『心地悪い』ものは『心地悪い』でよい。そのうえで、ならば私は。

昨日の続きのような話。

自分の判断をすぐに採点するのをやめると、

ただ『私はこう感じているのね』が現れる。

 

具体例としてこの前、私が出したものをもう一度、拾ってみようか。

書類を作って渡したら、その書類がどこかに行ってしまい、

しかも渡した本人が「受け取ってないんですけど」と言いに来た。

 

はい、事実はこれ。

起こった「出来事」は、これだけ。

書類は今、実際、なくなっている。

 

そしてこの場合、それは『仕事』であり、

『書類を仕事上のルールで、待っているお客さま』がいて、

その締め切り時間が迫っている。

 

たまたま、これは仕事上の話なのだから、まずやるべきことは、

どうやったら『待っているお客さまに、迷惑をかけず渡せるか』である。

 

なくした人が何をもくろんでいるか、

私が何をどう感じるか、よりも先に、

もともとの目的を、できるだけ滞りなく果たすことが、この場合は最優先。

だって時間、ないのだもの。

私はそういうふうに捉え、優先順位の1番目を「渡すこと」に設定しましたよ、と。

 

そして単純にね、業務としてそのトラブルを減らすのなら、

受け取りのサイン欄、作ればおしまいなの。

紙1枚なんて、怒濤の仕事の流れが起こっているときなら、

なくなってしまうことも、あり得るから。

よろしくないけれど、普通に、あり得るから。

そのときに「どこにある可能性が一番高いか」を、

なるべく明確にわかるように、あらかじめ手を打てばいい。

 

で、あとは、私が「受け取ってないと言い張られること」を、

心地悪く感じた、という事態が残る。

 

私は、なくした人に『怒り』を覚えることもできる。

なぜなら、もらってない、と言い張るその相手の「姿勢」のことを、

『問題が起こったときには真っ先に「私には責任ありませんよ」と主張しに来る人』

と捉えることもでき、それは私の感覚では『卑怯』な部類に入るやり方だから。

その責任逃れのやり方を、私はズルイと感じる。あくまでも私は、ね。

 

私なら、渡された記憶がもし自分にはなくても

その『なくなった事実』を「手元にない」と表現するし、

「作ってもらいましたっけ?」と尋ねにいく。

つまり相手とは、事実の受け止め方が違う。表現の仕方も違う。

問題に対処する際の、感覚が違う。

それだけのこと。

 

で、さらに、私はその相手のことを、そもそも

「認められたい気持ちが強すぎないか?」と見ていた。

 

ならば。

「怒っても、きっと、ある意味ムダ。今は通じない」

と、私は捉えることにしよう。

職場というところでの、業務上の人間関係において、

今すぐに自分が怒りを持った挙げ句、

さらに伝えて「届かない空しさ」まで抱えるの、イヤだわ。

 

と、この場合は私が『折り合いをつける』ところはまず現状、放棄した、と。

 

そうしたら、相手が先に、勝手に怒った。

しかも相手も『折り合いつける』の部分は、放棄してきた。

 

おお、すげー。

だがしかし、やっていることの後半は、

はい、お互いさま。

 

そうなのよ、怒りもある意味、

その相手と『和解』『共有』『共通認識』を持ちたいがゆえに

表れたりすること、あるのよね。

「こちらの考えをわかってよ」「言ってる意味を、正確につかめよ」だから。

 

そこが必要なければ、怒りだって、実はそれほど湧かない。

たとえ湧いても、仲のいい友だちに、

話させて、と頼んで、時間を作ってもらえばいい。

吐き出したらそれでスッキリすることもあるし、

どうしても整理できなきゃ、カウンセラーさんのところへ行けばいい。

 

で、それ以降は、私と「違う感覚」の人が、

常に職場の近い位置にいる、という状況を、私が『どう扱うか』であって。

 

相手が怒っているのも、まあ、心地悪いと言えば心地悪い。

私とは関係ない、ご自身の抱えている問題の部分で

怒っておられるだけなんだけど、

それでもわざわざ敵意を表情に出されて目も合わされない、なんて態度を

表現されるのは、別にいい気分ではない。

 

その一方で、トラブルの責任はない、と

真っ先に言い張りにきた相手のことを卑怯だと思った、

その自分の感覚も、まだ存在している。

 

はい、ここからは完全に、私の選択。

ならば私は、無理して和解しない。

私がこびる必要はない。怒りを返す必要もない。

私は明確に、相手に対して、もともとやるべきこと(書類作って渡す)は

きちんと行った。それでもトラブルが起こって、その対処もした。

相手に対する後ろめたさは、何もない。

 

そこまでで、すでにエネルギー使ったうえ、

さらにまだ、怒りを返すのって、もう自分のパワーの無駄遣いの域に入る。

わざわざこちらも、相手に対してその瞬間、怒りを発する必要あるから、

また、そういう種類の怒りって、思い出すだけでも腹が立つから、

そのエネルギーの使い方って、もはや、くだらん、と思えるのよ。

なので相手の表情も、放置して横に流す。

 

だがしかし、私が自分でその選択をするのだから、

相手がこちらを見なくても、ほかの人と接するときのように、

相手の目も普通に見ようとする、私はね。

 

つまり、ここだけ一瞬、

相手はピンと張り詰めた空気感を発して、拒否を表現してくるから、

私も流すという意識をするためのエネルギーを、毎回使う。

これはもう、避けようはないので割り切る。

 

別に意地を張るとか、そうやって対抗するとかいう感覚もないのよね。

それでも「普通にする」ほうが、一瞬だけで済む、

私のできる今の選択肢の中で、私がいちばんラクだから、そうする。

わざと、すごく「にこやかに」書類を届けに近づくなんてこともしないしね。

 

もしいつか、この空気感を毎回、振りかけられることのほうがイヤになったら、

先日、コメント欄で教えてもらったように

にっこりしながら「どうして怒ってるの?」って、はっきり聞いてみて、

狼狽したところを「ケムに巻く」作戦でも、試してみようかな、とも思う。

 

でもこの相手は今回、たまたまだけれど、

すでにこちらの目を見ないという行動をしているから、

そのまま目を見ずに「別に怒ってません」と即答されそうで、

もしそうなったら私、きっと笑い出してしまって、

余計に事態を悪化させる可能性も(笑)考えられなくはないσ(^◇^;)

 

ま、そんな余談はともかく。

たぶん、私のこの選択って、ある種の「ハラをくくる」ことなんだろうとも思う。

こうやって「なぜ自分はそう感じるか。

そして私にとっていちばん無理なく楽になるために、かつ、

自分や他人に対して、ウソもつかないでいられるために、具体的にどうするか」

を落とし込めれば、

そのあとはもう、少なくとも動揺はしないよ。

 

私が、そうしたいから、そうする。

この部分に不安を感じたまま、行動するのでなく、

なるべく明確に自分でハラをくくってから、事態に対処したい。

折り合いをつけたい人とはできるタイミングで

折り合いつけられるよう、働きかけるし。

 

要は、どちらかが無理して「その場しのぎ」をすることで、

私が犠牲になるのも、相手を犠牲にするのも、イヤなのですわ。

それ、あとできっと、もっとややこしい事態になるから。

 

どう感じるのも自分の自由だから、その感じた結果でやること、

選択したことの責任は、自分で負う。

助けてもらえる人に、整理も都度、お願いしつつ、

あくまでも、気持ちを大事にすることを目的にして、やる。

 

そしてこれはもちろん、相手に対しても同じ。

相手の選択は、なるべく邪魔しない。相手の問題にも、巻き込まれない。

その人が今、学んでおられること、その事実自体を、なるべく尊重する。

 

よほどの支障が出てしまうときは、自分もまた、落とし込みつつ対処するけれど、

今回で言えば、状況、見えてないなあ、というふうに、

相手のことを受け止めているのは、私の感覚で、

それを大切にしたいのも私なのだ。

 

その意識があるうえで、必要なときには気持ちや考えを伝える。

その練習を繰り返していきたい。自分のために。

それでいいのだと、今は思えている次第。

 

だからね、どうせ、だのなんだの言って、

見ない振りをしている自分の気持ちのほうを、

きちんと大切に扱うために、掘り出してみていいよ、と「私には思える」のだ。

あなたを苦しめている『自分がいる』のは、

その部分で、自分の感じていることを無視したり、放置しているからだと、

「私には思える」から。

 

2015_04_18

The Nick Page
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