その強い否定も『信じる力』だよ

こんな自分なんて、信じられない! というとき。

その自分の『信じないことを決める感覚』を、

あなたは信じ切れている(しかもその否定的見解には、

自身の妄想的断定もかなり入っているのだけれど、そこは今回、割愛)。

だからこそ、否定する! と決められている。

その感覚が頼りなければ、断言なんてできないからね。

 

そして、あいつがひどい! 悪い! と言うとき。

まったく同じように、

あなたはそう感じる自分の感覚を、信用し切っている。

 

私のほうが『良い、正しい』という感覚が

先に

あるからこそ、相手が間違ってる、と断言できる。

 

その感覚が先に立つからこそ、次に頭の中でも、

私とあなたは違う人間なのだね、ということより

私のこと(意見)を認めなさいよ!

という考えのほうが優先となり、それが「正しい」、

イコールあなたが間違ってる! と叫ぶことができる。

 

どちらの考えがより、心地よい結果を生むか、

あるいは双方が心地よく着地できる地点を

話し合ってみない? という寄り添い、折り合いは、

少なくとも他者を糾弾するその瞬間、

そこには、存在していない。

 

否定すれば、否定が還ってくる確率、

上がるのに、それでも許せないんだよね。

あ、もちろんそういうときがあることもわかるし、

それはそれでいいのだと思う。

『そうじゃないのに!』という気持ちは、

自分に必要なことを学ぶ機会、そのサインとして使えるからね。

 

ただ、もし、自分は否定を投げつけても、

他人は常に、自分へ承認や尊敬を還せっていう感じが多いなら

そりゃ単なるワガママに受け止められることも、覚悟しなきゃね。

でないと、あなたは神様ですか? あなただけが世界のルール? 

ってことになっちゃう。

 

ま、いずれにしても。

あなたはちゃんと、自分の感覚を、大切にできているよ。

大切にして、自分の感覚、それこそどっぷり、信じ切ってるってことだよ。

今はあなたが、常に「否定的見解、否定の感覚」だけのほうを

必ず信じることにしているだけ。

 

否定の感覚って、どうしてもそこに「誤解」や「独りよがり」や

「自分だけが可愛い」を(多少の差はあれ)結構な確率で、含むのだ。

あと、他人へ偽善を示すことで、つまり言い方が悪いけれど

不幸な、と思える他者を利用することで、

自分のことを認めようとする、

あるいは周りから認められようとする感じとかもね。

そういう危ういものも、ときにいろいろ、含んでいたりするのよ。

 

なのに、あなたは、その感覚だけは、信じ切れるんだね?

 

ならば、その『信じ切れる力』を、

「自分にとって温かく感じられるもの」のほうへ、

たとえ他者から同じものが還ってこなかったとしても、

自分自身のために使ってみない?

 

「温かいと感じられること」のほうを、

これで、いいのだ、

と、信じる練習、してみませんか?

 

実際、私もやっている真っ最中だけど、たとえば、

他人の悪意を、自分の内側にわざわざ取り込まなくても済むように

なりつつあります。

悪意を放ちたい自由、は無理して止めないけれど、

それを自分は受け止めないという自由も、まったく同様に尊重する、

そんな練習にまで、つながったりする。

 

へえ、あなたはそう感じるのですね。

たまたまなんですが、私はそれ、温かく感じられないので、

従い(付き合い)ません。

 

以上。

 

反発したいという感覚は、上記のような自分勝手さや自己の妄想も含み得るし、

しかもそれをすると自分が後々、引きずって面倒くさいから、

受け入れない、受け取らない、のほうを選択する。

 

ある意味、無視するわけだから、冷たい(笑)

要らないものは要らない。

その感覚を、自分が、大切にする。

 

認めてよ! のアピールも、必要でない。

なぜなら、温かいものを出すとき、

届く人には勝手に届くから(そしてお互いの自由を尊重しているからこそ、

そう受け止めてくれたという事実が、宝石のようにキラキラと

こちらへ『勝手に』届けられることになる。有り難い……)

 

私が心地よく感じたくて、私が勝手に出すのだから、

それを受け取るかどうかもまた、相手の勝手、相手の自由なの。

受け取りなさいよ! なんてやったら、それこそ偽善だわ。

 

ねえ。

すでにあなたも、自分自身の感覚、信じられているのだから、

違う方向、温かい方向へも、

その感覚を使ってみる勇気、よかったら、出してみない? あなたのために。

 

心が温かくなる、が、感覚としてイマイチわからなければ、

うれしくなる、光る、明るくなる、ホッとする、心地よさを感じる、

表現は何でも、つかみやすいものでいいよ。

自分が、そう感じるために(相手にそう思ってもらうためにでなく、

一人のときも、あるいは自分に対しても)出していって、

自身でたくさん、味わってみない?

 

今、生きているということは、すなわち、

あなたがそれを選んでみてもいいことを、ゆるされているってことだから

(だからこの世に誕生したんだよ、それを味わっていいから)、

他者からもらおうとするだけでなく、

自分から、自分のために、発してみない?

否定ばっかり、見つめるのでなくて、さ。

 

2016_03_12_1

Photo by PetraBlahoutova
Pixabay

 

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