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『自己否定』自体は「非難しない」練習

今日は、鬱の方に向けて語ります。

 

鬱という「状態に入っている」ときは、

脳みその作動がどうしても、暗い思考回路のほうを大きく開き、

明るいほうは細々とさせてしまうことが、確かにあると思います。

 

医学的にはドーパミンの放出量が減っていることなどが指摘されていますが、

治療においては、この薬剤なら万人に必ず有効、という類のものはなく、

そのため、自分の状態に応じていろいろな薬を少しずつ試しながら、

複数を使い分けている方もおられるでしょう。

 

私の場合は最初にいくつかの薬を試しましたが、

正直、どの薬も「効いた感じ」がはっきりとはしなかったため、

主に副作用のほうを考慮して、単体の薬剤と、

睡眠薬、胃薬、という組み合わせになりました。

医師からは、もし希死念慮などがこの先、ひどくなるようなら、

頓服薬的に使えるものも試してみましょう、と言われていました。

 

実際には2ヵ月後、事故による友人の急死が、

とりあえずそんなことを言っていられないような気持ちに私をさせ、

そのさらに半年後、知人が自死したために、

どんなに時間がかかっても「回復する以外の道」は、気持ちのうえで選べなくなりました。

 

薬の効果を待つよりも、回復する方法をちゃんと探さないと……という思い。

もちろん、薬はずっと、飲んではいましたけれどね。

少しは効いてるかな、と思えたのは、睡眠薬のほうでしたわ……。

 

と、なぜ、薬の話をしているかというと、

私の場合は、ですが、死ねなくなったと自分でハッキリ思い込んだことが、

実はいちばん効果のある『薬』だったのではないかと思えるからです。

 

鬱は心に関係する病なので、自分の「心情」が変化すれば、

それは当然、病の「症状の出方」にいろいろと作用するでしょう。

このことは、鬱という状態を過ごしている方なら、

当たり前のように理解してもらえるはず。

何らかの出来事だけでなく、たとえば朝、お日さまが昇るだけでも

自分の気持ちが変化し、それによって自分の思いの暗さや症状が変わります。

 

もちろん『思い込んだのが幸いしたんだな』なんてことは、

私もかなりあとになってから感じたわけで、

思い込んだのちにすぐ、何かが変化したわけでもありません。

 

むしろ当時は、だからといって何をどうしたらいいのかさっぱりわからず、

死にたい気持ちが翌日からきっぱり消え去る、なんてこともなかったので、

困り切っていた……というのが、いちばん正しい表現かもしれません。

 

ただ、友人の死の半年後に亡くなった知人が、

どれくらい苦しんでそれを選択したかはありありと想像できたので、

その人に対する恨み言だけは、全然、浮かんできませんでした。

 

『死』という選択肢が身近に思い浮かぶことは、

その知人との間でも話題になっていました。

これほど簡単に、するりと自分が、死という選択肢を持ったこと自体に、

最初は驚いていました。

 

ただ、それを本当に「やるかどうか」、実行そのものは

自分の勇気、諦め、未練、悔しさ、虚しさ、等々が

絡み合った試験問題みたいに思えて。

考えることと、やることは、別ものの話でした……私にはね。

そんなふうに「別もの」に感じるというのも、なってみて初めて知ったこと。

 

そしてまた。

自分の状態を、私はビジュアルでもイメージしていました。

 

まず「死んでもよかったとき」、というより、

私が生きているなんて迷惑なだけ、

だからいつ実行するかはともかく、死以外の選択肢は残されていない、

と思えていたとき。

光がほとんど差さないトンネルの中に自分がいて、

向こうのほうにはうっすら、光が見えていて、あれがきっと出口で……。

 

その出口は出た瞬間、道がT字路になっているように思えて、

たぶん右に曲がれば死、左に曲がれば生。

それくらい、あっさりと単純な二者択一のように感じていました。

 

ただ、そのトンネルの出口にたどり着ける勇気が私にはまだなくて、

出口の数十メートル手前で立ち止まっている……ような感覚。

 

だから知人が、亡くなったときは、

ああ、出口に行ってみて、右に曲がってみようと決めて、

それがたまたま、上手くいってしまったんだな……と思えて。

実行したところで、必ずしも成功するとは限らないことも

知識としては理解していたため、

「そうか、やってみたら成功してしまったのね……」というふうに、

なぜか感じていました。

 

そしてその知人の自死により、私はさらに、

トンネル内に立ち止まることができなくなったと思え……。

相変わらず死というものは、私の身近にいたけれど、

単にそっちへ私が曲がれない、と決めただけ、みたいな感じでした。

 

その後、知人の死による社内の大混乱があり、

それが落ち着いたころからの、次の自己イメージ。

私は『藻がいっぱい生えて濁っている川の中』にいる、小さな魚みたいなもの。

水は黄土色で視界が悪いから、まわりに何があるかはわからない。

見えないし、どうすればいいかもわからない。

とりあえずは藻の中にいて、ひたすら、口をパクパクさせながら、

その場所にとどまっている魚。

 

幸い、お日さまの光はうっすら届いていて、

真っ暗ではなかったのですが……。

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Photo by ウィキペディアコモンズ

これのね、もっと水が黄色く濁った状況。まわりの他の魚も見えないで。

何とも曖昧な、ぼんやりした感じでした。

 

そのイメージを持っているうちに、でも、

このままではラチがあかない、と、

回復への学びを深めようともし始めたのです。

 

やがて、頑張りすぎていた自分が『なぜそんなに力んでいたか』を

探ってみるのがよいように感じられ、さらにあれこれ、本やブログをたどり、

カウンセリングなどもいくつか受けて。

 

ダメであってもよい自分

ダメ、をたくさん決めつけていた自分

勘違いしまくっていた自分

 

に、いろいろな角度から気づけていけました。

私はものすごいレベルの『井の中の蛙』だったなあ、とも思えて、

それを笑ってゆるせるようにも、なっていったのです。

 

私がどんなふうに、漠然とした中を手探りで進んでいたか、

少しは伝わったでしょうか。

これかな、と思えるものを、ジワジワと探していった感覚。

あるキッカケでいきなりうまくいって、ばく進できたわけではありません。

一歩進んで二歩下がって、一歩進んで一歩下がって、二歩進んで一歩下がって。

それを、自分にゆるした……のです。

だって、本当はきっと死んだほうがよい程度の、ダメ人間だと感じていたから。

ダメ人間だからこそ、ダメでもともと、という開き直りを、

できたのかもしれません。

 

そういう意味では、この病に「ハッキリした解決策」なんてものは

もしかしたらなくて、ただ、なんらかのキッカケにより

自分の気持ちに変化が生まれることで、

たまたまそこから、ダメな自分をゆるす、という練習が始まるのかも、と

私には思えています。

 

他者と比較したところで、死にたくなるほどダメになっている自分が、

そもそも勝てるはず、ないんです。

そこの視点にしか、とどまれないうちに

自分が何らかの点で優秀になろう、何かを得ることで自分を認めようと努力する、

そういう部分でいくら、もがいても、あがいても、

自分を素晴らしいと思えるようになる夢なんて、叶うはず、ないのです。

だって基本の自己イメージが、ものすごい低さなのですから。

 

普段から、どこかで自己否定していたから、鬱という病に到ったのです。

そんなつもりだと自分ではよく知らなかった私も、

フタを開けてみたら、否定的な意識、てんこ盛りで。

 

でも、フタを開けてみようとするためには、

結局、否定的な自分を探ってみるしかなかったのです。

 

ダメな自分であること、それを常に、あるいは

何かあるたびにガンガン、自分でバカにし続ける限り、

たぶん鬱からも抜けられないし、ずっと井の中の蛙で、

ずっと、希死念慮につきまとわれたままなのかも……と、想像しています。

 

つまり、そのままでいることを、選ばなくていいんですよ。

他者と比較したところで負けるとわかっていて、

その否定的なまま、何かどこかに達してみようと、あがき続けなくていいのです。

 

そこから脱する、そのために必要なのは、きっと

自己否定につながる暗い気持ちのスイッチが入ったときに、

それを『鬱という病の症状』だと、ある意味、割り切ってしまうことなんだろうと、

今の私には思えます。

 

最初はとくに、どうしようもない中で、そこから変えていくしかないのです。

暗い気分になったとき、そんな意識になる自分を、さらに自分でバカにする。

その習慣自体をやめてみるくらいしか、最初はできないのでは、とも思えるのです。

 

もちろん、暗い気持ちは、めちゃくちゃ居心地が悪いです。

でもそこでイライラして、悲しんで、自分を罵倒しても、なぜなのよ、と暴れても、

鬱という病は、たぶん良くなりません。

その『自己否定する自分』を、『さらに罵倒』したところで、

自分の状態は変わらず、かえって疲れるだけです。

すると、病の症状として悪化することはあっても、

改善にはなかなか向かわないように思うのです。

 

自身では叱咤、の方法で激励しているつもりでも、

暗い気持ちのスイッチは、

ダメ、という言葉のほうに反応して

うっかり入ってしまうかもしれません。

 

暗くてダメな自分を、それ以上、非難しない。

罵倒し始めたら、やめることを選択する『勇気』を持つ。

それを繰り返してしまう自分のことも、批判しない。

イライラするくらいなら寝る、歌う。

無理やりにでも切り替えるくらいに、何か他の簡単なことをする。

 

酒、薬、自傷行為にも、頼りまくらない。

やってしまったときは責めない。

それくらい自分を痛めつけてしまうこと、

その『症状が起こっている状態である』ことのほうを、自分で認めてみる。

ゆるすのは、そっちです。自分の今の状態、のほう。

食べもの、飲み物の『量』で結果的に改善していくことではありません

(そういう手段に頼ると、逆により悪化する可能性が高いことは、

とてもよく知られていますよね)。

 

あなたが自分を「否定してしまう症状」、それ自体は今、仕方ないのです。

その状態を、またさらに自身で非難し続けるからこそ、

よけいにねじれて、らせん状にぐるぐるするだけで、長引くのです。

 

そんなことするくらいなら、暗くてバカな自分のままでいてください。

その状態を、採点すること自体、やめてください。

 

どうか、

もう、

やめて、

あげて、

ください。

 

あなたが、そこから脱するキッカケ、

それに気づいていく『チャンス』を、

あなた自身で、潰さないであげてください。

 

今は ダメ なまま でいいのです。

そういう、病なのですから。

批判でなく放置で構わないのです。

 

そこをまず放置していければ、私がここで『今はダメ』をあえて強調した理由に、

やがてあなた自身が、気づけます。きっと、必ず。

 

あなたは、自分を変える力をすでに持っている。

だからマイナスの方向である鬱にも、なった。

あなたが今、鬱だからこそ、あなたがすごい力を「すでに」秘めていることを

私も『知っている』と、言えるのです。

 

なので本当に、だいじょうぶ、なのですよ。

 

追伸:

ごくたまに、悲劇の主人公で居続けることで

中毒的にウットリと安心される方もおられますが、

そのままいくと、単に一生、悲劇の中で生きていかなくてはならないだけです。

出来事の悲しさの度合い、そうした派手さと、自分の良さを引き換えにすること、

『普段の自分をますます、つまらない人間と感じさせていく』罠に堕ちておられること、

そうした自分イジメのくだらなさ、レベルの低さに、

いつか気づかれますことを、心からお祈り申し上げます。

 

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Photo by ergiu Bacioiu
No.010005076
cc-library

 

「自分の気持ちを大事にする」っていうのは……

自分の気持ちを

いちばん大切に なんかしたら

自分のことしか考えないという

自分勝手な『ワガママ』と

即 イコールになる

 

そう捉えて 自分の気持ちを

きちんと ていねいに扱うこと

怖がる人 いるようだけれど

 

逆に 自分の気持ちをちょっとしか「感じない」で

言いたいことも 半分くらいにして

それで相手がどう受け止めるかを 見つめすぎるほうが

私から見れば よほど

『自分だけを見る』の罠に 陥ってると思えるよ

 

だってそれ つまりは

自分がどう思われるか

を いちばん 大事にしてるから

 

相手の「気持ちの奥」にある

『なぜあなたはそう感じるか』のところは

あとからしか 見ようとしないもの

 

反応された部分を まずまっ先に捉えて

「ああ そう思われた」

「そう受け取られた」

「そんな人間だと思われた」

そっちの 自分に対する評価のほうで まず頭が いっぱいになって

次に自分が『どんな人間だと受け止められたか』の詳細を 必死で捉えて

そこに起こった誤解やズレを解くには?

あるいはうまく反論するには?

と 対策を考える

 

……ね? 自分のことで頭いっぱい っていうよね それ

自分への評価の部分だけ 見つめてるって言えるよね

 

「私は こう感じるの」

「あなたは そう感じるのね」

そんなていねいなキャッチボールは しなくなってるってことだから

 

またさ 自分が感じることを 大事にしないで伝えない

そういうキャッチボールを 大切にしないままでいると 

全員が全員ではないけれど 中には たまにさ 

何かが起こって 今度は 自分が後ろめたくなったときにも

勝手に自分の内側だけで

仕方ないよ だって私 こんなにたいへんなんだから

ゆるされるよね いいよね って自分を「正当化」して

相手には説明しないで それこそワガママな振る舞いして

そこを突っ込まれたら 逆ギレする人もいるんだよ

 

相手に 後ろめたいその思いを 伝えなかったのは 自分なのに

わかってくれると思ってた! って 怒り出す

 

まあそれではね そりゃあれこれ 問題起きますよ

結果として 自分が感じることも

相手が感じた その根本のところも

大切に扱わない 全然 大事にしないからね

 

たとえ最初は怖くて 難しかったとしても

あるいは疲れていて どうしても説明が面倒なときでも

あとで逆ギレするくらいなら その前に

ごめんなさい 今は説明 無理

でいいんだよ そこはせめて 伝えなよ

 

そしてもし 相手の受け止め方が 自分の意図とズレていたら

そのズレ「私は悲しい」よね?

ならば まず「悲しい」って 伝えていいんだよ

 

どう思われたから こう だの

それはきっと ああだから だの

説明や言い訳を思いつくより先に

私はそれ 悲しい って まず素直に伝えなよ

 

あるいはさ 自分の意図とのズレを合わせる

そんな「つじつま」部分の説明さえできず

もう 相手の顔色 うかがうことが

顔色に合わせて 話すこと変えるほうが

いちばん問題なく過ごせるから とか思ってる?

 

あのさ 私の知っている範囲で

そういう 相手の顔色だけが 本当に大切だったと話してくれたのは

相手からの一方的な暴力を受けて おびえていた人とか

ある理由からどうしてもしばらくは そこに勤め続けなくてはいけないのに

相手がものすごくワンマンな雇い主だとか

あるいはもう お金のためと割り切っているがゆえの

すごい上顧客の人への追随 おべんちゃら とか……

 

自分の過去の苦しみとして そうした話をしてくれた人たちは

ブログや著書や講演で それがいかに偏りを持っている苦しみだったかの実例として

自身の体験を伝えてくださり

それぞれそのとき 大きな問題を抱えていて

本当に 命を護るためだったとか

本当に お金がそのときどうしても必要だったから とか

そうした すごく明確な意識で 

自分が感じることの『封印』

あえて わざと やっておられたんだよね……

 

それは ある種の 覚悟を持った割り切りだった

それもまた 自分を護るための選択だったの

その人たちは 自分の存在の根源 護るために

そのとき 割り切って 覚悟持って 気持ちを封印してたんだ

だから自分の気持ちは 感じないと「決めること」ができていた

 

自分の気持ちを 大切にしないっていうのは

意識してやるなら それくらいの覚悟が必要で

辛くて たいへんなことなんだよ……

 

でも 日常において

自分が感じることを 大切にしない人は

そんな覚悟や決意までは していないだろうから

ただ ひたすら おかしな具合のことが起こって

問題がねじれていって たいへんなだけになると思えるんだ

 

だって私は私のこと 嫌いなんだもん!

そんな 大切になんか したくないんだもん!

こんな私みたいな人間にそんなこと する気になれない できるはずない!

うん そう言い切れるのなら さ

なぜ 相手に

自分を大事にしてほしいって 望むのだろう?

自分ではやらないことを なぜ他人に 求めるんだろう?

そこは 矛盾してるよね

 

そして何より

あなたが大切でないものを 他人が大事にしてくれたところで

あなたは 本当に心からは 喜べないよ

だって 信じきれないもの それ

泥団子にダイヤモンドの膜を かぶせたような具合に感じられて

誤解してるんじゃないだろうか

今だけじゃないだろうか

またすぐ 悪いところがバレて

嫌われるんじゃないだろうか ってね

 

せっかく目の前の相手が 

あなたを今 まさに

大切にしてくれているのに

あなたの不安 消えないままなんだよ

 

だからさ あなたがもし 自分のこと 大切にしてほしいって

相手に対して今 本気で望んでいるのなら

そして自分の気持ちを「感じる」ことを

命がけの問題として抱えたある理由から 封印しているのではないなら

(もし封印している場合は まずその環境から離れることが何よりも優先

物理的に対処できる部分を まっ先に実行することが いちばん重要だよ)

 

あなたが 誰よりも先に

自分を大切にして いいんだよ

自分を大事にして いいんだよ

というより あなたが自分を嫌うことを やめるのが先なんだよ

 

大嫌いな自分 

そこをきちんと 見つめてみようよ

なぜ そこまで 否定しなくちゃいけなくなったか

なぜ そこまで 嫌わなくてはいけない存在なのか

ひも解く必要があるのは そっちだよ

 

なぜ 私は他人の顔色ばかり うかがってしまうのだろう

なぜ 自信がないのだろう

どうすれば 他人の顔色 うかがわないようになれるのだろう

解きほぐすべき問題は その部分じゃないんだよ

 

あなたが今 まさに思い込んでいる

ダメな自分 どうしようもない自分

そっちのほうだ

 

自分のダメさは 自分のひどさは

自分がいちばんよくわかってる?

 

本当にダメで 本当にひどい人って

自分のことしか 考えてないよ

自分のこと どこか嫌ってるけど

それはもうまったく 見ないことにして

自分のことだけ 可愛がってるよ 表面上はね

そしてそれを貫くためにも

特定の人物以外の その他の顔色なんて うかがわない

 

だからさ たとえば振り込め詐欺だって お手伝いできるの

自分はお金儲かるもんね いいもんね って正当化して

そういう方面のひどさを 発揮できる

 

見る人が見れば そういうひどさだって

かなりの Help me! な

SOS信号なんだけれどね

まあ その話は 今はいいや

 

つまりはさ 自分が嫌い! って明確に意識できる人は

本来の意味では ひどい人ではない

ということは あなたは いや あなたがたぶんいちばん

自分のことを 今 わかっていない

 

そう『今は』だけれど

いちばん自分のことを 理解していないと

私には ごめん 思えるよ

 

そしてまた 自分を嫌いと思えてしまう

その気持ち自体が どれくらい苦しいことかは

私も 過去に知って それが苦しかったからこそ

「自分の思い込み」にも気づけたんだ

 

苦しみって 自分を知るきっかけにもできるよ

わかっていなかったことを 気づけるよ

私自身の話だけじゃなく そんな例が 本当にたくさんあると 学んできて

だからこそ今 私もまた あなたは自分のことわかってないよ と 言えるんだ

 

相手の顔色 知る前に

相手にどう思われるかを 知る前に

自分が自分のこと どう捉え直せばいいか

そっちを知ってほしいと

心から祈るよ

 

あなたは あなたが思っているほど ひどい人じゃないから

絶対に 絶対に それは 違うから……

 

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Photo by jr_juninho_210
Pixabay

 

都合のよい実現

自分の「望み通り」を叶えたい。

誰だってそういう意識を、部分的にせよ、持っていることだろう。

 

ただ、そこ「だけ」を叶えたいのに、とかいう形にしてしまうと、

いろいろなものが自分の『想像』からは

都合よく、抜けていってしまうことがある。

 

そしてなぜ、こんな余分なことまで起こるの? になったり、

ときにはとても『自分にとってだけ』都合のよい理想形を描いてしまって、

実現すること自体をややこしくしたり、難しくしたりすることになる。

今日はそんな話。

 

たとえば、「認められたい」って気持ちがあるとするよね。

あ、私を例にしてみようかな。私もその気持ち、あるからね(^◇^;)

 

そのときあなたは、誰から認められたいか。

私の場合はまず、会社と友人から、つまり身近な社会から認められたくて、

さらに、そうなりたい理由の『本当のところ』は、

自分の母親にそういう姿、

「社会的になんとなく成功している自分」を見せることで、

勝手に家を出た(といっても就職した勤務先が実家から通えない距離だっただけだが)

と、ある面では非難された自分のことを、認めてもらおうとしていた。

 

ほら、(それなりの範囲で)立派でしょ、

ちゃんとやって幸せになってるでしょ、

単に親不孝したわけじゃなかったでしょ?

と、見せつけたい&見せて安心させる、の両方。

 

まあね、偏っておりましたことよ、ええ、なんともね。

 

で、それを叶えようとやり過ぎて、ボッキリ折れてから、

そんな形で「自分の人生」を、別につくらなくてもいいのだと知り。

 

どうやったらもっと、自分を「自分一人だけ勝手に」ではない形で

楽しませられるのかなー、という試行錯誤を、できるようになった、と。

 

今の母親は、怒っている部分と、心配している部分、の両方を持っていることでしょう。

なので、ありがとう、そのうちの『愛』の気持ちだけ受け取って、

あなたに何かを「示す」ためには生きません、おゆるしを。

結果的にそこにつながれば、なお良しだけれどね、

私自身はもう、それを目標には設定しないのだ。

なぜなら、面倒だから。

 

ああ、何とも端的な表現でごめんなさい。

でも、相手の都合のために、相手『だけ』が心地よさを感じられるように、

それに合わせて自分を変えるの、本当に面倒になった……相手が親だけに、余計に。

 

たとえばね、仕事上での一瞬、あるお客さまの場合には仕方ない、とか

そういう方便のひとつとしてね、キャラクターも変えますよ、

なんていうシチュエーションならば、まだともかく。

 

それこそ生活全般、生き方全般に至るまで、指南(?)された通りを

完璧に実現しようと望んで生きるのは、それ、

私は誰のために何を求めて生きてるんだよ

ってなっていたことに、やっと気づいたわけ。

 

まあ、ちょっと話はズレたけど(笑)、

今はそこをちょっとずつ、クリアにしていけて、

割り切りする部分もできたよ、と。

 

それと同時にね。

ただなんとかそこそこ、立派になろうという部分だけでなく、

私の場合なら、どうしてもこの仕事をやりたいから、と、

道なき道を自分で探って作って、切り拓いていった部分、あったのさ。

特に社会人、初期の頃ね。

 

それはまあ、単純に、自分のためにやっていたこと。

どうしても望んだ部署に入りたくて、思いつく限りの働きかけはやっていた。

 

そもそも、その部署を目指して入社して、

部署のあるエリアで働きたい、という希望を出して、

泣く母親を振り切って家を出た、という意識も、自分の中にあった。

だからこそ余計に、その希望を実現させたかったのだろうと、今なら思える。

青くて、肩肘張っていた時期。

 

ま、そうやってバリバリに一直線で目指せば、

それなりに徐々にアイデアも思いつき、道なき道でも歩んでいけた。

たとえればそれは、熊笹が生えまくりの山中で山頂目指して歩いて、

鎌でいちいち笹を刈りとって道を作りながら、

おお、この木の周辺なら、熊笹もなぜか少ないのね、とかいう見分け方も、

だんだん知っていく感じ。

そういうのを、やっていくうちにわかっていったのだ。

 

でもさ、そんな『道なき道』をたどるとね、その後で、

その部署へ異動したいがために、こっそりアタック(働きかけ)した人たちに

妙に気に入られたりして、やがては、はい? と思えるような、

話の広まり方もするわけ。

 

上の人達が「コイツ、根性あるよ」と

堂々とほめてくれるのはうれしかったけれど、

当然、それが気に入らない先輩方も登場するわけさ……。

 

そんな形での目立ち方とか評価とかまでは、私、望んでなかった、もちろん。

その部署の、あるチームへ行けさえすればよかったのだもの。

 

でもさ、今から考えれば、そんな道なき道をたどれば、

それを知った人からは、そう言われる可能性、当然、生まれるよね。

私が目指すモノだけ見つめすぎてて、そこまでは想像できてなかっただけで。

 

ハッキリと認められたい(=異動したい)けれど、

嫉妬はされたくない、というのは、私だけの都合。

「ポッと出」の新人がいきなり異動できて、そこの役員にほめられたら、

そりゃ調子のってる! と捉える人もいるわいな。

 

ま、幸い、それらの先輩方は、私がスルーできる関係だったからよかったものの、

直属の上司だったら……たいへんだったと思う、さすがに。

 

あのときの、自分のバイタリティーそのものは、今でも否定していない。

でもそんなふうに集中して、叶えようとだけしすぎて、

私も周りが見えなくなっていただろうなあ、とは思う。

 

また、周りも周りで、私も認められたいのに、とか、面白くない、とか、

その人の都合や問題、かぶせてくるのよ。

 

だからそのときは

それ、私の問題じゃないし

ということを、ハッキリと意識したほうが、

よほど早く、楽になれると思う。

 

いちいち反応してつられてしまうと、自分も苦しいし、

場合によっては相手にも

「私のために変わってくれるんじゃないか」

というヘンな期待を抱かせて、余計にあとからややこしいことになる。

 

そう、私の、超・頭の良い元同僚が、東大の学生だった時代に

同級生にストーカーレベルでつきまとわれて、しかもそのとき相手から

「そんなふうにひどく怒るというのは、僕のことをそれこそ気にしてる証拠だよ。

だからちゃんと付き合おうよ、そうしたら君も僕のことわかるよ」

と、延々、主張されたらしいのよね……。

私も似たようなことをストーカーから、怒ったときに言われたから、

2人で「相手に反応、返したから、そうなったんだよなあ」と、

当時、しみじみしていたのであった。

 

ま、単純な例ではあったけれど、

何だか余計なものを呼び寄せてるな、と気づいたときは、

自分もまた、見えてないのかもしれないから、

ちょっと落ち着いて、周囲を見渡してみても、いいと思えるよ。

サクッとできるようになるわけではないことだけれど、

自分なりに練習は、できると思えるから。

 

少なくとも、欲しいものだけに集中しすぎてしまうと、

自分で自分の視野を限ってしまうことがあることは、

知っていてもいいと思える次第です。

 

2015_04_24

Photo by KatrinKerou
Pixabay