木元見春 のすべての投稿

うん、私は私でいこう、と

1つ前に書いたブログ記事は、

ここ1ヵ月ほどの職場での経験で、

私は直接、関われない部署の問題だったから

話を聞くだけだったんだよね。

 

Aにこだわって、怒りを吐き出したい彼女の

『気持ち』もわかるから、

まあ、うん、うん、と聞いていたのだ。

 

で、結果的にその、Aをやりたいがゆえに毒をまいていた人は、

職場を去ることにされたので、

そうか、そういう判断もあるよね、と

思っていたのだけれど。

 

去ることが決まってからも、

その方、まだ、毒をまくの。

で、私が

「あのさ、去ると決めたのだから、

だったらいっそのこと、

BやC、試してみたら? そういうやり方もあるけど?」と、

思わず言っちゃったら……。

 

はい、みごとに、スネられました(^◇^;)

まあ、私には毒をまかれなくなられたので

それはそれでいいのだけれど、

私に対しても怒っていることは明白(笑)

 

私、Aの方法の否定はしなかったんだけれど、

その人は、Aも自分も、否定されたと感じたのだろうな。

 

他者は自分の鏡だ。

こだわりすぎるからこそ、

他者を否定して『先にあなたが』批判するからこそ、

少しでも違う意見はすべて『自分への批判』として

受け止めることになる。

 

確かに、いわゆる『一般的』な感覚とは、

違うルールがある会社なんだなー、ということは、

毒を聞いていた人も皆、それぞれ感じていて、

じゃあその『違い』の中で、自分はどうするのか、

という覚悟の話なのだと、私はずっと捉えていた。

 

もう1人、それに近い感覚の人がいて、

私はBを貫くぜ、とやっていたので、

まあ、そうなるよね、私はCというよりDなんだけれど、

みたいな会話も、Bの人とは通じていた。

 

そしてBの人は、

私がかの「お姉さん」をほぼ完璧に

スルーしているのを見て、

それ、どういう感じでやってるの? 

なぜできるの? と、尋ねてきた人でもあった。

 

見渡してみること、

自分と違う感覚の人がいて、ラクそうに見えたら、

臆せずに尋ねて、良さそうなら採用してみる、

練習してみること。

 

その感覚を持てるかどうかは、

その人の勇気次第だ、ということも、

学ばせてもらえたよ。

 

Bの人とは、ま、半分苦笑なのだけれど、

おかげで日々、起こる不思議(笑)を、

笑いながら報告しあえるようになった。

 

そういう毒の解消方法も、あるんだよ。

そして私は、解消するときにすら、

『自分が不快さを引きずりそうな』言葉は

避ける練習を始められ、

どうにもキツイときだけ、

ゴメン、聞いて! キツイ表現使う、

あれは無礼すぎる! さすがにイヤだ! プンプン!

みたいなことをBの人に聞いてもらって、

昼休みにスッキリ感を得たら、午後にはちゃんと

気持ちを切り替えて仕事を楽しめて、

帰り際に、Bの人に「本当、ラクになった!

ありがとう-! 軽くなれたよ!」とお礼を言える好循環。

 

そして毒をまき散らす方は、だんだん、

まき散らせる相手が減っているので、イライラ度が上がりつつある……。

 

そんな練習をさせてもらえている日々です。

今回は私の例でゴメンね。

吐き出し方、吐き出す相手、

吐き出す言葉を意識してみるのって、

いい練習になるよ。

 

誰か何かの参考になれば、幸いです。

 

ちなみに「お姉さん」のことは昨年以来、

ブログ内でポチポチ、書いているので、

知りたい方は検索してみてください。

私が『スルーの仕方』練習をさせてもらえている相手です。

今はほぼ確実な心理的距離を置けていることが多くて、

「私は」安泰です。

 

まあ、どうしても仕事では絡むから、

ごくたまに流しきれずに「ヒデーな、これ」はあるけれどね。

そして相手の気持ちは相手の問題なので、よく知らん(笑)(^^;)

 

心理的には、これくらい遠い距離の人と割り切ってるよ。おかげでラク(笑)
            

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Photo by Insphoto
Pixabay

 

Aというやり方しか、やりたくないのに!

Bは違う!

Cも違う!

私がよいと判断したAをやってるのだから、

そしてAが、いちばんいいのだから、

周囲も協力すべきなのに!

 

うん、

Aは「よいやり方」のひとつではあるけれど

それひとつしか、よいものがないわけではない。

BもCも、あなたにとっては「損をする」と思えるから、でしょう?

 

Aなら、

あなたにとっていちばん都合がいい、

いちばんラク、

いちばん心地よく、いける、と。

 

だったら、

あなたはあなたで、Aのやり方を貫けばよくて、

でもあなたの周囲は、たまたま、

Aには反応しません、というタイプの方々だってこと、だよね?

 

なら、自分からBやCを試してみるか、

Aを貫き通したいのは私だわ、と思って、

割り切って貫けば、いいだけなのでは?

 

なぜ何十回もAをやって、あなたの周囲に

通用しないたびに

周囲は勝手すぎる、わかってない、と怒って、

話を聞け、

と、関係ないところにまで毒をまき散らすのだろう。

 

その手の毒のまき方って、疲れるのにな、

と思えるタイプである私から見れば、さ。

 

そういうことをやってるあなたもまた、

自分のやり方ばかりにこだわっていて、

ある意味じゅうぶん、自分勝手に思えるのだけれど。

 

と思ったら、これまたひとつの

「母子一体感を求めるゆえの所業」と言えるのか!!

つまりは自分と他者との距離感の捉え方が、違うのね。

求め具合が「子ども」的、なのね。

タイムリーな記事、シェアしておきます。

数分後に出会っちゃった、わー(^◇^;)

◎衛藤信之さん
『収穫の時』http://amba.to/1SWatV3

 

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Photo by Alexas_Fotos
Pixabay

 

さらに、追伸。鬱の自覚がある人へ

探しにいくための、心の体力は、

身体の体力を取り戻していくと、

『徐々に』取り戻せます。いっぺんにではなく。

 

ですからまずは、

自分のために、眠ってください。

自分以外の何かのために、

外側の世界に格好つけるために眠るのでなく

「わからない」の次を、始めるために、

心の体力を「自分が」取り戻してください。

 

その今の「罪悪感」的なものもまた、

あなたが他者軸を意識しまくって

それを自分の中央にドンと据えている証拠。

だから「何かを他者から言われないように」努力しているのです。

 

そういう捉え方をしているのは「自分が選択している」わけだから、

その「選択」を別のものに変更するかどうかのも、

また、自分自身です。

ま、見栄張り度が高い人には

キツイ言葉だけれどさ、これ。

 

だから「心が」疲れ切っている今は、

まず自分のその状態を本気で認識する、

ところから練習、始めてください。

 

疲れている人に「何やってるの、ちゃんとやれよ」

と言ってるのは、あなた自身なんだよ?

 

まともに眠れてさえいないのに、

いつまでそんな捉え方、続けたい?