死ぬ、という気持ちがなくなり、バリバリ働いて出世する、というある種、凝り固まった「成功欲」がなくなり、
じゃあ、これからの自分は仕事を含め、どうやって生きていくのか、というところを見つめようとする間。
体調が悪いときには選択肢が限られるけれど、調子が戻ってくると、
自分のなかにさまざまな選択肢が現れてくる。
私の場合、今のところ最も大切なのは「自分も相手も輝けること」である。
物理的に輝く、というのではなく、気持ちの面で「よかった」と思い合えること。
最低でも「誰かが犠牲になる必要がない」こと。
資本主義的な競争社会においては、それはある種の理想論、と言われるかもしれない。
どんな仕事であっても「客」や「取引先」という存在がある以上、その客の「選択」によって、
誰かは儲からず、その人の代わりに誰かが儲かるのだから。
それを「犠牲」と言ってしまえば、私の選択肢も、また、ある意味この社会そのものも、成り立たなくなるだろう。
でも、そういう選択はある意味、相性だったり、運のような要素も含まれる
(もちろん実力と努力の面で、ある程度、対応できるような状態になることは必要だけれど)。
であれば、「必ず誰かが負ける」」というところまでは考えず、自分ができることを提供する、
そのときに巡り会えた「客」や「取引先」と喜び合え、さらに誰かを喜ばせることに
つながるかどうかくらいまでを考えれば、それでいいのだと思う。
どうしてこういう話をするかというと、自分がダメだ、という気持ちになったときは
「社会」にせよ「世間」にせよ、そういうことをやたらと巨大化して捉えがちだから。
その一方で、身近な人については、たとえば一緒に暮らしている家族に対する申し訳なさ、という
小さい小さい視点だけに陥ったりもする。なんだかもう、いろいろ極端になるのだ。
どんな仕事であっても、それが「仕事」になる以上、「相手」が存在する。
芸術家でさえ「見せる・聞かせる・何かを感じさせる」相手が、結局は必要になるだろう。
今、何もできないとしても、あなたは、どんなことならできるようになりたいだろう。
動けないこと=弱いこと、と自分で自分に断言していても、何も変わらない。
少なくとも今は、どういう気持ちで、何を大切にして生きていくのかを、
改めてじっくり見直すチャンスにはなっているのだ。そこだけは間違いない。
職種や業種などの面でなく、そういった「根本的な視点」を明確にすることで、
また、何かが、現れてくるのだろうと思う。
ちなみに私は、今、動けないわけではないのだが、そういう「価値観」的な、「根源」的な部分を
具現化していく期間になっているようで、それが自分のなかで大きくグルグル動いている。
なのでここ2日ほどは、自分のなかで思うところが大きすぎて書けなかった。
考えること、感じること、生き方、いろいろ全部。睡眠時間も狂い、身体への影響も大きかった。
震災という大きな出来事も、そうした選択を始めるきっかけになったようだ。
自分がしたいこと、自分にできること。いろいろな意味で新しい自分を見つめ直すタイミングである今、
そういう場所に立っている人は、たくさんいるだろうと思うけれど、
新しい「揺るがない大切なもの」を、可能な範囲で焦らず、探してみてほしいと思う。
私もまた、今の自分に一番適した具現化の道を、探ってみるつもりだ。
ただ、考えすぎても動けないだけなので、いくつか選択肢が見えてきたら「感じてみる」ことも大事だと思う。
それをしている自分が、どんな気持ちになるか。長いスパンで見るだけでなく、その瞬間の自分を。
D’ont think, feel.
ヨーダを始め(笑)数々の人に語られてきたこの言葉は、なかなか重いのである。
何にせよイヤなら、少なくとも今は、その選択はやめておけ……。そう言われている気がする。