「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉(2)

さて、昨日のつづきで、今日は「ごめんなさい」について。

ごめんなさい、すいません、申し訳ありません。

これは、鬱の人が常に抱えてしまっている言葉、と言っても、差し支えないと思う。

家族に、会社に、友人に、社会に、迷惑をかけている、という思いがあるからだ。

こう書くとシビアに聞こえるかもしれないが、病気になった人なら何にせよ、そういう思いを抱く。

風邪を引いて会社を休むときにだって、上司にひと言くらい謝るだろう。

鬱だから特別、という話では、本当はないのだけれど、

この病が治る期限が自分でわからないため、罪悪感をより抱えてしまうのだ。

ただ、自分に「これは病のひとつなんだ」という自覚があれば、まだマシだと思える。

やっかいなのは「そんな自分に変わってしまったんだ」と思うこと。

そう考える人には、「だから、病なんですってば!」と、私は強く主張したい。

性格は、この病気の発症に絶対的な関係ない。強気な人も弱気な人も、なるときはなる。

強いて言えば「真面目、責任感」の強い人よりは「いい加減」(これはいい意味で「よい加減」)な

人のほうがかかりにくいかもしれないが、それでも、絶対にかからない、とは言い切れないだろう。

いずれにせよ「ごめんなさい」は、心の中でその気持ちを抱きやすい分、

鬱の人にとって「ありがとう」よりは口にしやすいだろう。

が、しかし。

そんな、ある意味、卑屈な気持ち(という言い方を、ワザとしますよ)で使っても、効果はない。

想像してみてほしい。自分が子どもだったとしてみて。

クラスに、いつもイジイジと暗い気持ちで、おどおどしているクラスメイトがいる。

何かするたび、その子がちょっとした失敗をしては、ビクッとしながら「ごめんなさい」とつぶやいたとしたら。

そのとき、あなたは軽い苛立ちとともに、「はあ……」というため息しか出てこないのではないだろうか。

だってその段階で、本人がもう、自分をあきらめているのだ。そういう自分を卑下し、人の下に立つように、

上目遣いでこっちに謝ってくるのである。

……気持ちは、決してよくないよね。そういうシチュエーション自体、つらい。

そう、あなたが暗い気持ちで人に謝るときには、そのビクビクした子どもになってしまっているのだ。

あなたは、「自分が自分をあきらめている」ことを、相手に暗に示してしまっている。

相手は、困るだけだろう。

じゃあ、どうしたらいいと思う? あなたは、その子どもに「もっと自分に自信を持とうよ。

いつかは、うまくできるようになるよ」と、言いたくならないだろうか?

私が「病」と言っているのは、同じ意味なのである。

あなたがどう思おうとも、自分の「感じ方・考え方」によってその病にかかったのであれば、

自分で治すことも、またできるのだ。

ただし、病を知らなかったときと同じ状態に戻るのは、ちょっと難しい。

でも知らなかったから、そんな「罠」のような考え方に落ち込んだ、とも言える。

せっかくそういう経験を経て罠を知ったのだから、二度と同じ状態には戻るな、と言いたいくらいだ。

さて、そういう病気のときには、自分が「ごめんなさい」を卑屈に使う可能性があると知ったうえで。

相手に、何らかのお詫びの気持ちを伝えたくなったときは、どうするか。

自分のその「卑屈さ」を、脇に置いてほしいのだ。

お詫びの気持ちは、今の自分の卑屈さとは、本当は関係ない。

そういう病の状態であること、そのものを詫びたくなったとしても、

相手に対して「申し訳ない」と思う気持ちは、卑屈な気持ちからではなく「反省」の意味で使ってほしいのだ。

反省。

わかるだろうか。反省するってことは、やがてその状態から抜け出すことを意味する。

そうなるよう、努力していきます、という気持ちをこめた、静かな心が必要なのだ。

そもそも鬱という病にかかる前なら、謝るときに、自然とそういう使い方をしていたはず。

自分自身で何か、悪いと思ったときに、「もうしません」的な気持ちをこめて、謝っていたはずなのだから。

逆に、うまく謝れないときだってある。

世をすねて、自分のしたことを振り返れないようなとき。悪い気持ちで開き直るとき。

ケンカをして、とにかく怒ってしまっているとき。

本当に相性が悪くて、相手にひどく傷つけられてしまっていて、関係を修復したくないなら、

謝る必要はないこともある。どうしてもどうしても合わない人とは、縁を切ればいいと、個人的には思える。

そうではなく、本当は大好きで、あるいは尊敬していて、その人と縁を切りたくはない、というとき

(あ、ここではあえて「愛」は、はずす。「愛」の形がゆがんでしまう例を知っているから)。

たとえばケンカをしたなら、相手への怒りはとりあえず脇に置き、冷静にやりとりを思い返して、

自分の悪い部分だけを、さっさと謝ってしまおう。

あなたの主張の内容そのものは悪くなくても、言い方が悪かったかもしれない。

決して、追加で自己主張、自己弁護をするのではなく(というか、それはルール違反だからしてはいけない)、

「この部分は、こう受け止めた(またはこういう態度をとった)私が悪かった」

という点「だけ」を(だけ、でいいから)、本気で謝るのである。

怒りにまかせて言い放つのではなく、その部分は落ち着いて、静かに、心をこめて。

そうすることで、自分はなんだか「気が済んだ」ように感じて、言い争いも「過去のこと」にできるのだ。

さらに、逆の立場になってみるとわかるだろう。真摯な気持ちで静かにに謝ってきた相手に対し、

その場で怒り続けるのは、難しくなる。

よっぽどひどいケンカをしたか、相手が自己反省のキライな、自分勝手な人なら、怒り続けるかもしれないけど。

自己反省するかどうかはその人自身の問題だから、はい、それ以上、あなたが関わる必要はない。

とにかく、荒々しい空気は、そこで収まっていくはずだ。

そして真摯に、静かな態度で、反省の気持ちから向き合ってくる人に対峙したとき。

人は、自分自身をもまた、真摯に振り返えざるを得ないのだ。

「ごめんなさい」はそのように使うことで、自分を、相手を、人との関係性を、変えていく。

そういう大きな力を持った言葉なのだ。

自分の心の中で誰かに使うときにも、こうした姿勢を意識してみてほしい。

そして何より、痛めつけてしまう結果になった自分自身に対して、

冷静に、真摯な気持ちで、反省の心を持って、「ごめんなさい」とわびてもらえれば……と思う。

あなたの心の中にいる「おどおどした子ども」を、そうやって優しく抱きしめてあげてほしい。

「ありがとう」は人の心をあたたかくし、「ごめんなさい」は、人を変えていける。

これからの自分は徐々に新しくなっていくのだから、そういうふうに使っていってほしいと、心から願う。

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