鬱のときに、がんばって「鬱という病を治そう」と思うと、かなり大変である。
「自分の責任」だと思って、自分で自分を追い詰め、病にまで進んだのに、
そこからさらに「結果」を求めるべく、自分を奮い立たせなくてはいけない。
たいていの場合は途中で燃料切れになって大きく揺れ戻り、さらに自分を苦しめる結果になるだろう。
だが、「治す!」という戦いのような思いで鬱に臨んだ人で、私は1人だけ、成功例を知っている。
その人の場合、専業主婦で夫婦ともに年金暮らし、子どもは独立済み、という状況であったから、
「社会的責任」は確かに、条件として薄かったとは言える。
でも、すごいと思ったのは、その「頑張り方」だ。
何をどう頑張ったか。徹底して「悩むのをやめた」のである。
つらい気持ちが出てきても「ああ、もう悩んだって仕方ない。ヤメヤメ」と、
その瞬間、考えるのをやめる……ということを、何ヵ月も続けた。
やるべき家事はただ淡々と、「作業」のようにこなし、気持ちが晴れそうな、好きなことをした。
園芸をし、ラジオやCDを聞き、好きなテレビ番組を観て、小旅行もして、
たまに音楽のコンサートに行ったり、気の置けない友人とお茶をしたり。
その女性の悩みは「他人の言動」に由来するものだったから、
私が悩んでも仕方ない、と割り切りやすかったではあろう。
でも、「人生、思い通りにはいかないものだ」という発想、
「こんなときは楽しもう」と思える切り替え方をしていた、という話を聞くと、
ある意味、「そのときの現状を受け容れた」とも思える。 周囲をなんとか変えようとしたのではないのだ。
「問題点と思えることが今はそのままであること」を、ゆるしたのだ、と。
この方は、小さいときに戦後の混乱期を経験している。
当時、父親が亡くなり、母親がどんなに頑張っても食べものが少なく、家族みんながひもじい思いをした。
子どもながらに家計を支えるため、今で言う「アルバイト」をせざるを得なかったらしい。
「なぜ?」などと思ってしまったら、子どもだから、よけいにつらくなっていただろう。
そういった「考えても仕方ない、現状を受けとめ、認めるしかない」状況を、
小学生のときすでに、経験したのだ。
そのとき実際、彼女は、自分が頑張るしかなかった。
将来が、とか、「結果」云々ではない。この先どうなろうとも、
現状でもうとりあえず、そうするしかなかったそうだ。
そういう経験をした人だからこそ、割り切れたのかな、とも感じた。
○○という結果や成果を残すため、将来のため、ではなく、今、目の前のことを、できる範囲でとりあえず。
そうやって生きていくことで「いずれは変化が起こって、いいこともやってくる」と、肌で知っていたのかな、と。
これを知ったのは、私が「死」という枠から逃れた後だった。
だから「悩むのをやめるよう頑張る」ということが、どれほどすごいことであるか、よくわかった。
鬱になるほど悩んでいるのに、そこから脱したい、という気持ちだけで、そんな決意ができるなんて。
それを意識的に実行するには、まず、現状をそのまま受け容れるしかない。
現状の自分を、周囲を「もう仕方ない」と割り切り、「気にしない」「悪く考えない」ようにするしかないのだ。
そういう意志の力の使い方もあるんだ、と思った。
「鬱から脱する」という成果を彼女は求め、そのために「現状をあるがまま」にしたのだ。
そこから改めて出発することを、選んだのだ。
私が知っている、唯一の「頑張って鬱から脱した人」は、そういう発想ができる人、である。
何か、参考になれば幸いだ。