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「弱い」は強い。

ひとつ前のブログでタイトルのこの言葉を書いたとき、ああ、自分の弱さを認めることについて

掘り下げていくのか……この言葉、とうとう書いちゃったよ(^^;) と、思っていた。

なぜならこのテーマについては、私もまだまだ、まだまだまだまだ!(笑)探求中、だからだ。

っていうか、これって、人生のなかで常に起こってくる話だよな、別に鬱じゃなくても……と思う。

弱さを認めること、ってどういう意味なのか。

私の感覚では、「弱い自分もそのまま好き」、少なくとも「OK」でいられるようになる、ってことだ。

ほかにも「肯定」とか、「ゆるし」とか、まあ、いろいろな表現はあると思うけれどね。

まずは、子どもの頃を思い出してみよう。

何かで失敗しちゃった……とする。

鉄棒で逆上がりができない、とか、テストでうっかり答えを書き間違えた、友達と言い争いしちゃった、など。

今から考えればたいしたことのない話だけど、人生で、そういうチャレンジしかなかった「初心者」の時代だから、

自分のなかでは結構切実な、「ああ、やっちゃった……」「どうして……」というテーマであったはずだ。

このとき。

確実に言えると思うが、「だから自分はダメだ。死のう」とまでは、思わなかったはず。

ここでは、イジメとか虐待とか、そういう重くのしかかってくる問題は、また別の話としてほしい。

「失敗した」自分を「だから自分はダメ」に置き換えなかったはずだ(そもそもこの「失敗」というのも、

エジソン的に言えば「うまくいかないやりかたを新しくひとつ、覚えた」ってことだ。

そう捉えれば学びでしかないんだけどね……)。

「ダメな出来事 ≠ 自分はダメ」。イコールじゃなかったのだ。

「どうしたらうまくいくんだろう」「どうしたら仲直りできるんだろう」と悩んで、新たな方法を模索はしても、

「なんで私はこうなの! 私なんてもうダメ!! 大嫌い!」

と、強く自分を卑下することなんて、あっても一瞬だったはず。

しかもその卑下すべきところは「自分のなかの一部分」であって、

自分を死に追い込むほど全部、ではなかったはずなのだ。

たぶんそのとき、あなたは、「反省」はしても、「自分を全面的に嫌い」ではなかったのだ。

これが、私のいう「弱い部分も自分にある」と認める状態だ、と言えば、少しは理解しやすいだろうか。

そして今も、そういう観点から見れば、そこまで自分のこと、実は「嫌い」ではない、ということも。

起こってしまった出来事に対し、どう反省して「次」を生み出せばいいのかがわからず、

その「わからない」ことが今、つらくて、「死」という手段を使ってでも、そこから逃げ出したいのだ、と。

それなのに、「逃げ出したい自分」をさらにまた「弱い」と感じ、そこだけを今は見て、

「だから自分はダメ」につなげて全否定してるのだ、と。

言葉で書くと、難しい。図にしてみるね。

子ども用か! というくらい、簡単だけどお許しを(^^;)

yowaithuyoi

ものすごく単純に図式化すれば、こういうこと。

私の話している「視点の違い」が、わかるだろうか。

「弱い」自分を知っていること。でもそれが自分の全部じゃないし、どうすればいいのかな、って部分も、

即、解決できないのなら、もう死ななくちゃいけない、という話ではない。

あなたは、そんな「弱い」だけの人間じゃないのだ。

黄色い部分まで含めて全部「自分」、そういう自分が「まあ、ダメな部分もあるけどOK、やっぱ好き」であれば、

ただ、それでいいんですよ、と。弱い部分もあると知ってれば、強くなれるんですよ、と。

次はどうしたらいいのかな、と考えていけば、いつか成功にも辿り着く。本当はね。

今は、そう思える心になれるように、その「病気」を治すほうが先決だけど。

あと、もうひとつの利点。自分の弱い部分を認めると、他の人の弱さもある程度「見逃せる」ようになる。

ああ、この人の場合は、こういう部分が弱いんだな、と、思えるようにもなるのだ。

それもまた、自分が強くなれる、って話につながると思う。

最後に、たまたま巡り会ったカウンセラーさんの本をご紹介。

この話を書こうとしたら、今日、そのタイミングで、まさにこういう話に巡り会ったから、

たぶん、お役に立つと思います。直観だけど、なんせ目次がもう、そのまんまなので(笑)

ブログページごと、リンクを張っておきますね。書道家の武田双雲氏が、ツイッターで教えてくれた先生です。

心理カウンセラー 心屋仁之助 公式ブログ 「心が、 風に、 なる」

5/10日更新 「心屋動物園にコアラがやってきた」

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-10887248708.html

自分を信じる、好きになる、ということについては、また明日以降……。

相手に、気持ちが通じないとき

鬱々とした気分のときに限って……という前提で、この話を進めたいのだが、

誰かとの関係で、どうしたらわかってもらえるのだろう、と、悩むときがある。

いろいろ言葉を尽くしても、言葉尻を捉えられて誤解されてしまったり、

取りつくしまもなく拒否されてしまったり。

とくに、こちらは落ち着いて説明しようとしているのに、相手が怒りを見せて拒否されると

それだけでもう、がっかりする。

自分が悪いと思いあたる点があるなら、素直に真摯にそのことを謝り、

相手の怒りが静まるのを待つこともできるが、

相手の真意を測ろうとしたり、こちらの意図を説明しようとする場合は、

聞いてくれないというだけでもう、疲れ果ててしまうこともあるだろう。

こじれている、とか、相手が意地になっているような状態である。

そうでなくても今、自分は心が苦しい状態にある、という人は、

そうして説明するときにも自分の苦しさが表れてしまわないか、ビクビクしたりもするだろう。

痛んでいる自分に、引け目や負い目を感じていたら、そんな態度もありえる。

そしてその態度を見て、相手は余計にイライラする、なんてことも起こりうるのだ。

で、うまく言葉が通じないと、何をやってもダメ、と自分をさらに卑下したくなったり、

必要以上に相手に失望を感じてしまうことにもなる。

すごく冷静に、客観的にその場面を考えてみた場合。

もしかして、あなたも相手も、どちらもまともに話せる状態ではないということは、あり得ないだろうか。

怒り、怖れ、おびえ、自分かわいさ、などに、それぞれお互いが支配されてしまっていて、

相手の思惑や立場などを「正しく把握できる」状態じゃないってことは、ないだろうか。

普通、冷静に話していても、人と自分の考えた方が違ったり、価値観が違ったりすることはある。

理解できない、納得できないことは「普通に」あるのだ。

それをさらに、そうした感情でこじらせてしまったら、すんなり和解し合うことはかなり難しいだろう。

そんなときにひとつ、言えること。

あなたがその人と本当に和解したいのであれば、「ときを待つ」ことが必要だろうと思う。

あなたは、痛んでいる。相手は、意固地になっている。

そんなときに「相手に届く」言葉をみつける、その言葉を「届くタイミングで」伝える、というのはかなり難しい。

相手の意固地だけならまだ、機嫌のよいときに話せるが、その際、自分が自然体で接することができないと、

その態度によって伝わるものも伝わらない、なんてことも起こりうるのだ。

鬱々とした気持ちなんて、たとえば病にまで達していたら、すぐに治るはずはない、と思うかもしれない。

それも、その通りである。つまりは順番が間違っているということなのだ。

自分が自分のことを嫌いなのに、人に好かれるために和解を求める? あるいは、ご機嫌をとる?

それはどうして? たとえば家族なら、暮らしていくためとか、お金のため?

あるいは、ひとりぼっちが単純にこわい、とか?

お金のためなら、最低限「相手を極力、刺激しない」ようにすればいい。即座に和解まで求めなくてもいいだろう。

ひとりぼっち、というのは、本当は見方を変えればそうではない。

そもそも結婚していたって、あなたと相手は、別の人間である。違いは、必ずある。

友達だって、すでにそのような状態になっている場合は、無理をすると「媚び」と受け取られてしまう。

はっきり、書いてみる。気持ちが痛んでいるからこそ、だけど。

もしかして「相手に認めてもらうことで自分の価値を見つけようとしている」部分は、ないだろうか?

……キツイところを、突いてしまっているかもしれない。

でも、もし「他者によって、自分がいる価値を自分に認める」ことを、多少なりとも求めているのであれば。

そんなことはもう、本当にまったく、しなくていいんだよ、と言いたいのである。

あなたは、自分自身でもっと、自分のことを好きになってあげていいのだ。

こんな私のことを、どうやって好きになれというのだ、と思うかもしれない。

何をやっても今はうまくいかないし、暗いし、立ち直り方もわからないし。

だって、それが「鬱」という病気の、症状なんだもの。

風邪をひいたときに、くしゃみや鼻水が出たり、発熱したり、咳が続くのと同様、

自分を卑下することも、先の見通しがすべて暗い結果に終わることも、病気ゆえの症状である。

自分は今、こんな状態だけれど、そうなっているのは病気ゆえであって、

そんな病気にかかる、弱い自分もいたんだ……と、認めてあげればいいのだ。

弱い自分は、自分のなかに存在する。同様に、本当は強い自分も、自分のなかに存在している。

今は、強いほうは隠れてしまっていて、自分にはみえなくなっているけれど。

少なくとも、自分を卑下したり、ビクビクしたりすることがなくなれば、

あなたは「相手のこと」だけを、きちんと見ることができる。

そうして初めて「どうしてこの人はこんなふうに話を捉えるのだろう」

「何が、この人のなかでこういう“拒否”の態度を取らせるのだろう」というふうに、

相手のことを、冷静に客観視できるのである。

関係がこじれてしまっている相手とは、そうした距離感を保ちながら、話していく必要がある。

和解の糸口を見つけるためには、「自分はいつでも、どんなときでもその自分でよい」というような、

ある種の安心感、自信のようなものが必要なのだ。

……そのように考えたら、今は、和解のために、と無理をしなくていいことも、わかってもらえるだろうか。

何より先に、あなたが、弱い部分をもったあなた自身を許してあげることが、

一番、大切なのである。

そして、弱い自分を認めることは、これから先の自分が「人生で最も強くなる」ための

第一歩であるということも、心のどこかに留め置いてもらえたら、と思う。

弱いことは、強い。この一見、逆説的なことを、頭でなく感覚でわかるようになれば、

人との関係もまた変わっていくし、今のように無理をしなくても、変えていけるのだ。

「いのち」というものをもった自分という存在

私たちの身体は、あまりにも強い衝撃には耐えられない。

酸素がなくなったり、栄養を吸収できなくなっても保てない。

それなのに、やわらかい皮膚を持ち、わりと大雑把な仕組みの「五感」で外界を判断し、

事故や病気などから自分を護りながら、生きている。不安定とされる、二足歩行で。

脳は、さまざまな判断を行っていくために徐々に大きくなり、

生きていくための重要な行動である「移動」のために車や飛行機まで操れるようにもなった。

移動距離を飛躍的に伸ばし、自分の縄張りを越えたところでも他の人間と交流し、生活を営むようになった。

普通の人でもそういうことができるようになっていったのは、ほんの200年ほど前くらいからの話だけれど。

もともと私たちは、自分の体内で栄養分を生成できず、常に「食物」を必要としている。

植物を他の動物が利用するようになってから、長い長い年月が経ち、こうした「いのち循環」を作り出した。

なぜ、そうした形で「いのち」というものが維持され、新しい「いのち」をつないでいくようになったのか。

その本当のところは、誰にもわからない。

わかっているのはただ、そういう「仕組み」であることだけだ。

この「いのち」という仕組みに、何の意味があるのか。

どうして私たちは、動物や植物は「生きている」のか。

神様がいて、その人が仕組みをつくった、という話も、正解か不正解であるかは、

誰も正確には、答えられないのである。

でも、たとえば今、私は椅子に座り、PCにむかって文章を書いている。

その「私」という人間は、ここにいる。

私のいのちは、私の内側にある。

それは、紛れもない事実である。

この五感で捉えた世界のなかで、私が生きること。

食事を食べ、寝て、起きて、活動して、ということを行うのは、私自身の判断だが、

生まれてから今まで、そうやって日々を過ごし、やがて「老い」と呼ばれる成長の最終段階を経て

死を迎えることは、私の判断ではなく生命体としての「仕組み」なのだ。

そんなふうに考えると、この私というものは、「すべて私だけのもの」ではないような気がする。

何かがあって存在させられることになった、もともと受け身の部分を持った存在。

わりと弱い、でも複雑な身体の仕組みを「持たされた」うえで誕生したもの、という気がする。

どんなに生活が便利になり、さまざまな医学的・技術的進歩があっても、

やがて身体は衰え、呼吸が止まる日が来る。

そのとき、自分がどういう気持ちで死ねるかはわからないけれど

(もちろん、途中で意識がなくなってしまう可能性もあるけれど)、

願わくば、与えられた「仕組み」をつかって、お迎えが来る最後の瞬間まで

温かい気持ちや穏やかな心をたくさん感じていきたいと思う。

この仕組みは、宗教的な感覚の人が言えば「生かされている」ことになるのだろう。

せっかくそのような「いのち」をもった形でなぜか今、私は存在しているのだから、

自然に呼吸が止まる最後の日まで、それを、自然に感じていきたいと思う。

つらいことも楽しいことも、まだまだこれから、たくさんやってくるだろう。

それを自分がどう感じ、どう越えていくのか、捉えていきたいと思う。

そう、一度限りで与えられた、この身体、この気持ち、この「いのち」なのだ。

もっと、あるいはもう少し大事にしてあげてもいいのだと、私には思える。