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思いのサンドバッグ

自主性 自立心 独立心なんて

自分一人で生きていけるようになってしまうだけの

寂しい人間にしかなれない

 

それをごまかすために 自主性 って 格好つけて表現しているにすぎない

 

心の奥でそう感じる人は それこそ 自分が大切にしたい他者に対しても

その相手には自主性 持たせないよね

 

全部 明かせ 隠し事するな きっとその中には私への不満も隠れているから

そんなのにおびえるのはイヤだ

そうならないよう 全部 明かすのが 愛でしょう? って

 

自主性があるから 尊重 が生まれるのであって

そんなにも全部を 明かしてほしいと思うこと自体 

すでにその時点で相手を見張ってるよね

あなたの寂しさを埋めるための道具に 相手を使ってるよね

 

全部知らないとイヤなのはなぜか?

あなたが 「隠し事=自分への不満」だと決めつけるからだよ

言葉にできない深い愛も 人は内に秘めることができるのに

あなたが勝手に「隠し事=悪いこと=自分への不満」だと思い込む

 

相手の自主性には 任せられないってことはつまり

相手のこと 信じてないんだよ

相手のこと信じ切れないのは

自分のこと 信じてないからだよ

 

自分が「嫌われるダメ人間」であるのが基本形だからこそ

誰かを求めて 誰かを見張り 誰かにそばにいてもらえないと寂しいんだよ

 

お互いが みずから自主的に 相手を思いやる

そこに初めて 深い信頼が生まれ育っていくのに

そういう「ゆとり」を 許さない関係……

 

だからね 何度も言うの

あなたがそこまで 自分を嫌っていることのほうを 先に変えていかないと

他者との関係性も 変わらない

あなたはすぐに何かあると 裏切られたとか

私はこう思っているのに! と思いを山のように 相手にぶつけ

自分の思いを受け止めるためのサンドバッグに 相手を変えてしまうの

だから相手も じゃあ こっちの思いはその中のどこにあるんだよ! って

こちらをサンドバッグのように扱ってくる

 

あるいは ぶつけられすぎて疲れて 離れていく

 

それってさ どこに信頼の生まれる余地 あるんだろうね

見張っている そのどこに 信頼が「そもそも」存在しているのだろう?

 

自分がこの人となら 一緒にいていいな と思うのは

あなたが感じて決めること

そのときは 自分の感覚 きちんと大切にしているでしょう?

自分の感覚に 従っているでしょう?

 

そうやって自分の感覚も 本当は大切にできるのに

自分のことを それでも全然信じないと思い込んでいるのは なぜなんだろうね

そっちを 捉え直してみるほうが 

誰かとの深い信頼関係を築くより 

やっぱり先かも と 私には思えるんだ

 

そこを放置していくと もしかしたら

あなたは お互いを見張り合う 

つまりお互いを サンドバッグにし合う

苦しい依存関係のなかでしか 

怖くて 過ごせないままかもしれないからさ……

 

どうしてそこまで 自分をすぐ悪く捉えたがるんだろう?

何をダメな証拠だと 思い込むことにしたんだろう?

 

その「嫌って当然」という決めつけは 全然「当然」ではないのだよ?
 
ねえ そこに どんな思いが 隠れているんだろう?

 

2015_06_22

Photo by Maximus_W
GATAG フリー画像・写真素材集 2.0

 

嫌っていたら 浅いところでとどまるよ

私が悪い 私がダメ

そこだけでとどまっていると

どうすればいいか なんてところまでは

本当に深くまでは やらなくてよくなっていく

 

だって「どうせ私 ダメだもの」

そこで理由をひとまとめにしちゃうから簡単

それ以上 捉える 感じる必要はなし

 

なのに嫌いな自分を 他人が傷つけると

今度は反対に ものすごい勢いで被害者にチェンジする

相手が私を傷つけた

私は傷ついた 私は傷つけられた

悲しい 悔しい

相手がひどい ゆるせない 

どうして私の気持ち わかってくれないの

 

でね また そこで とどまるの

 

ねえ 傷ついたと思っているその瞬間 

あなたはすごく自分のこと 守ってるよ?

守りたいから 相手をそう判断する

その瞬間 すごく自分を大切にしてるからこそ

そうやって被害者の状態に『浸れる』のよ?

 

それ 自分のこと 全然 嫌ってないじゃない

自分のこと すごく大事にしてるじゃない

本当のところ あなたは自分を嫌っているのじゃなくて

「うまくいかない状態」がイヤなだけ

それを自分か あるいは他人のせいにして

そこでとどまって おしまい にしてるだけなんだと

私には思えるよ?

 

本当に嫌いな人を 他者が傷つけている場面を見たら

まあ 冷たいようだけれど ある意味 仕方ない面あるよね……とは感じない?

 

そのときは ひどい なぜ どうして なんて気持ち

特に出てこないでしょう?

 

自分のことを 自分がいじめるのはどんどんやるけど

他人がやったら ものすごくショック

うん それ 自分を自由自在に(今は上から目線で悪いほうへ)扱っておきながら

 

でも他人からは尊重されたいってことで

根っこでは 自分を嫌いなわけではなく

ただ 何かが起こったときに 何か誰かのせいにするべきだと

「信じている」だけの話だよ

 

そこでとどまらないで もっと別の見方したらダメなのかな?

 

あなたが自分で自分の雑巾 乱暴に扱いました

それを見た他人が ああ それ そうやって扱っていいのね と思って

その雑巾を雑に扱った瞬間!

なぜ雑に扱うのよ! 大事にしてくれないのはなぜなのよ! なぜわからないのよ!

とあなたは怒り 悲しみ 苦しんでいる

 

ね? 矛盾してるよね?

どうせ私は雑巾レベル と 自分を粗末に扱うと

なるほど そうなのか それでいいのか と他者もまた 思ってしまうかもしれない

その可能性には なぜ気づけないんだろう?

 

自分で自在に自虐して たまには被害者の立場に立って

それをいつか やめさせてくれる人 待つの?

それをやめさせて「あげるよ」と言う人は

あなたをコントロールしたがる人だから

いつでも また すぐ被害者気分を味わって

いつまでも そこにとどまるけど?

 

自分の楽しさは

自分が 自分に与えるものであることを

根本的に 拒否していることが「謙虚で正しい」あり方なの?

 

まあね こういう書き方すると

そうね どうせ雑巾なのだわ 私 

だから雑巾らしく扱われる「べき」なんだわ 

とか言い出す人がいることも 容易に想像つくけれども

それ また「べき論」だよね 頭で考えてるだけ

腑に落ちていないのに 納得した振りするだけ

 

単純にさ 自分のこと 雑巾だと決めて 何か楽しくなれることはないよね

うまくいかないこと 多くなるよね?

 

あなたが本当に本気で 本心から

自分を雑巾扱いにしたくて それが喜び なら 止めないけれど

苦しみ なら それ あなたが「自分で」選ぶわけだから

別に「他のほう」を選んでもいいんじゃないの? 

 

なぜ わざわざ苦しいほうを 自分が選んできたのか

そっちを やめる方法を 探せばいいんじゃないの?

人生 楽しんでも いいんじゃないの?

喜んでも いいんじゃないの?

何をそんなにいろいろ 頭で決めつける必要があるの?

 

いつまでも 私はダメで ときに 私は かわいそうな人

ねえ そこから抜け出すのに

いったい 誰の許可が必要?

 

他人から分けてもらう可能性だけ 追求して

分けてもらえなければ不幸 分けてもらえたら 幸せ

でもいつも幸せになれるのは一瞬 

そりゃそうだ 他人任せだからね 

あ だから抜け出す許可まで求めたくなってるのかな?

 

任せているからいつまでも ちょうだい ちょうだい って言い続ける必要がある

私は雑巾 でもそんなちょっとじゃ足りない! って不満を 持ち続ける

ずっと自己批判しながら クレクレちょうだい! な人生 歩むの

そんなさ 自分に対する 人任せ放置型の べきべきな嘘つき人生

いつまで続けるつもり?

 

一生 夢見る夢子ちゃん

自分で自分を幸せにしていいことは 一生 無視して

どうして他者は 私が望むように 与えてくれないのよ! って

自分と他者への不満だらけのまま 老人になるつもり?

 

お互いが「自分自身」を大切にしつつ

「与えられる範囲で与え合う」からこそ

言葉で表現しきれないほどの 深い感動や感謝が生まれるのだと 私には思えるよ

 

いい加減 自分を見捨てておきながら

他人からばかり もらおうとするの やめてもいいんじゃないかな

自分を大事に出来ない人は 結局 

他人の思いも バキュームのように吸い取るだけで

大事に扱えないからさ

すぐに次も また次も さらに次も って

せっかく分けてくれている人に対して

永遠に 吸い取るだけになっちゃうからさ……

 

あなたが 自分で 自分のこと 雑巾扱いするのを「やめる捉え方」を探すのが

絶対的に と言えるほど先だと 私には思える

うまくいかないからと苛立ち クスリを飲んだり身体を縛ったり傷つけたり 

そんな自分をいじめれば済む みたいな方法ばかり

「~べきだから」という思い込みのもと 試すのではなくてさ……

 

2015_06_21

Photo by Ebowalker
Pixabay

 

人には人の……

他者のモノの見方 他者の事情というものは 

その人の生きてきた人生のなかで

いろいろ複雑に絡んで 湧いてきたことだったりするから

自分にも理解させてもらおうとして なぜなの どうして を連発したところで

その人本人にも 説明できない気持ちだってあるかもしれない

 

だから 根ほり葉ほり聞くことが親切ではないし

それでわかったつもりになって 相手にあれこれ言うのも

本当なら ちょっと違うのかもね

 

もしかしたら だけど

あなたがそのとき 自分のことを認めてもらおうとして

良さを 知ってもらおうとして 自分のことを見て やっているかもしれないよ?

 

そうじゃないかもしれない でもそうかもしれない

あなたもまた 自分の奥の気持ちには 気づいていないだけかも

 

私たちは そんなふうにして他者と関わっている

たとえそれが親子であっても 本当のところは 本人しかわからないってこと

あるかもしれないよね

本人さえ 気づけないでいること あるかもしれないよね

 

だから「私はこう思う」と 自分の意見を伝える そのときには

相手の意見を聞く時間もまた きちんと持つことは たぶん必須なのだと思える

 

たまにね この時間を 逆に相手に与えてあげないまま

なのに 気持ちを理解できるよねって 他者に迫ること ないかな

何も言わなくてもわかってくれるよね

きちんと説明するのは今はイヤ またはできない

 

そういうときは わかってくれるかどうか わかんないよ

説明することを ある意味 手抜きしたの あなただから

 

うまく説明できなくて困っているのだとしても

その 困っているということを 伝えないと

何がどうなんだか 相手にはわからない可能性あるよね

 

このあたりのこと 結構さぼってて なのに なぜわからないのよと怒るとき……

自分の気持ちを 表現して 説明していないのは 自分だってこと

気づいてもいいと思える

 

求めるのなら 自分の想いも きちんと出そう

いつも言ってるでしょ とか そういう言い方もやめて

今 の 自分 の 気持ちが どうなのか 伝えようよ

 

本当には わかり合えないかもしれないことが前提だからこそ

少しでも 共感がお互いに湧き 通じ合えたときには とてもうれしくなる

それが コミュニケーションというものの 醍醐味なのかもしれないよ

 

本当に全部丸々を わかり合えるようになろうとするから

おかしくなることも あるのかもよ?

 

あなたと私は 違う人間

あなたと私の間には 共通の気持ちを持つための 意識が必要

それを前提にするからこそ 余計にうれしさが増すってことを

今まで なぜなの? なぜなの? とばかり捉えていた人は

練習してみてもいいのだと 思えるの

 

その そもそもの 前提を変えれば

わかりたい わかってもらいたい相手 という存在のありがたさにも

もっときちんと 気づけるようになると思うしさ

 

まずは 相手を判断して決めつけるクセ やめてみるのはどうかな?

自分と他者は違う というのも 

奥に隠れている気持ちがあることも

当たり前 にしてみたらどうかな?

他者もあなたも 当然のことながら 

いつだって自由でいいのよ……

 

2015_06_20

Photo by HebiPics
Pixabay