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腹が立つときに

それは誰か、特定の個人に対して、だろうか。

それとも社会に対して、あるいは自分に対して?

感情のコントロールが狂いがちなときには、こうした「むかつく!」といった気持ちを

なかなか収めることができないことがある。

脳の働きが正常じゃないし、身体も弱っているから、マイナス感情をいつも以上に深く感じてしまうのだ。

社会に対しての不満、たとえば政府や自治体、組織の対応、企業などの対応、については、

そうした機関へ投書する文章を、あえて「下書き」してみるといい。

何に腹が立つのか、どう変化してほしいのか。自分がそう思う根拠はどこにあるか。

きっかけとなった情報などがあれば、それは事実なのかどうか。他の視点で捉えている記事はないか。

いわゆる「ウラをとる」という作業もきちんと行いながら、

自分が感じていることをどうやって伝えるか、整理してみるのだ。

もちろん即効性があるとは限らないが、そういう声が多く集まれば、組織として

対応せざるを得ないこともある。つまり「多く」なるためには、自分の行動も必要だったりするから、

まずは冷静にきちんと「訴える」ことが重要となる。

次に、誰か特定の個人に対しての場合。

何か「その人にイヤな気分にさせられた」出来事が過去にあって、今、腹を立てているのだと思う。

ではなぜ、それをイヤだと感じたのだろう。

その相手の人間性ゆえ、か。それともたまたま、自分がそう受けとめたのか。

他の人が同じ目に遭った場合、同じように怒るかどうか。

たとえば理不尽だと思うなら、その「理不尽さ」の内容を、見つめてみるのだ。

そこに至る過程で、あなたも何か、きっかけをつくってはいなかったか。

実は相手に過度の期待や要求をしていなかったか。

自分のことを棚に上げてはいないか(鬱、という病そのものについてではなく、言動として、ね)。

「わかってほしいのに、どうして!」という気持ちは、基本的に自分側の都合である。

「こういうときにはこうしなければいけない」というのは絶対的・100%、100人いたら100人がうなずくことか。

あなたの価値観に、相手を「従わせよう」としてないか。

自分のほうが正しいのに! と、それを認めさせようとしていないか。

やり方は何通りもあって、それぞれ、100%間違いではないかもしれない。

だからその場合は「私はこうするのが気持ちいいから従ってくれない?」と、相手に言っているわけである。

であれば本当は「○○じゃないとダメ!」なのではなく「○○のほうが、いいんじゃない?」ってことだ。

そして相手は「○○」じゃなく「△△」のほうが気持ちいいのかもしれない。

ならば結論としての解決方法は「歩み寄り」であって、腹を立てることでない。

そうやって冷静に考えてみても、パワハラ、セクハラなど、明らかに相手が自分の立場を利用して

ひどいことをしてくる、と思える場合は、まず「それをどう、かわすか」。

こうした関係性は職場に限らず、家族の間でも友人との間でも、生じることがある。

でもいずれにせよ、こちら側だけがなんとか努力すれば解決できる問題ではないかもしれない。

以前にも書いたが、たとえば八つ当たりのように、相手側が自分自身の問題点を

他人に転嫁してくることがあるからだ。

その場合はもう、自分ではなく「相手の問題」である。本来、こちらが解決できることではない。

たとえば奥さんとの不仲が原因となっている苛立ちを、部下に転嫁してくるような相手に向かって

「奥さんとの問題を解決したほうがいいですよ」なんて言ったら、火に油を注ぐだけだ。

転嫁する人は、ある意味、ひどい思いを味わっている。味わっているからこそ、攻撃してくる。

であれば根本的には、冷たいようだが「うん、大変だね。あなたも可哀想なんだね」って話なのだ。

あとは、かわしてみる。本当はそれだけで、あなたのほうの努力はOKなのである。

もちろん、仕事や生活に支障が出る場合は、他の第三者に相談するなど、別のルートの対応も必要だ。

ただし、それは「この部分は相手が明らかに悪い」と言い切れるところの相談に限られる。

そこまでは、自力でやってみるしかない。

単にその人との相性が悪いのを、他人に相談したところで、相談された人も困るだろう。

まずは自分で、相手を冷静に見て、コミュニケーションをとってみる必要もあるのだ。

こんなふうに、「腹が立つ」という感情には、いろいろな視点や問題が含まれている。

それを少しずつでも把握してみると、自分の価値観や考え方もわかるし、

怒りの感情に巻き込まれる時間も短くできる。

相手か自分のどちらかが、100%完全に正しいとは限らない。

自分自身に腹が立ってもそれは同じ。黒い自分と白い自分のせめぎ合いなのだ。

でも実は、どっちでもよい……なんてことも、客観視してみればありうる。

そういうグレーゾーンな状態のほうが、実は結構、多いのだ。

腹が立つ→「じゃあ、どうして私はそれに対して怒るの?」という視点。

これもまた、練習は必要だろう。

必ずしも一気に解決はしなくていいのだ。無理せず少しずつ、見つめてみよう。

意志の力と成果

鬱のときに、がんばって「鬱という病を治そう」と思うと、かなり大変である。

「自分の責任」だと思って、自分で自分を追い詰め、病にまで進んだのに、

そこからさらに「結果」を求めるべく、自分を奮い立たせなくてはいけない。

たいていの場合は途中で燃料切れになって大きく揺れ戻り、さらに自分を苦しめる結果になるだろう。

だが、「治す!」という戦いのような思いで鬱に臨んだ人で、私は1人だけ、成功例を知っている。

その人の場合、専業主婦で夫婦ともに年金暮らし、子どもは独立済み、という状況であったから、

「社会的責任」は確かに、条件として薄かったとは言える。

でも、すごいと思ったのは、その「頑張り方」だ。

何をどう頑張ったか。徹底して「悩むのをやめた」のである。

つらい気持ちが出てきても「ああ、もう悩んだって仕方ない。ヤメヤメ」と、

その瞬間、考えるのをやめる……ということを、何ヵ月も続けた。

やるべき家事はただ淡々と、「作業」のようにこなし、気持ちが晴れそうな、好きなことをした。

園芸をし、ラジオやCDを聞き、好きなテレビ番組を観て、小旅行もして、

たまに音楽のコンサートに行ったり、気の置けない友人とお茶をしたり。

その女性の悩みは「他人の言動」に由来するものだったから、

私が悩んでも仕方ない、と割り切りやすかったではあろう。

でも、「人生、思い通りにはいかないものだ」という発想、

「こんなときは楽しもう」と思える切り替え方をしていた、という話を聞くと、

ある意味、「そのときの現状を受け容れた」とも思える。 周囲をなんとか変えようとしたのではないのだ。

「問題点と思えることが今はそのままであること」を、ゆるしたのだ、と。

この方は、小さいときに戦後の混乱期を経験している。

当時、父親が亡くなり、母親がどんなに頑張っても食べものが少なく、家族みんながひもじい思いをした。

子どもながらに家計を支えるため、今で言う「アルバイト」をせざるを得なかったらしい。

「なぜ?」などと思ってしまったら、子どもだから、よけいにつらくなっていただろう。

そういった「考えても仕方ない、現状を受けとめ、認めるしかない」状況を、

小学生のときすでに、経験したのだ。

そのとき実際、彼女は、自分が頑張るしかなかった。

将来が、とか、「結果」云々ではない。この先どうなろうとも、

現状でもうとりあえず、そうするしかなかったそうだ。

そういう経験をした人だからこそ、割り切れたのかな、とも感じた。

○○という結果や成果を残すため、将来のため、ではなく、今、目の前のことを、できる範囲でとりあえず。

そうやって生きていくことで「いずれは変化が起こって、いいこともやってくる」と、肌で知っていたのかな、と。

これを知ったのは、私が「死」という枠から逃れた後だった。

だから「悩むのをやめるよう頑張る」ということが、どれほどすごいことであるか、よくわかった。

鬱になるほど悩んでいるのに、そこから脱したい、という気持ちだけで、そんな決意ができるなんて。

それを意識的に実行するには、まず、現状をそのまま受け容れるしかない。

現状の自分を、周囲を「もう仕方ない」と割り切り、「気にしない」「悪く考えない」ようにするしかないのだ。

そういう意志の力の使い方もあるんだ、と思った。

「鬱から脱する」という成果を彼女は求め、そのために「現状をあるがまま」にしたのだ。

そこから改めて出発することを、選んだのだ。

私が知っている、唯一の「頑張って鬱から脱した人」は、そういう発想ができる人、である。

何か、参考になれば幸いだ。

自分は完全じゃなくても立派じゃなくてもいい

私は不完全な人間である。

おそれも、弱さも持っている。

たとえば私には、数年前、会う時間が短かったのに、そのときに圧倒されたことが原因で、

今でもあんまり会いたくないなあ、と思う相手がいる。

その人のほんの一部分しかみてないのに「苦手」と判断して、イヤになっているのである。

あるいは、過去にストーカーらしき人にゴミを拾われてしまった経験から、

私はインターネット上で本名や顔写真を明かせない。

これももう何年も前の話で、その相手は私のことなんてとっくに忘れているかもしれないのに、

私自身が勝手に怖がっているのである。

そういう嫌な思い出を、うまく処理することができないし、

第一印象で人を判断してしまい、積極的には会いたくない、と感じたりする。

でも、私は、そういう自分であることを、「まあ、仕方ない」と思える。

私は弱いし、ヘタレだし、面倒なことが嫌いなのだ。

それが、今のありのままの私だから、そのまま、受けとめるしかない。

もちろん、こうありたい、という理想はある。

ストーカーなんて怖がらずにFace Bookにも登録して、そこにいるとわかっている友人と、久しぶりに交流したい。

短時間しか会わなかったその人には、機会を見つけて接してみて、どういう人なのかを

もうちょっと、ちゃんと知ってみたい。

ほかにも、今、できてなくてやりたいこと、こうなったらいいのに、と思うことはたくさんある。

しかし、できないものは、できないんだもの。

あのストーカーさんには二度と会いたくないし、短時間しか会わなかった人に対しても、

不快な思いをまたしたら、もっとその人のことが嫌いになるかもしれない、と思って、それも面倒くさい。

他のことも、怖れなどがいろいろあって、少なくとも今は無理。

そう、それは「今だから」無理なのだ。

もしかして、いつかはできるかもしれないけど、今は無理。

単に、それだけのことだ。

“隣の芝生”はいつも青くて、皆、がんばっているように思えたり、

自分「だけ」が弱くてヘタレでダメダメなように思えることもあるけど、

そういう弱いときも、別に、あっていいのだ。

常に上出来で完璧であり続ける必要はない。

そんな「何でも解決できる素晴らしい人」になったら、今度はそれを維持するのも大変だ。

どんどん、自分に縛りをかけてしまうだろう。

もし、本当にお金の心配も生き方の心配も何もなくて、毎日、周囲にいる人たちから必ず親切にされて、

何の課題も問題も起こらず、ただただ「自分の予想通り」に日々が過ぎていったら?

それは、本当に「幸せに暮らしました」な人生だろうか? 予想がつく人生って、飽きたりしないだろうか?

予想外のことがあるからこそ、それがとてもうれしかったり、心にしみたりする。

であれば、その「予想外」のなかには、いいことだけでなく、当然、悪いことも含まれてくる。

それを乗り越えたときに、達成感を感じたりしないだろうか?

「自分を否定している時期」も、あったって構わないのだ。

うまくいかないからこそ、うまくいくための道を求められるようになっていく。

将来のことを考え、それに向かって邁進する、わくわくできる時期もあれば、休む時期もある。

そういう波があるからこそ、何かを知り、感じ、学べる。

もちろん、だから人生には苦しい思いも必要だ! というわけでもない。

ただ、今「すでにそういう状態になっている」のであれば、

そこから変わっていく時間もまた、あなたの糧になり、この先の人生を彩っていくものになりうる、ということだ。

イヤだとは感じるだろう。でも、不完全で不条理で弱くて情けない自分を味わう時間になっているなら。

それはいずれ、あなたを新たに強く、優しく、大きくしていくための肥やしにできるのである。

だからそうなったのであれば、今はそのまま、それを感じておこう。

共存、しなくても、克服、しなくてもいい。ただ、そのままの、あなたで。