さて、昨日のつづきで、今日は「ごめんなさい」について。
ごめんなさい、すいません、申し訳ありません。
これは、鬱の人が常に抱えてしまっている言葉、と言っても、差し支えないと思う。
家族に、会社に、友人に、社会に、迷惑をかけている、という思いがあるからだ。
こう書くとシビアに聞こえるかもしれないが、病気になった人なら何にせよ、そういう思いを抱く。
風邪を引いて会社を休むときにだって、上司にひと言くらい謝るだろう。
鬱だから特別、という話では、本当はないのだけれど、
この病が治る期限が自分でわからないため、罪悪感をより抱えてしまうのだ。
ただ、自分に「これは病のひとつなんだ」という自覚があれば、まだマシだと思える。
やっかいなのは「そんな自分に変わってしまったんだ」と思うこと。
そう考える人には、「だから、病なんですってば!」と、私は強く主張したい。
性格は、この病気の発症に絶対的な関係ない。強気な人も弱気な人も、なるときはなる。
強いて言えば「真面目、責任感」の強い人よりは「いい加減」(これはいい意味で「よい加減」)な
人のほうがかかりにくいかもしれないが、それでも、絶対にかからない、とは言い切れないだろう。
いずれにせよ「ごめんなさい」は、心の中でその気持ちを抱きやすい分、
鬱の人にとって「ありがとう」よりは口にしやすいだろう。
が、しかし。
そんな、ある意味、卑屈な気持ち(という言い方を、ワザとしますよ)で使っても、効果はない。
想像してみてほしい。自分が子どもだったとしてみて。
クラスに、いつもイジイジと暗い気持ちで、おどおどしているクラスメイトがいる。
何かするたび、その子がちょっとした失敗をしては、ビクッとしながら「ごめんなさい」とつぶやいたとしたら。
そのとき、あなたは軽い苛立ちとともに、「はあ……」というため息しか出てこないのではないだろうか。
だってその段階で、本人がもう、自分をあきらめているのだ。そういう自分を卑下し、人の下に立つように、
上目遣いでこっちに謝ってくるのである。
……気持ちは、決してよくないよね。そういうシチュエーション自体、つらい。
そう、あなたが暗い気持ちで人に謝るときには、そのビクビクした子どもになってしまっているのだ。
あなたは、「自分が自分をあきらめている」ことを、相手に暗に示してしまっている。
相手は、困るだけだろう。
じゃあ、どうしたらいいと思う? あなたは、その子どもに「もっと自分に自信を持とうよ。
いつかは、うまくできるようになるよ」と、言いたくならないだろうか?
私が「病」と言っているのは、同じ意味なのである。
あなたがどう思おうとも、自分の「感じ方・考え方」によってその病にかかったのであれば、
自分で治すことも、またできるのだ。
ただし、病を知らなかったときと同じ状態に戻るのは、ちょっと難しい。
でも知らなかったから、そんな「罠」のような考え方に落ち込んだ、とも言える。
せっかくそういう経験を経て罠を知ったのだから、二度と同じ状態には戻るな、と言いたいくらいだ。
さて、そういう病気のときには、自分が「ごめんなさい」を卑屈に使う可能性があると知ったうえで。
相手に、何らかのお詫びの気持ちを伝えたくなったときは、どうするか。
自分のその「卑屈さ」を、脇に置いてほしいのだ。
お詫びの気持ちは、今の自分の卑屈さとは、本当は関係ない。
そういう病の状態であること、そのものを詫びたくなったとしても、
相手に対して「申し訳ない」と思う気持ちは、卑屈な気持ちからではなく「反省」の意味で使ってほしいのだ。
反省。
わかるだろうか。反省するってことは、やがてその状態から抜け出すことを意味する。
そうなるよう、努力していきます、という気持ちをこめた、静かな心が必要なのだ。
そもそも鬱という病にかかる前なら、謝るときに、自然とそういう使い方をしていたはず。
自分自身で何か、悪いと思ったときに、「もうしません」的な気持ちをこめて、謝っていたはずなのだから。
逆に、うまく謝れないときだってある。
世をすねて、自分のしたことを振り返れないようなとき。悪い気持ちで開き直るとき。
ケンカをして、とにかく怒ってしまっているとき。
本当に相性が悪くて、相手にひどく傷つけられてしまっていて、関係を修復したくないなら、
謝る必要はないこともある。どうしてもどうしても合わない人とは、縁を切ればいいと、個人的には思える。
そうではなく、本当は大好きで、あるいは尊敬していて、その人と縁を切りたくはない、というとき
(あ、ここではあえて「愛」は、はずす。「愛」の形がゆがんでしまう例を知っているから)。
たとえばケンカをしたなら、相手への怒りはとりあえず脇に置き、冷静にやりとりを思い返して、
自分の悪い部分だけを、さっさと謝ってしまおう。
あなたの主張の内容そのものは悪くなくても、言い方が悪かったかもしれない。
決して、追加で自己主張、自己弁護をするのではなく(というか、それはルール違反だからしてはいけない)、
「この部分は、こう受け止めた(またはこういう態度をとった)私が悪かった」
という点「だけ」を(だけ、でいいから)、本気で謝るのである。
怒りにまかせて言い放つのではなく、その部分は落ち着いて、静かに、心をこめて。
そうすることで、自分はなんだか「気が済んだ」ように感じて、言い争いも「過去のこと」にできるのだ。
さらに、逆の立場になってみるとわかるだろう。真摯な気持ちで静かにに謝ってきた相手に対し、
その場で怒り続けるのは、難しくなる。
よっぽどひどいケンカをしたか、相手が自己反省のキライな、自分勝手な人なら、怒り続けるかもしれないけど。
自己反省するかどうかはその人自身の問題だから、はい、それ以上、あなたが関わる必要はない。
とにかく、荒々しい空気は、そこで収まっていくはずだ。
そして真摯に、静かな態度で、反省の気持ちから向き合ってくる人に対峙したとき。
人は、自分自身をもまた、真摯に振り返えざるを得ないのだ。
「ごめんなさい」はそのように使うことで、自分を、相手を、人との関係性を、変えていく。
そういう大きな力を持った言葉なのだ。
自分の心の中で誰かに使うときにも、こうした姿勢を意識してみてほしい。
そして何より、痛めつけてしまう結果になった自分自身に対して、
冷静に、真摯な気持ちで、反省の心を持って、「ごめんなさい」とわびてもらえれば……と思う。
あなたの心の中にいる「おどおどした子ども」を、そうやって優しく抱きしめてあげてほしい。
「ありがとう」は人の心をあたたかくし、「ごめんなさい」は、人を変えていける。
これからの自分は徐々に新しくなっていくのだから、そういうふうに使っていってほしいと、心から願う。