「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉(1)

今日からはタイトル通り、この二つの言葉について書いていこうと思う。

私が鬱になって生きるのをあきらめ、その後、怒濤の勢いで生のほうへ引き戻されていったとき。

まず、亡くなった友と知人たちに、本気で何度も何度も、この言葉を繰り返した。

遺影の前で。遺骨の前で。お墓の前で。心の中で。

鬱のつらさを肌身で知っていたのに何もできなかった自分と、

長の間、連絡もとらないままに急逝してしまった友達への申し訳なさと。

結果として生かしてもらい、その後、本や人との出会いで、考え方を変えていくことができたことに対して。

そうして生きていく間にも、ぶれたり、落ち込んだりしながら、ことあるごとに彼らの死を思い、

ありがとうとごめんなさいを何度も、唱えることになった。

そしてだんだん、その言葉にこめる意味も、感じるものも、使い方も、変わっていった。

まずは、ありがとう、という言葉について。

これは、人には使いまくってかまわないものだと、私には思える。

逆に、そういう機会をみつけては、積極的に声に出してほしい。

自転車の人とすれ違う際、軽く道を譲ってもらったとき。

電車のなかで座席を詰めてもらったとき。

誰かに何かを手渡してもらったとき。

スーパーで、レジの人が袋を配慮してくれたとき(重たいからサイズを変えて2枚くれた、とかね)。

意識するようになると、この言葉を使える場面は本当にたくさん出てくるのだ。

それは家族や、仲のよい友人に対しても同じ。

お茶を入れるなど、何かを用意してくれたとき。

自分を軽く励ましたり、ほめてくれたりしたとき。

何かの話を聞いてもらったとき。

そんなこと、今さら照れくさい、と思う方もいらっしゃるかもしれないが、

逆に、今まで使ってこなかったことのほうが、もったいない。

「感謝」を、重くも軽くも表現できるのが、この「ありがとう」という言葉だからだ。

言い方、伝え方を変えれば、その重さを自在に変えられることは、感覚的にわかると思う。

そしてさらに、イメージしてみてほしい。

ほんの少し、簡単な何かで協力したときに「ありがとう」と、相手から言葉に出して伝えてもらったら、

なんとなく照れながらも、うれしくならないだろうか。

心が、あたたかくならないだろうか。

相手に対して、何か、心地よいものを感じないだろうか。

伝えてくれた小さな感謝の気持ちが、自分をうれしくさせるのである。

そしてたぶん、家族などの身近な人に使ってこなかった場合は、

相手がせっかく言ってくれたときも、聞き流して来たことが多かったのだろうな、と思う。

どんなに恥ずかしがろうが、伝えることには意義がある(「ありがとう」については、

面倒くさいという感覚には、あまりならないで済むと思う)。

先に書いたように、相手と「何かあたたかいもの」が行き来するのは、悪いことではない。

そしてたとえ、行き来が本当にほんの少しだったとしても、あるいは無視されたとしても、

その「あたたかいもの」は、何より、言った本人に沁み込んでくるのだ。

だから本当は、相手の反応がどうあれ、自分のために使っていいのである。

とくに慣れないうちは、言う場面の多さに、ちょっと驚くこともできるだろう。

ああ、なんか意外に、見知らぬ人は親切にしてくれるんだなあ、とか、

こんなふうにいつも、気をつかってくれてたんだ……とか。

心が痛んでいる今なら、なおさら、その事実は自分に沁みてくるはず。

あなたは結構、人からいろいろ、小さくでも協力してもらっているのだ。

そのことに気づいていくと、自分がこれまで見ていた世界が、ほんの少し、色を変えていく。

家族との関係、周囲との関係、その他いろいろな場面で、単純に自分もまた、親切になっていけたりする。

そこからさらに「気づいていく」ものもあって、それは千差万別だろうと思うけれど、

決して、自分にとってマイナスにはならないと思う。

最初は小さな声でもいいから、ぜひ気持ちよく、気前よく使ってみてほしい。

家族に、いぶかしがられたとしても。見知らぬ人に、不思議な顔をされたとしても。

自分を変えていきたいなら、そういうところからもまた、「気づき」を生み出していけるのだ。

「ごめんなさい」については、明日以降に……。

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