『怒り』という面倒くさい感情

いきなりなんだかな、なタイトルですみません(^◇^;)

前のブログに、自分で

「無駄なことにエネルギーを使いたくない」、

という類のことを書いて、

そういえば最近の私は、怒るという行為を

『すごく疲れるもの』だと

思っていたことに、改めて気づきました。

 

2015_04_19

Illustration by Nemo
Pixabay

 

もともと、怒りの感情は、私の場合、

実際にプンプンしているときにでも、

長引かせたくない、と強く思える種類のものでして。

 

だからドッカンと爆発させるよりは、

どちらかというと説明を試みるほうへ注力していました。

でもまあ、こちらも怒っている状態でそれをやるわけですから、

当然、相手にも怒りの波みたいなものが届いて

肝心なポイントは届かない、なんてことも普通に起こり(伝える内容そのものよりも

「なぜそんな言い方をするのか」の部分で先に相手にも反発が起こり、

伝えたいことがうまく伝わらなくなる)、

疲れる結果が残りやすいと感じていて。

 

あと、私は、はっきりモノを言うクセもあるため、余計に反発もされやすく、

それゆえに感覚的に「難しいやり方」と捉えていて、

さらに『苦手』な範囲のものだった、かもしれないです。

 

そしてまた。

私の場合は、他人に良く思われたい、見られたい、

認められたいという気持ちが強かったため、

批判されることになりやすい『怒りの表現=ケンカ』というやり方が

さらに苦手に感じるのだろう、とも思っていました。

 

とくに仕事の面では、怒りを見せることで、自分の感情を

まともに扱えない、

コントロールできない、

みっともない人間だと思われて、

他者から認めてもらえなくなる。

そんな方面の捉え方、していました。

 

それは裏を返せば、仕事ですぐに怒る人間のことを

私が『感情コントロールがうまくない人』だと

評価しているってことで、しかも、

よろしくない方面のことだと捉えていた、ということになります。

 

ま、仕事だけに限らず、プライベートでも、

私は良く思われて得をしたかったのかもしれないですね(^^;)

 

これらのうち『認められたい自分』と『コントロールできないこと』については、

鬱で心理学その他の本をたくさん読んで、

人の話も聞いて、少しずつ変わってきていると思えます。

脳の器質、つまり仕組みの個性による個人差もあることも、知りました。

 

そして何より。

他者評価よりも自身の気持ちを大切にする、という捉え方を知り、

それを何度も練習していくうちに、だんだんと、

相手も同じく、そうしていいんだ、ということを感じ始めました。

 

それでもなお、そうじゃない! と自分が思うことはもちろんあり、

また、相手もそう感じれば、お互いに通じないことはある。

これも当たり前の話です。

 

鬱になる前の私は、そういう『当たり前』のことを

知っているようで実は知っていなくて、

いろいろ失敗してたなぁ、と思えます。

 

そして通じないときに、

選択の自由の範囲なんだな、と思えたり、さらには相手の怒りが

相手側の「問題ゆえ」だったりする、ということを体感し始めてからは、

こちらも『今は届かない』という事実を、受け入れられるようになって。

 

そこを「なぜだよ、何でなんだよ」と、長々引っ張り

自分がもだえてしまう(笑)時間も減りました。

 

あきらめるというよりは、いったん留保する感じ。

そして留保している間に、私の気持ちや考えは、本当にそれしかないのかどうか

(ま、これはある意味、悔しいやり方(笑)でもあるのですが)

見つめてみようかな、と思えたりもして。

 

見つめてみて、それでも、私はこのほうがいいと思う人間なんだ、と

自分でつかめれば、そこは『自分が』安心できるわけです。

 

で、そのあとで相手の言い分についても検討して、

私とは感覚が違うけれど、この人は、それがいいと思えるんだ、

というふうに「つかめた場合」は、

私、とくに身近な相手については、自分がそうつかんだのだ、ということを、

言い合いした相手に直接『あえて伝えてみる』、

そんな方法をやってみようと思ったのです。すごく勇気がいったけれどね(^^;)

 

合計で3回くらい試して、あ、それは全部、同じ相手でしたが、

その結果、その相手とは、ケンカすること自体がほぼ、なくなりました。

 

具体的には、

あんな「言い方」をしたことをまず謝るね、

ごめんなさい、言い方からしてもう、伝わらなくても当然だった。

私はこう主張したけれど、あなたはこう主張してたんだよね、

で、私は、この部分については、あなたの言い分もなるほど、と思えて、

ここについては、どちらでもいいんだ、と思えて、

この部分は、自分が言ってることのほうが

こういう理由から「私にとっては良い」と思えて、そこはごめん、譲れないわ。

 

こんな感じ。

当然、相手も最初、すごく驚いていました。

そして私が「ケンカ口調になったこと自体」を『先に』謝ったことについて、

その人の場合、びっくりするくらい、喜んでくれたのです。

自分は、なかなかすぐに謝れない人間だから、

先に言ってもらえて、うれしかった。その勇気もすごいと思える、

こちらこそ、激高してゴメン、と。

 

これはね、ケンカしてわりとすぐあと(1~2時間後くらい)だったから、

私もうれしくて。

そして、自分のコンプレックスを素直に打ち明けられるこの人もすごいな、と思えて。

 

こういう空気感になったら、お互い静かに、一緒に検討、相談し合えるのだと、

これもまた、初めて知ったことでした。

で、お互いに譲れない部分は、仕方ないね、残念、となって。

 

まあ、たまたま、その相手の人がすごい人だったから

うまくいったと言えばそれまでですが。

でもね、これ、さらに自分に波及効果をもたらしたのですよ。

 

留保を知ると、なおさら、怒るような事態が起こっても、こちらはまず

「怒りに使う時間」そのものを、長引かせないで済む。

そして怒っている相手のことを、自分が気にしすぎない。

通じる人にはあとからきちんと通じる、だいじょうぶ、という確信ができて、

そういう意味では、目の前の相手が怒っていても、たぶん怖くなくなったのです。

 

これもまた、とてもありがたい話で。

自分が「怖くなくなった」から、結果的に、

先に述べた自身のマイナス的な捉え方、

『認められたいがゆえに怒りが苦手』な意識も、

たぶんね、自分の中からジワジワ消えていってるのだと思えます。

しかも実際、怒りを引きずる時間が減ってるわけだから、さらにラクで。

 

こうなると、卵が先か鶏が先か、じゃないけれど、

相互作用で自分がどんどん、面倒な感情を長引かせないで済んでいるわけです。

 

だから、勇気を出して自分の内側だけででもまず練習してみることで、

それは、いろいろな形の波及効果を自分にもたらして、

本当に良い方向へ作用してくれることがありますよ、って、

私ははっきりとした確信を持って、今は言える次第。

 

たまたま、今回は『怒り』がテーマでしたが、

これ、悲しみや自己否定にも、応用できますよ。

誰かへの実践練習は難しくても、

自分の捉え方のほうは、落ち着いているときに練習することが可能だと思えます。

そういう例として、読んでいただければ幸いですm(_ _)m

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

code