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弱さを認めるために

心と身体は深く関係しているので、心が弱ると身体も弱る。その逆も起こる。

そうして弱っていったときに、何かで徐々に切り替えていければいいのだが、たまたま痛む出来事が

重なってしまうことがあると、そこから抜け出せなくなり、「何もかもダメ」という気持ちになっていく。

病は気から、という言葉があるように、そうなってくると体調もますます狂いがちになる。

持病の悪化や体質の変化を招くのだ。そして、がんじがらめになる。

今回の天災のように、突然降って湧いた出来事には、誰も、太刀打ちできない。

そうして一気に、落ち込んでしまった人もたくさんいる。

これは被災地だけに限らない。

津波映像を見て、あまりのひどさにショックを受け、引きこもりのようになってしまった方も大勢いるのだ。

今回の震災そのものについて、今日の話の例えに出すつもりはない。

なぜならまだ、あまりにいろいろなことが現在進行形で混乱し続けており、先行きが見えなさすぎるからだ。

だから震災前から痛んでいて、今、さらに苦しくなっている人に向けて書いてみたい。

自分の人生になんとなく青写真を描こうとし始めていて、それがうまくいかず、苦しい人に向けて、だ。

仕事の面で、段取りや予定が狂った人も大勢いるだろう。

震災はさまざまな方面へ影響を与えているし、いろんな形で、人の心を痛めさせたから。

そういう前提で、書き進めていく。

弱っている自分がいて、なんとかそこから脱出しようとするときに、よく聞く言葉がある。

本などにもたくさん書いてあったのだが、それは「そうなってしまった自分を許す」という言葉だった。

簡単に言ってくれるな。こんな今の自分を、そうそう許せるはずはないじゃないか、と、私も思った。

でも、まずは単純に考えてみよう。

通常、何か問題やトラブルが発生した場合、その解決を図る手順はこうなる。

現状の把握 → 原因の追究 → 改善案の作成 → 実行

そのこと自体は、間違いではないだろう。

そして現状の把握とは、今、自分が「どうなってしまっているのか」を分析することであり、

原因の追究とは、「なぜそうなったか」を探ることである。

このときに「こういう理由でこうなった」と、見つけなくてはいけないのだ。

そして、その見つける、という部分が、また「今の自分の現状を認める」ことにもなる。

自分の現状を認めるというのは、自分は、こんなところが弱かった、と、認識すること。

その弱さを、自分でしっかり把握すること、である。

そして改善していくにあたり、それを「許す」こともまた、必要になるのだ。

「すでにそうなってしまっている自分」である、という立場から始めないと、

新しいしっかりした改善案は作成できない。

過去の原因だけ追究しても、現状を把握していなければ、また別の段階で失敗するだけだろう。

このように書くと、自分を許していくことは、避けては通れない道であることが、少しはおわかりいただけるだろうか。

ありのままの現状を認め、その状態から、自分を立て直す基盤をつくっていくには、

まず何より、「ありのままの自分」そのものを、自分に許さなくてはいけないのだ。

それを否定し続けることは、自分の現状を認めないことになる。

つまり、失敗した自分というものを、認めないことになるのだ。

そりゃあ、そのままでいる限り、どんどん自分のことがイヤになるよね。

そんな状態で改善を図ろうとしても、しっかりとした基盤をつくって持ち直すことは、ものすごく難しい。

自分を見ないまま、表面だけ取り繕うようなものだもの。どこかでまた、別の形でほころびが生じる。

もちろん、何度も書いてきたように、「揺り戻し」はたいていの場合、起こる。

三歩進めば二歩下がるだろうし、もしかして三歩、四歩と下がってしまうかもしれない。

でも、三歩でも進めれば、たとえ戻ったとしても、その三歩分をまた歩き直すことは前より容易にできる。

その部分でもどかしさを感じても、自分の努力を認めることで、より早く、元の三歩先まで再び進むことができるのだ。

こうやって、「気持ち」という部分を脇に置き、理性的な言葉で語れば、なぜ、今の自分が

うまくいってないか、とか、改善に至る過程のどの部分にいるのかは、少し理解できるだろう。

やっかいなのは、その「気持ち」の部分だ。

見たくない、認めたくない、許せない(自分のことも、相手がいる場合は相手のことも、ね)。

感情というものは、理性で制御できるわけではないので、そうそうすんなりと、いくはずもないのだ。

でも、あえて考えてみてほしい。「イヤだもん!」と思って、自分を、自分の状況を否定し続けて、

何か変わっていくだろうか。感情だけを「あるがまま」にさせておくことで、あなたは、

新しい自分になれるだろうか。

震災だって、気持ち的な部分では、本当に日本全国の人が、心を痛めている。

沖縄だろうが九州だろうが関西、四国、東海だろうが北海道だろうが、その気持ちの部分では関係ないのだ。

では、そうやって気持ちに振り回され続けて、体調も崩して、あなたは、そのままでいいの? と聞かれたら、

もちろん、答えは「No」だろう。

であれば。

「こんな私はイヤ」というところから、少しずつでも「今の私」を認めていくしかないのである。

そうなってしまった「弱い自分」であることを、自分に許してあげたほうが、結局は早く改善できるのだ。

そのために、プロのカウンセラーがいる。病院がある。さまざまな集まりや、吐き出し口としての

電話(この相談窓口もあるよね)、ブログ、手紙、会話。知識としてのネットや本、そういうTV番組。

手段は、あなたに合ったものを探せばいい。

自分の弱さを認めることは、何も、自分を卑下することではない。

そういう心の問題は、今の日本を見てもわかるように、誰の身にも起こりうるのだ。

そして、どんな原因でそうなってしまうかも、千差万別なのである。

それを「自分だけ」が悪い、弱い、どうしようもない、と、さげすむ必要は、本
当に、本当にない。

あともうひとつ、弱っている自分を、まるで非難するかのように、ガンガン追究しないこと。

だんだんと「許していく」のだから、それこそ今からは、自分に優しくしてあげよう。

日々のニュースなどで心が痛む人は、たとえば昨日、私が書いたように、光で自分を守ってあげてほしい。

身体の中心から四方八方に光を広げ、さらに身体の外側にまで、卵のように自分を優しく包み込むような

光を広げていくイメージを思い浮かべてもいいだろう。

こうしたイメージングは実際に、身体と心をゆるめてくれるのだ。

その光のなかで、他人やテレビからの影響を受けず、ゆったりとまどろむ自分を想像するとか、ね。

その光は、あなたをこれから先、明るい方向に導いてくれるお守りのようなものだから、

つらいと感じるたびに、思い描いてみてもいいだろう。

もう、本当に、使えるものはすべて総動員するつもりで、自分を痛めつけることをやめ、

優しく、柔らかく、原因を探っていって、今の自分であることを認め、

そうあることを仕方ない、ここからだ、というふうに、許してあげてほしいと思う。

これだけは、私自身がはっきりと経験したので、約束できる。

弱さを認めることに挑戦する価値は、十分にある。

そのあとあなたは、まったく別の部分において、ものすごく強いものを手に入れる。

必ず、手に入れるから。

こころに光。

今日は、一種のイメージトレーニングのような話を。

といっても、何かで覚えた、というのではなく、強いて言えば、さまざま読んだ本から得た瞑想法のようなもの。

宗教組織の何たら、とかいうものではないので、その点はどうぞご安心を。

子どものころは、鬱になるほど、人生に悩んでいなかった、という人は多いのではないだろうか。

もしかして、中にはそういう人もいるかもしれないけれど、少なくとも小学校の中学年くらいまでは、

生きることはそれほど難しくなかったはずだ。

そのときには何の責任もなかったから、とか、いろいろ比較をしそうになるが、

少なくとも「自分の毎日」があることに、深く疑問を感じなかったと思う。

朝起きて、眠くてもなんとなく起き上がって、ああ、学校行くのは面倒だな、と思ったとしても、

少なくとも日常的な「今日」という日は、怖くなかったはずなのだ。

それはなぜだったんだろう。

親の管理下で選択肢が少なかったこともあるだろうが、

自分を疑う、という経験が、基本的になかったからだ。

イメージ的にも、確かに未来は明るかったけど、日々のくらしのなかでは、そんなところにまで

思い至る小学生は少ないだろう。

勉強や運動で悔しい思いとか、自分を卑下することはあっても、自分を根本から、否定することはなかった。

そうやって自分を信じていることで、毎日、なんとなく、

何かで楽しくは生きられることを、感覚的に知っていた。

それが自然に、できていたのである。

責任がなかった? いえいえ、学校には行かなくちゃいけなかったし(私の世代なら土曜日も学校に

行っていたはずだ)、宿題はあるし、友達との約束も果たさなくちゃいけないし、お小遣いは少ないし、

親にはいろいろ指導(という言い方にしておくよ)をされるし、結構、やらなくちゃいけないことは多くて、

制限も多くて、不便だったはず。

なのに、自分については「だいじょうぶ」だったのだ。

不思議だね。そこには、なんの根拠も要らなかった。

いつから、私たちは「周囲と自分」を比較し、自分を否定し、苦しめるようになっていったのだろう。

そういうものだ、と、自分をあきらめ、自分をさげすむようになっていったのだろう。

昔よりずっと制限は減り、自由を得て、自分でできることも多くなっているはずなのに。

いつから、自分を認める根拠を何かに「頼って」、求めるようになっていったのだろう。

そんなふうに考えたとき、あることを思い出した。

新しい何かをしなくちゃいけなくなったとき。進級でも進学でも、失恋でも、新しい勉強でも、

何でもいいや、そういう「新しい生活、新しい生き方」を考える場面に出会ったとき。

できるかどうかはわからないけど、仕方ない、変わらなくちゃいけないから、やってみよう。

それに、こっちのほうが、楽しいかもしれない。

そういう明るい気持ちで、選択していたのだ、と。

自分を新しくしていくときに、心の中には「前向きな気持ち、明るい気持ち」があった。

選択する基準は、自分にとって、基本的に「明るい方向」だったのだ。

これを、いま、抽象的な言い方に置き換えてみよう。

私たちは本来、心の中に「だいじょうぶ」「これでいい」という“光”を常に持ち、

その光に沿って、動いていたのだ、と。

いつから、その光を感じなくなったのだろう。

いつから、その光に逆らって、自分にとっての「暗い選択」を、していったのだろう。

試験がダメでも、恋がダメでも、親に叱られても、次に生きていく指針は「光」、明るい方向だったはずなのに。

でも、その光を、失ったわけではない。

ただ、周りと自分を比較して、自分のことより周囲の状況を優先して、

それに合わせて「都合がいい」ことだけを選んでいくようになった。

自分が光からではなく「恥ずかしい」「格好悪い」「みんなと足並みを揃えてないと」という

別の基準から、ものごとを選ぶようになっていったのである。

それが自分にとって明るいか、暗いか、ということではなく。

そうやって私たちは、心のなかの光を少しずつ、別のもので覆っていってしまったのである。

その光は、どんなにいろいろ制限があっても、結構、そこそこ楽しく生きていけるような、

ステキな選択基準だったのに。

じゃあ、その光を、思い出してみようよ。実は、消えてないから。

決して、あなたのなかからなくなったわけではない。楽しい「感覚」は、身体の中に、染みついている。

昔は気楽でよかったなあ、とは、思えるはずだ。

ということで、それを思い出す練習。

横になって、あるいは、椅子にゆったり座って目を閉じる。

そして感覚的に、身体の中心、心臓のある辺り、あるいは胃の辺り。

私の場合はなんとなく、胃の辺りになる。身体の中心線、

胸の肋骨の一番下の骨を、片手の親指で押さえ、次におへそを小指で押さえてから、

そのままゆっくりと、指を閉じたところ。胃の真ん中? くらい。

そんなふうに、思い描く場所はどこでもいい。

そこに、光を、感じてみるのである。

どんな光か。

もう、まったく、何ものにも負けない、太陽のような光が、そこにあるというイメージ。

絵に描いた太陽ではなく、空に浮かんでいる太陽。

あの白くて少し黄色い、みつめられないほど強い光が、あなたの身体の中心に、存在している。

イメージしてすぐに、強く四方に光を放つ球を思い浮かべられる人は、少ないと思う。

何かに、覆われているように感じる人もいるだろう。

その場合は、覆いを壊そう。イメージの中で、物理的に、でいい。

カチカチの黒い玉の覆いなら、カナヅチで何度も叩いて、貯金箱のように割ってしまおう。

「にかわ」のようなものでくっついた、ゴワゴワでベタベタの、みの虫のような覆いが思い浮かぶなら、

ピカピカの、ダイヤモンドのような、水晶のような、ものすごく美しい、絶対折れない大きな針を、

その覆いにスッと差し込もう。針を抜けば、そこからすでに、一条の光が現れる。

あとは、針で穴を広げていくのでもいいし、途中でノミとカナヅチに持ち替えて、少しずつ、

隙間を広げていってもいい。

光は、どんどん見えてくる。急がずに、ちょっとずつ、イメージしていこう。

最初は、虹色に輝く美しい透明の針でスッと穴を開けて、光を漏れ出させるだけでもいい。

やがて、最後の覆いのかけらも消えて、小さな強い太陽が、姿を見せたとき。

手をあてて、その光を、感じてみよう。

その光は、ずっと、あなたの中にあったという感覚を、安心感を、感じよう。

そう、確かにずっと、あったのだ。

温かさを、感じる人もいるだろう。身体の力が少し抜けたと感じる人も。

気が済んだら、ゆっくりと目を開けよう。それでもう、あなたは、光を取り戻せた。

これからは、何かあるごとに、手をあてて、そこに光を感じてみるといい。

光を、思い出すだけでいい。それだけで少し、柔らかくなれる。

たとえば選択肢にぶつかったときには、その光を思い浮かべてから、選択肢を見つめてみる。

暗い選択肢は自然に、光に負けて消えていく。そう、もうこれからは、

それを無理に選ばなくていいのである。

とてもイメージ的な話をしたが、一種のトレーニングになると思う。

つらい気持ちのときなどには、ぜひ、やってみてほしい。

人は、一人ひとり、絶対にそういう「光」を、生まれたときから心の中に持っているのだ。

それを思い出し、ふたたび、新しい自分への支えにしていってもらえれば、と思う。

「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉(2)

さて、昨日のつづきで、今日は「ごめんなさい」について。

ごめんなさい、すいません、申し訳ありません。

これは、鬱の人が常に抱えてしまっている言葉、と言っても、差し支えないと思う。

家族に、会社に、友人に、社会に、迷惑をかけている、という思いがあるからだ。

こう書くとシビアに聞こえるかもしれないが、病気になった人なら何にせよ、そういう思いを抱く。

風邪を引いて会社を休むときにだって、上司にひと言くらい謝るだろう。

鬱だから特別、という話では、本当はないのだけれど、

この病が治る期限が自分でわからないため、罪悪感をより抱えてしまうのだ。

ただ、自分に「これは病のひとつなんだ」という自覚があれば、まだマシだと思える。

やっかいなのは「そんな自分に変わってしまったんだ」と思うこと。

そう考える人には、「だから、病なんですってば!」と、私は強く主張したい。

性格は、この病気の発症に絶対的な関係ない。強気な人も弱気な人も、なるときはなる。

強いて言えば「真面目、責任感」の強い人よりは「いい加減」(これはいい意味で「よい加減」)な

人のほうがかかりにくいかもしれないが、それでも、絶対にかからない、とは言い切れないだろう。

いずれにせよ「ごめんなさい」は、心の中でその気持ちを抱きやすい分、

鬱の人にとって「ありがとう」よりは口にしやすいだろう。

が、しかし。

そんな、ある意味、卑屈な気持ち(という言い方を、ワザとしますよ)で使っても、効果はない。

想像してみてほしい。自分が子どもだったとしてみて。

クラスに、いつもイジイジと暗い気持ちで、おどおどしているクラスメイトがいる。

何かするたび、その子がちょっとした失敗をしては、ビクッとしながら「ごめんなさい」とつぶやいたとしたら。

そのとき、あなたは軽い苛立ちとともに、「はあ……」というため息しか出てこないのではないだろうか。

だってその段階で、本人がもう、自分をあきらめているのだ。そういう自分を卑下し、人の下に立つように、

上目遣いでこっちに謝ってくるのである。

……気持ちは、決してよくないよね。そういうシチュエーション自体、つらい。

そう、あなたが暗い気持ちで人に謝るときには、そのビクビクした子どもになってしまっているのだ。

あなたは、「自分が自分をあきらめている」ことを、相手に暗に示してしまっている。

相手は、困るだけだろう。

じゃあ、どうしたらいいと思う? あなたは、その子どもに「もっと自分に自信を持とうよ。

いつかは、うまくできるようになるよ」と、言いたくならないだろうか?

私が「病」と言っているのは、同じ意味なのである。

あなたがどう思おうとも、自分の「感じ方・考え方」によってその病にかかったのであれば、

自分で治すことも、またできるのだ。

ただし、病を知らなかったときと同じ状態に戻るのは、ちょっと難しい。

でも知らなかったから、そんな「罠」のような考え方に落ち込んだ、とも言える。

せっかくそういう経験を経て罠を知ったのだから、二度と同じ状態には戻るな、と言いたいくらいだ。

さて、そういう病気のときには、自分が「ごめんなさい」を卑屈に使う可能性があると知ったうえで。

相手に、何らかのお詫びの気持ちを伝えたくなったときは、どうするか。

自分のその「卑屈さ」を、脇に置いてほしいのだ。

お詫びの気持ちは、今の自分の卑屈さとは、本当は関係ない。

そういう病の状態であること、そのものを詫びたくなったとしても、

相手に対して「申し訳ない」と思う気持ちは、卑屈な気持ちからではなく「反省」の意味で使ってほしいのだ。

反省。

わかるだろうか。反省するってことは、やがてその状態から抜け出すことを意味する。

そうなるよう、努力していきます、という気持ちをこめた、静かな心が必要なのだ。

そもそも鬱という病にかかる前なら、謝るときに、自然とそういう使い方をしていたはず。

自分自身で何か、悪いと思ったときに、「もうしません」的な気持ちをこめて、謝っていたはずなのだから。

逆に、うまく謝れないときだってある。

世をすねて、自分のしたことを振り返れないようなとき。悪い気持ちで開き直るとき。

ケンカをして、とにかく怒ってしまっているとき。

本当に相性が悪くて、相手にひどく傷つけられてしまっていて、関係を修復したくないなら、

謝る必要はないこともある。どうしてもどうしても合わない人とは、縁を切ればいいと、個人的には思える。

そうではなく、本当は大好きで、あるいは尊敬していて、その人と縁を切りたくはない、というとき

(あ、ここではあえて「愛」は、はずす。「愛」の形がゆがんでしまう例を知っているから)。

たとえばケンカをしたなら、相手への怒りはとりあえず脇に置き、冷静にやりとりを思い返して、

自分の悪い部分だけを、さっさと謝ってしまおう。

あなたの主張の内容そのものは悪くなくても、言い方が悪かったかもしれない。

決して、追加で自己主張、自己弁護をするのではなく(というか、それはルール違反だからしてはいけない)、

「この部分は、こう受け止めた(またはこういう態度をとった)私が悪かった」

という点「だけ」を(だけ、でいいから)、本気で謝るのである。

怒りにまかせて言い放つのではなく、その部分は落ち着いて、静かに、心をこめて。

そうすることで、自分はなんだか「気が済んだ」ように感じて、言い争いも「過去のこと」にできるのだ。

さらに、逆の立場になってみるとわかるだろう。真摯な気持ちで静かにに謝ってきた相手に対し、

その場で怒り続けるのは、難しくなる。

よっぽどひどいケンカをしたか、相手が自己反省のキライな、自分勝手な人なら、怒り続けるかもしれないけど。

自己反省するかどうかはその人自身の問題だから、はい、それ以上、あなたが関わる必要はない。

とにかく、荒々しい空気は、そこで収まっていくはずだ。

そして真摯に、静かな態度で、反省の気持ちから向き合ってくる人に対峙したとき。

人は、自分自身をもまた、真摯に振り返えざるを得ないのだ。

「ごめんなさい」はそのように使うことで、自分を、相手を、人との関係性を、変えていく。

そういう大きな力を持った言葉なのだ。

自分の心の中で誰かに使うときにも、こうした姿勢を意識してみてほしい。

そして何より、痛めつけてしまう結果になった自分自身に対して、

冷静に、真摯な気持ちで、反省の心を持って、「ごめんなさい」とわびてもらえれば……と思う。

あなたの心の中にいる「おどおどした子ども」を、そうやって優しく抱きしめてあげてほしい。

「ありがとう」は人の心をあたたかくし、「ごめんなさい」は、人を変えていける。

これからの自分は徐々に新しくなっていくのだから、そういうふうに使っていってほしいと、心から願う。