なんだと、思われる方がもし、いらっしゃったら。

だいじょうぶ、あなたは絶対的に「ひとり」で「孤独」ではありませんよ、と。

私でも、あるいは私に限らず、あなたの話を聞く人は、この世の中に、必ずいますよ、と。

その点だけでも、お伝えしたかった……のだと思います。

だって、それは、本当のこと。

厳然たる事実なのですから。

孤独を、孤独のまま、自分のなかで放置して、

これ以上、ご自分を苦しめる必要は、もうないですよ、と、

たぶん、私は、言いたいのだと思います。

それを、今、ここでお伝えしておきます。

必要な方へ、必要なタイミングで、届きますように。