木元見春 のすべての投稿

熱々でなく「静かに落ち着ける温かさ」が好みです

なんとなくわかってはいたけれど、

他者の文章を読んで、

あらためて自分の中で腑に落ちたこと。

また短縮URLで、それらの記事も紹介しながら、

今日は思い切り、自分内整理させていただきます。

 

なんのことかと言うと、それは共感の「示し方」。他者との近づき方や、

カウンセリングでの、あるやり方や「度合い」に関する、個人の好みの話。

 

先日、心屋さんがね、共感する面での『女子力』について、

記事を書いておられた。

◎心屋仁之助
「■女子力と、カウンセリング力」
http://ow.ly/3xKKjN

 

これを読んだときに、あー、なるほど、私も、

ハグしちゃうよ、方面の共感の示し方は、基本、しないな、と思った。

 

それが実際のカウンセリングの場面であっても、今のところ

そこまで「熱めの、温かい共感」を示すやり方はしていないし、

私はたぶん、そういう方向性の手法は今後もしない、と。

 

この記事で心屋さんもおっしゃっているけれど、

 

『「わかってほしい」が強い人には

「わかってもらえる」というのが、まず先に、とても大事』

 

というところも、それはそれで、ふむふむと、納得できたのよ。

でもそこで、悩み続けるご本人がとどまってしまうと、

『ただの「くれくれ星人」になってしまう』

という部分に、そーだよなー、カウンセリングで起こる疑似恋愛って、

こういうことから始まるんだろうなー、と、思っていた。

 

そうしたら、ですよ。

今日また心屋さんが、あるお母さんからの、

自分の娘に対する実験的なカウンセリングの体験話を、アップされていて。

 

■自分が自分の「本心」に気付く方法
http://ow.ly/3xKKrC

 

この記事の後半、共感しまくって娘を盛り上げるお母さんの様子を読んだときに、

あ、これはほぼ、私にはできない方面だ、と速攻で思えた。

 

『いなくなっちゃえばいいのにね』(の、さらにオブラート取り去った版)などは

もはや私、言いたくない部類に入る表現だし、

一緒に他者を批判して、その悪口度合いをどんどん高めて盛り上がっていくこと自体、

私は中学生くらいのときから、あんまり得意じゃなかった。

 

だからもし、それで相手から「すごい」と喜んでもらえたら、

場合によっては心地悪いと感じるかも……。

 

そしてこのお母さんを、悪い意味ではなく、すごいと思える私もいる。

何だろうな、私の知らない強さ。

それは私に、娘という存在がいないからかもしれないし、

あるいは自分の内側の一部に、割り切りスッパン! の

オッサン脳(笑)を持っていることも、関係しているかもしれない。

 

だからどうやらね、友だちと話すときでも、

ふむふむ、そうなんだねー、と、

わりと静かめに、温かくゆるく、共感することを好んでいるようなのだ、私。

 

でね、これは完璧に『私が勝手に受け止めた、私側の感覚』なのだけれど、

先日、ある場面において、この記事のお母さん的手法を

自主的に寄り添って発揮するのが、仲良しの愛ってものでしょう!

と、宣言されたように「私が」感じたのよ。

 

詳細は思い切り省くけれど、経過の最初のほうの段階ですでに

かなりハッキリと、それを求められたように「私が」受け止めた。

 

なのであんなにもスッパリと、違うアプローチを示したんだわ、私。

 

しかもそれを、最後に正当化もされたように感じて(この辺は私の

色眼鏡だったのか、それとも事実だったのか、確かめようもないし、

今は確かめたい意志もない)、

それで思わず笑ってしまい、相手のことを『卑怯』と思えたのだわ……。

 

あ、かなり意味不明で、しかも強いこと書いていて、ごめんなさいよ(^◇^;)

それくらい『方向性がまるっきり違う』って自身で受け止めたら、

そりゃもうオッサン脳バリバリに発動させて、スパーンと違うやり方するわ、

私なら……いや、私だから。

 

そういう意味では、相手も人選を間違えていると思えるし、

しかもそのときのテーマが、これまた、とてもとても機微を要することであると

私が『常々、思っていた』ものだったゆえに。

さらにスパーンとしたくなったのだね。

間違えたらやばいと、ハッキリ思えたから。

 

なるほどなー。

自分の感覚や感情の経過を、

まさかこんなふうにたどれるとは思ってもみなかった。

いやあ、自分がどういう人間なのか、また一つ、知ることができました。

 

私は静かに温かい共感を示す、わりと落ち着いたやり方が好きで、

別にそれがカウンセリングでなくても、

自分であれ、他者であれ、近づきたいときは

そういう方法であれこれ紐解き合っていく、

そういうのを好む人間だと、改めて気づいた……。

 

南の島のおっかさんは確かにLoveだけれど、

ま、目指しているのは春だし、この木なんの木だし、

そういう意味ではドッシリしていても熱々では全然ないかー、と、

これまた、謎めいたことをメモしておこう。

 

はい、きっと最後までよくわからないままの方、いらっしゃいますよね、

ごめんなさいね。

私はアメンバー記事を書かない人だし

(今後もきっと書かないだろうな……ここはそのための場ではないし)、

今回の気づきは『木元見春としての私』を示すことにもなると思えたので、

あえてメインブログにて、公開記事とさせていただきますm(_ _)m☆

 

意味不明のまま、最後までモヤモヤされた方がおられたら、

どうか今回だけは、おゆるしくださいませ。

 

2015_04_20

画像番号: kis0102-009
Photo by pro.foto

 

『怒り』という面倒くさい感情

いきなりなんだかな、なタイトルですみません(^◇^;)

前のブログに、自分で

「無駄なことにエネルギーを使いたくない」、

という類のことを書いて、

そういえば最近の私は、怒るという行為を

『すごく疲れるもの』だと

思っていたことに、改めて気づきました。

 

2015_04_19

Illustration by Nemo
Pixabay

 

もともと、怒りの感情は、私の場合、

実際にプンプンしているときにでも、

長引かせたくない、と強く思える種類のものでして。

 

だからドッカンと爆発させるよりは、

どちらかというと説明を試みるほうへ注力していました。

でもまあ、こちらも怒っている状態でそれをやるわけですから、

当然、相手にも怒りの波みたいなものが届いて

肝心なポイントは届かない、なんてことも普通に起こり(伝える内容そのものよりも

「なぜそんな言い方をするのか」の部分で先に相手にも反発が起こり、

伝えたいことがうまく伝わらなくなる)、

疲れる結果が残りやすいと感じていて。

 

あと、私は、はっきりモノを言うクセもあるため、余計に反発もされやすく、

それゆえに感覚的に「難しいやり方」と捉えていて、

さらに『苦手』な範囲のものだった、かもしれないです。

 

そしてまた。

私の場合は、他人に良く思われたい、見られたい、

認められたいという気持ちが強かったため、

批判されることになりやすい『怒りの表現=ケンカ』というやり方が

さらに苦手に感じるのだろう、とも思っていました。

 

とくに仕事の面では、怒りを見せることで、自分の感情を

まともに扱えない、

コントロールできない、

みっともない人間だと思われて、

他者から認めてもらえなくなる。

そんな方面の捉え方、していました。

 

それは裏を返せば、仕事ですぐに怒る人間のことを

私が『感情コントロールがうまくない人』だと

評価しているってことで、しかも、

よろしくない方面のことだと捉えていた、ということになります。

 

ま、仕事だけに限らず、プライベートでも、

私は良く思われて得をしたかったのかもしれないですね(^^;)

 

これらのうち『認められたい自分』と『コントロールできないこと』については、

鬱で心理学その他の本をたくさん読んで、

人の話も聞いて、少しずつ変わってきていると思えます。

脳の器質、つまり仕組みの個性による個人差もあることも、知りました。

 

そして何より。

他者評価よりも自身の気持ちを大切にする、という捉え方を知り、

それを何度も練習していくうちに、だんだんと、

相手も同じく、そうしていいんだ、ということを感じ始めました。

 

それでもなお、そうじゃない! と自分が思うことはもちろんあり、

また、相手もそう感じれば、お互いに通じないことはある。

これも当たり前の話です。

 

鬱になる前の私は、そういう『当たり前』のことを

知っているようで実は知っていなくて、

いろいろ失敗してたなぁ、と思えます。

 

そして通じないときに、

選択の自由の範囲なんだな、と思えたり、さらには相手の怒りが

相手側の「問題ゆえ」だったりする、ということを体感し始めてからは、

こちらも『今は届かない』という事実を、受け入れられるようになって。

 

そこを「なぜだよ、何でなんだよ」と、長々引っ張り

自分がもだえてしまう(笑)時間も減りました。

 

あきらめるというよりは、いったん留保する感じ。

そして留保している間に、私の気持ちや考えは、本当にそれしかないのかどうか

(ま、これはある意味、悔しいやり方(笑)でもあるのですが)

見つめてみようかな、と思えたりもして。

 

見つめてみて、それでも、私はこのほうがいいと思う人間なんだ、と

自分でつかめれば、そこは『自分が』安心できるわけです。

 

で、そのあとで相手の言い分についても検討して、

私とは感覚が違うけれど、この人は、それがいいと思えるんだ、

というふうに「つかめた場合」は、

私、とくに身近な相手については、自分がそうつかんだのだ、ということを、

言い合いした相手に直接『あえて伝えてみる』、

そんな方法をやってみようと思ったのです。すごく勇気がいったけれどね(^^;)

 

合計で3回くらい試して、あ、それは全部、同じ相手でしたが、

その結果、その相手とは、ケンカすること自体がほぼ、なくなりました。

 

具体的には、

あんな「言い方」をしたことをまず謝るね、

ごめんなさい、言い方からしてもう、伝わらなくても当然だった。

私はこう主張したけれど、あなたはこう主張してたんだよね、

で、私は、この部分については、あなたの言い分もなるほど、と思えて、

ここについては、どちらでもいいんだ、と思えて、

この部分は、自分が言ってることのほうが

こういう理由から「私にとっては良い」と思えて、そこはごめん、譲れないわ。

 

こんな感じ。

当然、相手も最初、すごく驚いていました。

そして私が「ケンカ口調になったこと自体」を『先に』謝ったことについて、

その人の場合、びっくりするくらい、喜んでくれたのです。

自分は、なかなかすぐに謝れない人間だから、

先に言ってもらえて、うれしかった。その勇気もすごいと思える、

こちらこそ、激高してゴメン、と。

 

これはね、ケンカしてわりとすぐあと(1~2時間後くらい)だったから、

私もうれしくて。

そして、自分のコンプレックスを素直に打ち明けられるこの人もすごいな、と思えて。

 

こういう空気感になったら、お互い静かに、一緒に検討、相談し合えるのだと、

これもまた、初めて知ったことでした。

で、お互いに譲れない部分は、仕方ないね、残念、となって。

 

まあ、たまたま、その相手の人がすごい人だったから

うまくいったと言えばそれまでですが。

でもね、これ、さらに自分に波及効果をもたらしたのですよ。

 

留保を知ると、なおさら、怒るような事態が起こっても、こちらはまず

「怒りに使う時間」そのものを、長引かせないで済む。

そして怒っている相手のことを、自分が気にしすぎない。

通じる人にはあとからきちんと通じる、だいじょうぶ、という確信ができて、

そういう意味では、目の前の相手が怒っていても、たぶん怖くなくなったのです。

 

これもまた、とてもありがたい話で。

自分が「怖くなくなった」から、結果的に、

先に述べた自身のマイナス的な捉え方、

『認められたいがゆえに怒りが苦手』な意識も、

たぶんね、自分の中からジワジワ消えていってるのだと思えます。

しかも実際、怒りを引きずる時間が減ってるわけだから、さらにラクで。

 

こうなると、卵が先か鶏が先か、じゃないけれど、

相互作用で自分がどんどん、面倒な感情を長引かせないで済んでいるわけです。

 

だから、勇気を出して自分の内側だけででもまず練習してみることで、

それは、いろいろな形の波及効果を自分にもたらして、

本当に良い方向へ作用してくれることがありますよ、って、

私ははっきりとした確信を持って、今は言える次第。

 

たまたま、今回は『怒り』がテーマでしたが、

これ、悲しみや自己否定にも、応用できますよ。

誰かへの実践練習は難しくても、

自分の捉え方のほうは、落ち着いているときに練習することが可能だと思えます。

そういう例として、読んでいただければ幸いですm(_ _)m

 

 

『心地悪い』ものは『心地悪い』でよい。そのうえで、ならば私は。

昨日の続きのような話。

自分の判断をすぐに採点するのをやめると、

ただ『私はこう感じているのね』が現れる。

 

具体例としてこの前、私が出したものをもう一度、拾ってみようか。

書類を作って渡したら、その書類がどこかに行ってしまい、

しかも渡した本人が「受け取ってないんですけど」と言いに来た。

 

はい、事実はこれ。

起こった「出来事」は、これだけ。

書類は今、実際、なくなっている。

 

そしてこの場合、それは『仕事』であり、

『書類を仕事上のルールで、待っているお客さま』がいて、

その締め切り時間が迫っている。

 

たまたま、これは仕事上の話なのだから、まずやるべきことは、

どうやったら『待っているお客さまに、迷惑をかけず渡せるか』である。

 

なくした人が何をもくろんでいるか、

私が何をどう感じるか、よりも先に、

もともとの目的を、できるだけ滞りなく果たすことが、この場合は最優先。

だって時間、ないのだもの。

私はそういうふうに捉え、優先順位の1番目を「渡すこと」に設定しましたよ、と。

 

そして単純にね、業務としてそのトラブルを減らすのなら、

受け取りのサイン欄、作ればおしまいなの。

紙1枚なんて、怒濤の仕事の流れが起こっているときなら、

なくなってしまうことも、あり得るから。

よろしくないけれど、普通に、あり得るから。

そのときに「どこにある可能性が一番高いか」を、

なるべく明確にわかるように、あらかじめ手を打てばいい。

 

で、あとは、私が「受け取ってないと言い張られること」を、

心地悪く感じた、という事態が残る。

 

私は、なくした人に『怒り』を覚えることもできる。

なぜなら、もらってない、と言い張るその相手の「姿勢」のことを、

『問題が起こったときには真っ先に「私には責任ありませんよ」と主張しに来る人』

と捉えることもでき、それは私の感覚では『卑怯』な部類に入るやり方だから。

その責任逃れのやり方を、私はズルイと感じる。あくまでも私は、ね。

 

私なら、渡された記憶がもし自分にはなくても

その『なくなった事実』を「手元にない」と表現するし、

「作ってもらいましたっけ?」と尋ねにいく。

つまり相手とは、事実の受け止め方が違う。表現の仕方も違う。

問題に対処する際の、感覚が違う。

それだけのこと。

 

で、さらに、私はその相手のことを、そもそも

「認められたい気持ちが強すぎないか?」と見ていた。

 

ならば。

「怒っても、きっと、ある意味ムダ。今は通じない」

と、私は捉えることにしよう。

職場というところでの、業務上の人間関係において、

今すぐに自分が怒りを持った挙げ句、

さらに伝えて「届かない空しさ」まで抱えるの、イヤだわ。

 

と、この場合は私が『折り合いをつける』ところはまず現状、放棄した、と。

 

そうしたら、相手が先に、勝手に怒った。

しかも相手も『折り合いつける』の部分は、放棄してきた。

 

おお、すげー。

だがしかし、やっていることの後半は、

はい、お互いさま。

 

そうなのよ、怒りもある意味、

その相手と『和解』『共有』『共通認識』を持ちたいがゆえに

表れたりすること、あるのよね。

「こちらの考えをわかってよ」「言ってる意味を、正確につかめよ」だから。

 

そこが必要なければ、怒りだって、実はそれほど湧かない。

たとえ湧いても、仲のいい友だちに、

話させて、と頼んで、時間を作ってもらえばいい。

吐き出したらそれでスッキリすることもあるし、

どうしても整理できなきゃ、カウンセラーさんのところへ行けばいい。

 

で、それ以降は、私と「違う感覚」の人が、

常に職場の近い位置にいる、という状況を、私が『どう扱うか』であって。

 

相手が怒っているのも、まあ、心地悪いと言えば心地悪い。

私とは関係ない、ご自身の抱えている問題の部分で

怒っておられるだけなんだけど、

それでもわざわざ敵意を表情に出されて目も合わされない、なんて態度を

表現されるのは、別にいい気分ではない。

 

その一方で、トラブルの責任はない、と

真っ先に言い張りにきた相手のことを卑怯だと思った、

その自分の感覚も、まだ存在している。

 

はい、ここからは完全に、私の選択。

ならば私は、無理して和解しない。

私がこびる必要はない。怒りを返す必要もない。

私は明確に、相手に対して、もともとやるべきこと(書類作って渡す)は

きちんと行った。それでもトラブルが起こって、その対処もした。

相手に対する後ろめたさは、何もない。

 

そこまでで、すでにエネルギー使ったうえ、

さらにまだ、怒りを返すのって、もう自分のパワーの無駄遣いの域に入る。

わざわざこちらも、相手に対してその瞬間、怒りを発する必要あるから、

また、そういう種類の怒りって、思い出すだけでも腹が立つから、

そのエネルギーの使い方って、もはや、くだらん、と思えるのよ。

なので相手の表情も、放置して横に流す。

 

だがしかし、私が自分でその選択をするのだから、

相手がこちらを見なくても、ほかの人と接するときのように、

相手の目も普通に見ようとする、私はね。

 

つまり、ここだけ一瞬、

相手はピンと張り詰めた空気感を発して、拒否を表現してくるから、

私も流すという意識をするためのエネルギーを、毎回使う。

これはもう、避けようはないので割り切る。

 

別に意地を張るとか、そうやって対抗するとかいう感覚もないのよね。

それでも「普通にする」ほうが、一瞬だけで済む、

私のできる今の選択肢の中で、私がいちばんラクだから、そうする。

わざと、すごく「にこやかに」書類を届けに近づくなんてこともしないしね。

 

もしいつか、この空気感を毎回、振りかけられることのほうがイヤになったら、

先日、コメント欄で教えてもらったように

にっこりしながら「どうして怒ってるの?」って、はっきり聞いてみて、

狼狽したところを「ケムに巻く」作戦でも、試してみようかな、とも思う。

 

でもこの相手は今回、たまたまだけれど、

すでにこちらの目を見ないという行動をしているから、

そのまま目を見ずに「別に怒ってません」と即答されそうで、

もしそうなったら私、きっと笑い出してしまって、

余計に事態を悪化させる可能性も(笑)考えられなくはないσ(^◇^;)

 

ま、そんな余談はともかく。

たぶん、私のこの選択って、ある種の「ハラをくくる」ことなんだろうとも思う。

こうやって「なぜ自分はそう感じるか。

そして私にとっていちばん無理なく楽になるために、かつ、

自分や他人に対して、ウソもつかないでいられるために、具体的にどうするか」

を落とし込めれば、

そのあとはもう、少なくとも動揺はしないよ。

 

私が、そうしたいから、そうする。

この部分に不安を感じたまま、行動するのでなく、

なるべく明確に自分でハラをくくってから、事態に対処したい。

折り合いをつけたい人とはできるタイミングで

折り合いつけられるよう、働きかけるし。

 

要は、どちらかが無理して「その場しのぎ」をすることで、

私が犠牲になるのも、相手を犠牲にするのも、イヤなのですわ。

それ、あとできっと、もっとややこしい事態になるから。

 

どう感じるのも自分の自由だから、その感じた結果でやること、

選択したことの責任は、自分で負う。

助けてもらえる人に、整理も都度、お願いしつつ、

あくまでも、気持ちを大事にすることを目的にして、やる。

 

そしてこれはもちろん、相手に対しても同じ。

相手の選択は、なるべく邪魔しない。相手の問題にも、巻き込まれない。

その人が今、学んでおられること、その事実自体を、なるべく尊重する。

 

よほどの支障が出てしまうときは、自分もまた、落とし込みつつ対処するけれど、

今回で言えば、状況、見えてないなあ、というふうに、

相手のことを受け止めているのは、私の感覚で、

それを大切にしたいのも私なのだ。

 

その意識があるうえで、必要なときには気持ちや考えを伝える。

その練習を繰り返していきたい。自分のために。

それでいいのだと、今は思えている次第。

 

だからね、どうせ、だのなんだの言って、

見ない振りをしている自分の気持ちのほうを、

きちんと大切に扱うために、掘り出してみていいよ、と「私には思える」のだ。

あなたを苦しめている『自分がいる』のは、

その部分で、自分の感じていることを無視したり、放置しているからだと、

「私には思える」から。

 

2015_04_18

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