きっと、誰にでも、1人や2人は、そういう相手がいると思う。
それって別に、あっても当たり前のことなんだと思う。
先日、私が「番外編」のブログのなかで紹介した「相手ではなく、自分のほうに焦点をあてる」という話も、
だからこそ、の視点なのだと、私には思える。
たとえばね。
私は昔、「近所に引っ越ししてきた誰か」に道で見かけられて、好かれて、
勝手に連絡先を調べられて、電話されたことがある。
ストーカーだの、性犯罪だの、DVだの、そういった被害の場合、
必ず「被害者にも隙があった」という説を唱える人がいるのだけれど。
じゃあたとえば、道を歩くときは常に油断せず、周囲を見渡して
自分にとっての敵がいないかを確認しつつ、顔を隠していなくちゃいけないのか?
宅配のゴミは手で宛先欄をちぎっていたけど、それでは甘かったのか? という話になる。
も、そういう説をぶつ人には、関西の芸人風に
「アホか、おまえ」
と言いたい。しかもあきれ顔でね。
明らかに、加害者のほうが悪いんだよ!
そういう手段で愛(そう、他人とのふれあいによる幸福感……だ)を得ようとする、
得られると思ってる、その発想と行動が間違ってる。
万が一……たとえば、ある女性が挑発的な格好をしていたから、思わず、と、考えたとする。
でも、その女性が挑発な格好をしたのは、少なくともあなたのためではない。
万人に襲われたいから、そういう格好をしているわけではない。当たり前だが。
何よりまず、淋しかったら、他人を傷つけていいのか。怖い思いをさせていいのか。
「自分がされて嫌なことは、他人にしないようにしましょう」っていう意識はなくてもいいのか?
すでにその段階でダメでしょう、って話になる。
まあ、第三者の声は別に気にすることはないのだけれど、
そういうわけでこの相手を、私が一般的な意味で「ゆるす」ことは、たぶん一生、ない。
当時は道を歩くのもちょっと怖くなったし、駅の階段とかで下を向くようになったり、いろいろ嫌な思いをしたのだ。
では、何をゆるすのか。
ゆるす、というより、「ああ、もういいや」ってことだと、私には思える。
そんな相手のことをいちいち思い出して何度もムカムカするのは、疲れた。
相手はゆがんだ発想により、私のことをもっと知りたかったのだ。
私が相談しに行った警察の人も、「本来、人が人を好きになる、ということを、
警察は止められないんですけどね……」という本音をボソッと漏らしてくれたのだが、
まあ、犯罪に至らない限り、実際そうなんだろうと思う。
もし犯罪に至ったところで、「もうその人のことをあきらめなさい!」って、
警察が、気持ちを変えるための仕事をするわけではない。その「行動」を抑止するだけなのだ。
しかも「犯罪に至ってから」ね。悲しいことに。
そう、つまりは、そのゆがんだ認識と発想を「本人が」自分で変えない限り、どうしようもないのだ。
そしてそれを、私がどうこうして「あげる」筋合いのものでもない。
だから私は、「もう、いいや」と思った。
そういうことが過去にあった。嫌な思いをした。でも、これからも道はのんびり歩きたい(当たり前だ)。
過去のことなんだから、もう、いいや、と。
そういう感覚……自分のなかの「暗い思い出」を過去のものとして、流してしまうこと。
一気には流せないだろうと思うけれど、思い出す必要がなくなった、と、「私自身が」徐々に、
切り替えていけば、いいんだと。
そんなふうに視点を変えることは、相手を「ゆるしてあげる」ってことではなく、
自分が自分に「優しくなってあげる」ことだと、私には、思える。
もう最近は、思い出すこともかなり減ったし(悲しいかな、ときに必要以上の緊張をすることはあるけど)、
相手のことも「かわいそうに……愛を求めても、その認識と発想じゃ、この先も無理だろうな……」と
冷静に、他人事として(いや、実際に他人事なんだけど)、みつめられるようにはなった。
自分の例を挙げて説明してみたけれど、私は「ゆるす」ということを、
そういう感じに捉えてる……ということが少しでも、伝わるだろうか。
すべての嫌な思い出で、こうした捉え方をするこはできない!
と思う人もいるかもしれないけれど、
少なくとも徐々に、「自分に優しくなってあげる」ということは、
してあげてもいいんじゃないか、と感じている次第である。