木元見春 のすべての投稿

こわいけど(^^;)事実かな

何とか自分だけトクしよう、とか

望んでないけどとりあえず従っておこう、とか

自分に対して、いろいろな気持ちを

そのときどきで、ごまかし続けている人に。

 

これを、贈ります。

昨日の追記でもあるかな。

あなたが『幸せ』でないのは、

結局はこのせいなのかもよ、

という記事シェアです。

 

厳しいかな? 

でもそのままでは、苦しみにキリがないので、

受け取ってください(ええ、私にも若干ながら、まだ刺さったわ。

まだまだだのぅ……(^◇^;))

 

◎カエル姉さん さま
『ひとことメモ☆』
http://ameblo.jp/pakupaku-kazupi/entry-12138912330.html

 

2016_03_14_1

 

Photo by marionberaudias
Pixabay

 

こんなに私は

こんなに私は 誠実なのに

こんなに私は 大切に考えて「あげてる」のに

こんなに私は 心をこめて

本気で必死に やって「あげてる」のに

 

こんなに私が

こんなにも

こんなにいろいろ

 

だから! なんで!! 私のこと認めないって言うのよーーー!!!

 

うん 自分が返してもらうこと前提の

そんな 『下心』目一杯の 思いやりを差し出してさ

しかも相手の要求を待たず 自分から差し出した挙げ句

「狙って」やった その相手が返さなきゃ

途端に相手は「裏切り者」なんだね

 

私はこんなに弱くて こんなに親切で 

こんなに優しいのだから

あなたもそれを認めなさいよ! と指示するために

相手に指揮するために 使ってるよね

 

その あなたの せっかくの優しさを

あなたのせっかくの 誠実さを

そんなにもステキな あなたの温かさを

『返してもらう』目的のために 利用したんだよね

 

ねえ そこに先に 友情があろうと 愛情があろうと

取引の約束なんか してるわけじゃないんだよ

あなたを信頼していきたい ということを お互いに表現し合っただけだ

 

なのに取引として あなたの内側にある素晴らしさを使われてしまったら

そりゃそれは その瞬間 相手にとって

あなたの 素晴らしい資質としてでなく

あなたの側から勝手に押し付けられた 取引条件として

理解される可能性もあるよ あなたが取引してるからこそね

 

ねえ 愛というもののいったいどこに

「相手とは取引せねばならない」なんていう条項が くっついてるっていうのさ?

信頼は取引するものじゃないよ?

そのことには なぜ気づきたくないのかな

 

私はこんなにステキで 

こんなに弱いんだから 

振り向きなさいよ! 助けなさいよ!

って叫んでさ 

それ 本気で あなたにとって 楽しいやり方なの?

 

自分の素晴らしさを あなた自身がわざわざ

そんなふうに使ってしまっているのは

「なぜなのか」 見つめられないかな?

 

あのね 弱いことが 悪いわけではないよ

(悪いっていう書き方のほうが 伝わりやすいかもしれないから

この表現使ってみるけれど) 弱いことが悪いのじゃない

他者に対して 自分の素晴らしさを「取引の条件」にしなければいけないほど

自分を 見捨てていることが 悪いんだよ

 

相手と取引して もらわなきゃ いけない(そうでないと私は もらえない)と

なぜ 信じこんでいるのか

そこの部分は どうしても自分では ひも解きたくないのかな?

 

まあ いいんだけどね 

一生 恨んで 一生 許さない! って叫び続けて

一生 自分を傷つけていっても うん 別にいいんだよ

それはあなたの選択だから

あなたが本当にそうしたいなら 私はそれを止めない

 

あなたが そのやり方をどうしても 選びたくて

どうすればそれを 苦しくならずにやれるようになるか 誰かに尋ねたいなら

どんどん 尋ねてみればいいと思うよ 納得できる回答が 届くまで

 

恨みという 自分の内側のどす黒いものもまた

一生 大事にするほうを 自分が選んで

取引してくれない相手も どんどん増やし

それぞれの相手への恨みも 増やしていってさ

その相手と『他人から裏切られてしまうレベルの私』とかいう思想を守りつつ

両方を罵倒し続ける姿勢 大事にしていけば いいんじゃない?

 

そうすることで 自分のことを大切にしないほうを選択するのは

間違いなく あなた自身なのだから

 

うん そこはもう あなたの自由なんだよ

ホント 恨みも自己罵倒も 私は無理には止めないよ

でも「なぜ 他の人は私と取引してくれないの?」

という問いがもし 私のもとにも届いたとしたら

 

そもそも 自身の素晴らしい資質を

誰かとの 取引に使うこと自体が 

人にとって 心地悪い 気持ちよくないからだよ って答えると思う

 

常に 他者に 内心おびえ 返してもらえるかどうか疑いながら

(そう すでにもう あなたがこの時点で 相手を疑ってしまうんだよよね)

それでも返して欲しさに 自分の素晴らしさを

みずから進んで 差し出していくという その「状態」を

あなたが 本気で心地よく感じているとは 思えないのだけれど 

それは 私の勘違いかな?

 

あなたの内側の 素晴らしさを使って

わざわざそんな『取引』なんてしなくても 

他者にも 相手にも 届くし 相手からも届けられるんだよ

 

そっちのほうはまだ あなたが やっていないだけ……

そして やっていないのは やれていないのは

自分を馬鹿にしているから 届けてもらえないと信じこんでいるから

どこかで自分を 見下げ切っているから なんだ

 

今はそのことだけ 伝えておくね

自分を見下げ続けていく限り どうしても

その取引は 続くのかもしれない 残念ながら……

 

2016_03_12_2

たまたま今は 視点の方向 マイナスなだけで
つまりはそれも ナルシスト
おそれの理由を 解かずに基点としたまま
『自分だけが』

こんな私? いつも私は?
おそれから来る その思いグセ
それこそ いつまで選ぶ?

Photo by  お花の写真集

 

その強い否定も『信じる力』だよ

こんな自分なんて、信じられない! というとき。

その自分の『信じないことを決める感覚』を、

あなたは信じ切れている(しかもその否定的見解には、

自身の妄想的断定もかなり入っているのだけれど、そこは今回、割愛)。

だからこそ、否定する! と決められている。

その感覚が頼りなければ、断言なんてできないからね。

 

そして、あいつがひどい! 悪い! と言うとき。

まったく同じように、

あなたはそう感じる自分の感覚を、信用し切っている。

 

私のほうが『良い、正しい』という感覚が

先に

あるからこそ、相手が間違ってる、と断言できる。

 

その感覚が先に立つからこそ、次に頭の中でも、

私とあなたは違う人間なのだね、ということより

私のこと(意見)を認めなさいよ!

という考えのほうが優先となり、それが「正しい」、

イコールあなたが間違ってる! と叫ぶことができる。

 

どちらの考えがより、心地よい結果を生むか、

あるいは双方が心地よく着地できる地点を

話し合ってみない? という寄り添い、折り合いは、

少なくとも他者を糾弾するその瞬間、

そこには、存在していない。

 

否定すれば、否定が還ってくる確率、

上がるのに、それでも許せないんだよね。

あ、もちろんそういうときがあることもわかるし、

それはそれでいいのだと思う。

『そうじゃないのに!』という気持ちは、

自分に必要なことを学ぶ機会、そのサインとして使えるからね。

 

ただ、もし、自分は否定を投げつけても、

他人は常に、自分へ承認や尊敬を還せっていう感じが多いなら

そりゃ単なるワガママに受け止められることも、覚悟しなきゃね。

でないと、あなたは神様ですか? あなただけが世界のルール? 

ってことになっちゃう。

 

ま、いずれにしても。

あなたはちゃんと、自分の感覚を、大切にできているよ。

大切にして、自分の感覚、それこそどっぷり、信じ切ってるってことだよ。

今はあなたが、常に「否定的見解、否定の感覚」だけのほうを

必ず信じることにしているだけ。

 

否定の感覚って、どうしてもそこに「誤解」や「独りよがり」や

「自分だけが可愛い」を(多少の差はあれ)結構な確率で、含むのだ。

あと、他人へ偽善を示すことで、つまり言い方が悪いけれど

不幸な、と思える他者を利用することで、

自分のことを認めようとする、

あるいは周りから認められようとする感じとかもね。

そういう危ういものも、ときにいろいろ、含んでいたりするのよ。

 

なのに、あなたは、その感覚だけは、信じ切れるんだね?

 

ならば、その『信じ切れる力』を、

「自分にとって温かく感じられるもの」のほうへ、

たとえ他者から同じものが還ってこなかったとしても、

自分自身のために使ってみない?

 

「温かいと感じられること」のほうを、

これで、いいのだ、

と、信じる練習、してみませんか?

 

実際、私もやっている真っ最中だけど、たとえば、

他人の悪意を、自分の内側にわざわざ取り込まなくても済むように

なりつつあります。

悪意を放ちたい自由、は無理して止めないけれど、

それを自分は受け止めないという自由も、まったく同様に尊重する、

そんな練習にまで、つながったりする。

 

へえ、あなたはそう感じるのですね。

たまたまなんですが、私はそれ、温かく感じられないので、

従い(付き合い)ません。

 

以上。

 

反発したいという感覚は、上記のような自分勝手さや自己の妄想も含み得るし、

しかもそれをすると自分が後々、引きずって面倒くさいから、

受け入れない、受け取らない、のほうを選択する。

 

ある意味、無視するわけだから、冷たい(笑)

要らないものは要らない。

その感覚を、自分が、大切にする。

 

認めてよ! のアピールも、必要でない。

なぜなら、温かいものを出すとき、

届く人には勝手に届くから(そしてお互いの自由を尊重しているからこそ、

そう受け止めてくれたという事実が、宝石のようにキラキラと

こちらへ『勝手に』届けられることになる。有り難い……)

 

私が心地よく感じたくて、私が勝手に出すのだから、

それを受け取るかどうかもまた、相手の勝手、相手の自由なの。

受け取りなさいよ! なんてやったら、それこそ偽善だわ。

 

ねえ。

すでにあなたも、自分自身の感覚、信じられているのだから、

違う方向、温かい方向へも、

その感覚を使ってみる勇気、よかったら、出してみない? あなたのために。

 

心が温かくなる、が、感覚としてイマイチわからなければ、

うれしくなる、光る、明るくなる、ホッとする、心地よさを感じる、

表現は何でも、つかみやすいものでいいよ。

自分が、そう感じるために(相手にそう思ってもらうためにでなく、

一人のときも、あるいは自分に対しても)出していって、

自身でたくさん、味わってみない?

 

今、生きているということは、すなわち、

あなたがそれを選んでみてもいいことを、ゆるされているってことだから

(だからこの世に誕生したんだよ、それを味わっていいから)、

他者からもらおうとするだけでなく、

自分から、自分のために、発してみない?

否定ばっかり、見つめるのでなくて、さ。

 

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Photo by PetraBlahoutova
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