ゆるす心

私は、もともと「恨む」という気持ちが、実は苦手な人間である。

恨む気持ちそのものが苦しくて、長くは持ち続けられないのである。

だからといって、「もう、ゆるす」というふうに、意識するわけでもない。

そういう感情を持つこと自体がイヤだから、忘れてしまおうとするのである。勝手に。

宗教的な本などにはよく、「ゆるし」について書かれている。

これは他人だけでなく、自分にも当てはめて考えられる話であるらしい。

そういう面からすると、放置に近い形で忘れてしまおうとする私は、

本来、「ゆるす」ということが、ヘタなのかもしれない。

ただ、放置であっても、それが他人相手だった場合、その人を憎む、恨む……という気持ちは薄まる。

たとえば誰かに八つ当たり的な攻撃をされたとして、その人のことを思い出すことがあっても、

ああ、こんなことがあったなあ、ある意味、かわいそうな人だったなあ、という感覚になるのだ。

もちろん、今後、なるべく会いたくはないが、もし会うとしても、憎々しい気持ちで対峙することはないだろう。

たぶん、私はそのときに、相手のことを「もう自分には関係のない人」として見るだろうと思う。

この状態を「ゆるし」と言うかどうかは、微妙だと思うけれど。

少なくとも、以前と同じ立場ではないことだけは確かだ。

そもそも、人は、イヤなことを忘れようとする。

それはたぶん、「八つ当たり」をした当の本人であってさえ、そうなのだろうと思う。

であれば、それをされた私だけが同じ場所にとどまって苦しむのは、何か違う、と感じるのだ。

ドラマのセリフなどでよく、そのつらさや恨みの気持ちについて「死んでも忘れない」などと言う。

実際、恨みを晴らすために、自死を選ぶ人もいる。

でも悲しいことに、その行為によって、相手が一生後悔を続け、苦しみ続ける確率は、

それほど高くはないように思う。

先ほども言ったように、人間、イヤなことは忘れるようにできているからだ。

そして、その自死によって一生苦しむのは、「敵」である相手ではなく、「味方」であった家族や友人である。

そういう死の選択が、「正しい」かどうかを、論じるつもりはない。そんな権利は、私にはない。

ただ、私のように「ゆるす」ことがヘタでも、自分が楽になるために、

自分のために「恨む・憎む気持ちを忘れる」ほうが、結果としては、よい面が多いのではないか、と思う。

これまでに何度も書いているが、「黒い人」はその人自身、何か問題を抱えている。

だからそれを一瞬でも忘れようとして、人を傷つける。

根本的な解決には何もならないのだが、その人は今、そういう行動しかとれないのである。

であれば、キツイ言い方かもしれないが「そんなバカな人」のために、

あなたが長く苦しみ続ける必要は、本当はないのだ。

その人に仕返しをするのは、あなたである必要もない。

また、もし、そんな気持ちで仕返しができたとしても、やっぱりどこか、苦々しい気分が残るであろう。

だから、自分が楽になるために、まずとりあえずその気持ちを「置き去り」にすることは、悪いことではないと思う。

その「相手」が、他人であっても、自分であっても。

この先、その経験をトラウマとして抱えてしまうかどうかは、わからない。

抱えてしまった場合は、心理学的な面から「ゆるし」のワークをすることも必要になるかもしれない。

でも、そうすることでやがて、その経験があなたの解放、あなたの学びになる。あなたの新しい力になる。

だから、そうなってしまったことも、ワークをすることも、怖がったり、恥じたりする必要はない。

それによって壁を越えていく自分を、ほめてあげればいいのだ。

あなたは自力で、より堅固な土台を、築いていくのだから。

ゆるす、という行為そのものについてはうまく語れないのだが、私には、そのように感じられる。

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