いきなりなんだかな、なタイトルですみません(^◇^;)
前のブログに、自分で
「無駄なことにエネルギーを使いたくない」、
という類のことを書いて、
そういえば最近の私は、怒るという行為を
『すごく疲れるもの』だと
思っていたことに、改めて気づきました。
Illustration by Nemo
Pixabay
もともと、怒りの感情は、私の場合、
実際にプンプンしているときにでも、
長引かせたくない、と強く思える種類のものでして。
だからドッカンと爆発させるよりは、
どちらかというと説明を試みるほうへ注力していました。
でもまあ、こちらも怒っている状態でそれをやるわけですから、
当然、相手にも怒りの波みたいなものが届いて
肝心なポイントは届かない、なんてことも普通に起こり(伝える内容そのものよりも
「なぜそんな言い方をするのか」の部分で先に相手にも反発が起こり、
伝えたいことがうまく伝わらなくなる)、
疲れる結果が残りやすいと感じていて。
あと、私は、はっきりモノを言うクセもあるため、余計に反発もされやすく、
それゆえに感覚的に「難しいやり方」と捉えていて、
さらに『苦手』な範囲のものだった、かもしれないです。
そしてまた。
私の場合は、他人に良く思われたい、見られたい、
認められたいという気持ちが強かったため、
批判されることになりやすい『怒りの表現=ケンカ』というやり方が
さらに苦手に感じるのだろう、とも思っていました。
とくに仕事の面では、怒りを見せることで、自分の感情を
まともに扱えない、
コントロールできない、
みっともない人間だと思われて、
他者から認めてもらえなくなる。
そんな方面の捉え方、していました。
それは裏を返せば、仕事ですぐに怒る人間のことを
私が『感情コントロールがうまくない人』だと
評価しているってことで、しかも、
よろしくない方面のことだと捉えていた、ということになります。
ま、仕事だけに限らず、プライベートでも、
私は良く思われて得をしたかったのかもしれないですね(^^;)
これらのうち『認められたい自分』と『コントロールできないこと』については、
鬱で心理学その他の本をたくさん読んで、
人の話も聞いて、少しずつ変わってきていると思えます。
脳の器質、つまり仕組みの個性による個人差もあることも、知りました。
そして何より。
他者評価よりも自身の気持ちを大切にする、という捉え方を知り、
それを何度も練習していくうちに、だんだんと、
相手も同じく、そうしていいんだ、ということを感じ始めました。
それでもなお、そうじゃない! と自分が思うことはもちろんあり、
また、相手もそう感じれば、お互いに通じないことはある。
これも当たり前の話です。
鬱になる前の私は、そういう『当たり前』のことを
知っているようで実は知っていなくて、
いろいろ失敗してたなぁ、と思えます。
そして通じないときに、
選択の自由の範囲なんだな、と思えたり、さらには相手の怒りが
相手側の「問題ゆえ」だったりする、ということを体感し始めてからは、
こちらも『今は届かない』という事実を、受け入れられるようになって。
そこを「なぜだよ、何でなんだよ」と、長々引っ張り
自分がもだえてしまう(笑)時間も減りました。
あきらめるというよりは、いったん留保する感じ。
そして留保している間に、私の気持ちや考えは、本当にそれしかないのかどうか
(ま、これはある意味、悔しいやり方(笑)でもあるのですが)
見つめてみようかな、と思えたりもして。
見つめてみて、それでも、私はこのほうがいいと思う人間なんだ、と
自分でつかめれば、そこは『自分が』安心できるわけです。
で、そのあとで相手の言い分についても検討して、
私とは感覚が違うけれど、この人は、それがいいと思えるんだ、
というふうに「つかめた場合」は、
私、とくに身近な相手については、自分がそうつかんだのだ、ということを、
言い合いした相手に直接『あえて伝えてみる』、
そんな方法をやってみようと思ったのです。すごく勇気がいったけれどね(^^;)
合計で3回くらい試して、あ、それは全部、同じ相手でしたが、
その結果、その相手とは、ケンカすること自体がほぼ、なくなりました。
具体的には、
あんな「言い方」をしたことをまず謝るね、
ごめんなさい、言い方からしてもう、伝わらなくても当然だった。
私はこう主張したけれど、あなたはこう主張してたんだよね、
で、私は、この部分については、あなたの言い分もなるほど、と思えて、
ここについては、どちらでもいいんだ、と思えて、
この部分は、自分が言ってることのほうが
こういう理由から「私にとっては良い」と思えて、そこはごめん、譲れないわ。
こんな感じ。
当然、相手も最初、すごく驚いていました。
そして私が「ケンカ口調になったこと自体」を『先に』謝ったことについて、
その人の場合、びっくりするくらい、喜んでくれたのです。
自分は、なかなかすぐに謝れない人間だから、
先に言ってもらえて、うれしかった。その勇気もすごいと思える、
こちらこそ、激高してゴメン、と。
これはね、ケンカしてわりとすぐあと(1~2時間後くらい)だったから、
私もうれしくて。
そして、自分のコンプレックスを素直に打ち明けられるこの人もすごいな、と思えて。
こういう空気感になったら、お互い静かに、一緒に検討、相談し合えるのだと、
これもまた、初めて知ったことでした。
で、お互いに譲れない部分は、仕方ないね、残念、となって。
まあ、たまたま、その相手の人がすごい人だったから
うまくいったと言えばそれまでですが。
でもね、これ、さらに自分に波及効果をもたらしたのですよ。
留保を知ると、なおさら、怒るような事態が起こっても、こちらはまず
「怒りに使う時間」そのものを、長引かせないで済む。
そして怒っている相手のことを、自分が気にしすぎない。
通じる人にはあとからきちんと通じる、だいじょうぶ、という確信ができて、
そういう意味では、目の前の相手が怒っていても、たぶん怖くなくなったのです。
これもまた、とてもありがたい話で。
自分が「怖くなくなった」から、結果的に、
先に述べた自身のマイナス的な捉え方、
『認められたいがゆえに怒りが苦手』な意識も、
たぶんね、自分の中からジワジワ消えていってるのだと思えます。
しかも実際、怒りを引きずる時間が減ってるわけだから、さらにラクで。
こうなると、卵が先か鶏が先か、じゃないけれど、
相互作用で自分がどんどん、面倒な感情を長引かせないで済んでいるわけです。
だから、勇気を出して自分の内側だけででもまず練習してみることで、
それは、いろいろな形の波及効果を自分にもたらして、
本当に良い方向へ作用してくれることがありますよ、って、
私ははっきりとした確信を持って、今は言える次第。
たまたま、今回は『怒り』がテーマでしたが、
これ、悲しみや自己否定にも、応用できますよ。
誰かへの実践練習は難しくても、
自分の捉え方のほうは、落ち着いているときに練習することが可能だと思えます。
そういう例として、読んでいただければ幸いですm(_ _)m