都合のよい実現

自分の「望み通り」を叶えたい。

誰だってそういう意識を、部分的にせよ、持っていることだろう。

 

ただ、そこ「だけ」を叶えたいのに、とかいう形にしてしまうと、

いろいろなものが自分の『想像』からは

都合よく、抜けていってしまうことがある。

 

そしてなぜ、こんな余分なことまで起こるの? になったり、

ときにはとても『自分にとってだけ』都合のよい理想形を描いてしまって、

実現すること自体をややこしくしたり、難しくしたりすることになる。

今日はそんな話。

 

たとえば、「認められたい」って気持ちがあるとするよね。

あ、私を例にしてみようかな。私もその気持ち、あるからね(^◇^;)

 

そのときあなたは、誰から認められたいか。

私の場合はまず、会社と友人から、つまり身近な社会から認められたくて、

さらに、そうなりたい理由の『本当のところ』は、

自分の母親にそういう姿、

「社会的になんとなく成功している自分」を見せることで、

勝手に家を出た(といっても就職した勤務先が実家から通えない距離だっただけだが)

と、ある面では非難された自分のことを、認めてもらおうとしていた。

 

ほら、(それなりの範囲で)立派でしょ、

ちゃんとやって幸せになってるでしょ、

単に親不孝したわけじゃなかったでしょ?

と、見せつけたい&見せて安心させる、の両方。

 

まあね、偏っておりましたことよ、ええ、なんともね。

 

で、それを叶えようとやり過ぎて、ボッキリ折れてから、

そんな形で「自分の人生」を、別につくらなくてもいいのだと知り。

 

どうやったらもっと、自分を「自分一人だけ勝手に」ではない形で

楽しませられるのかなー、という試行錯誤を、できるようになった、と。

 

今の母親は、怒っている部分と、心配している部分、の両方を持っていることでしょう。

なので、ありがとう、そのうちの『愛』の気持ちだけ受け取って、

あなたに何かを「示す」ためには生きません、おゆるしを。

結果的にそこにつながれば、なお良しだけれどね、

私自身はもう、それを目標には設定しないのだ。

なぜなら、面倒だから。

 

ああ、何とも端的な表現でごめんなさい。

でも、相手の都合のために、相手『だけ』が心地よさを感じられるように、

それに合わせて自分を変えるの、本当に面倒になった……相手が親だけに、余計に。

 

たとえばね、仕事上での一瞬、あるお客さまの場合には仕方ない、とか

そういう方便のひとつとしてね、キャラクターも変えますよ、

なんていうシチュエーションならば、まだともかく。

 

それこそ生活全般、生き方全般に至るまで、指南(?)された通りを

完璧に実現しようと望んで生きるのは、それ、

私は誰のために何を求めて生きてるんだよ

ってなっていたことに、やっと気づいたわけ。

 

まあ、ちょっと話はズレたけど(笑)、

今はそこをちょっとずつ、クリアにしていけて、

割り切りする部分もできたよ、と。

 

それと同時にね。

ただなんとかそこそこ、立派になろうという部分だけでなく、

私の場合なら、どうしてもこの仕事をやりたいから、と、

道なき道を自分で探って作って、切り拓いていった部分、あったのさ。

特に社会人、初期の頃ね。

 

それはまあ、単純に、自分のためにやっていたこと。

どうしても望んだ部署に入りたくて、思いつく限りの働きかけはやっていた。

 

そもそも、その部署を目指して入社して、

部署のあるエリアで働きたい、という希望を出して、

泣く母親を振り切って家を出た、という意識も、自分の中にあった。

だからこそ余計に、その希望を実現させたかったのだろうと、今なら思える。

青くて、肩肘張っていた時期。

 

ま、そうやってバリバリに一直線で目指せば、

それなりに徐々にアイデアも思いつき、道なき道でも歩んでいけた。

たとえればそれは、熊笹が生えまくりの山中で山頂目指して歩いて、

鎌でいちいち笹を刈りとって道を作りながら、

おお、この木の周辺なら、熊笹もなぜか少ないのね、とかいう見分け方も、

だんだん知っていく感じ。

そういうのを、やっていくうちにわかっていったのだ。

 

でもさ、そんな『道なき道』をたどるとね、その後で、

その部署へ異動したいがために、こっそりアタック(働きかけ)した人たちに

妙に気に入られたりして、やがては、はい? と思えるような、

話の広まり方もするわけ。

 

上の人達が「コイツ、根性あるよ」と

堂々とほめてくれるのはうれしかったけれど、

当然、それが気に入らない先輩方も登場するわけさ……。

 

そんな形での目立ち方とか評価とかまでは、私、望んでなかった、もちろん。

その部署の、あるチームへ行けさえすればよかったのだもの。

 

でもさ、今から考えれば、そんな道なき道をたどれば、

それを知った人からは、そう言われる可能性、当然、生まれるよね。

私が目指すモノだけ見つめすぎてて、そこまでは想像できてなかっただけで。

 

ハッキリと認められたい(=異動したい)けれど、

嫉妬はされたくない、というのは、私だけの都合。

「ポッと出」の新人がいきなり異動できて、そこの役員にほめられたら、

そりゃ調子のってる! と捉える人もいるわいな。

 

ま、幸い、それらの先輩方は、私がスルーできる関係だったからよかったものの、

直属の上司だったら……たいへんだったと思う、さすがに。

 

あのときの、自分のバイタリティーそのものは、今でも否定していない。

でもそんなふうに集中して、叶えようとだけしすぎて、

私も周りが見えなくなっていただろうなあ、とは思う。

 

また、周りも周りで、私も認められたいのに、とか、面白くない、とか、

その人の都合や問題、かぶせてくるのよ。

 

だからそのときは

それ、私の問題じゃないし

ということを、ハッキリと意識したほうが、

よほど早く、楽になれると思う。

 

いちいち反応してつられてしまうと、自分も苦しいし、

場合によっては相手にも

「私のために変わってくれるんじゃないか」

というヘンな期待を抱かせて、余計にあとからややこしいことになる。

 

そう、私の、超・頭の良い元同僚が、東大の学生だった時代に

同級生にストーカーレベルでつきまとわれて、しかもそのとき相手から

「そんなふうにひどく怒るというのは、僕のことをそれこそ気にしてる証拠だよ。

だからちゃんと付き合おうよ、そうしたら君も僕のことわかるよ」

と、延々、主張されたらしいのよね……。

私も似たようなことをストーカーから、怒ったときに言われたから、

2人で「相手に反応、返したから、そうなったんだよなあ」と、

当時、しみじみしていたのであった。

 

ま、単純な例ではあったけれど、

何だか余計なものを呼び寄せてるな、と気づいたときは、

自分もまた、見えてないのかもしれないから、

ちょっと落ち着いて、周囲を見渡してみても、いいと思えるよ。

サクッとできるようになるわけではないことだけれど、

自分なりに練習は、できると思えるから。

 

少なくとも、欲しいものだけに集中しすぎてしまうと、

自分で自分の視野を限ってしまうことがあることは、

知っていてもいいと思える次第です。

 

2015_04_24

Photo by KatrinKerou
Pixabay

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

code