人気がある方のブログを読んでいると、
たまに赤裸々に、自分に対する批判について
語ってくれたりもする。
たとえば、本気の思いをこめた語りかけを、丁寧にしてみた場合。
その方がどれほど真摯な気持ちから、言葉を選んで書いたとしても
それに対して「気取っている」「勘違いしてる」「格好つけてる」などと
書いてくる人がいるようなのだ。
そういう話を読むにつれ、人は本当に、自分の気持ちを
他人にわかりやすく投影するのだな、と思える。
歌手など、プロモーターつきの人が戦略的に『人気取り』を仕掛けるのとは違い、
ブログで人気のある方は、きちんと理由があって、そうなっているのだと思える。
一瞬、評判になったとしても、それが続いていくのはやはり、
それなりの評価を受けるだけのことは、されているのだと。
たまたま自分の好みではないな、と感じたとして、
それがつまりは『相手が調子に乗って勘違いしてるのだ』などと受け止める方は、
あなたのほうこそ、勘違いしていることに気づけていないのだろうと。
だってあなたが気に入らなければ、そうしたものは良くない、おかしい、のであれば
私はよい感覚を持っている、
私の好みは間違ってない、
だから人気のある人でもさ、気取ってれば言うわよ、でしょう?
つまり世の中のルールも、ある意味においては、
本当は私の感覚、私の判断に従うべき! と宣言しているに等しい。
どんな王さまだよ、それ。
そしてまたね、あなたは自分自身に対しても、
今、それをやってる……ってこと、ないかな?
私は間違いを犯す! と何でもかんでも悪く取る捉え方。
他者の判断が、全面的に正しくて素晴らしいわけではないということはわかるよね。
もちろん、自分の判断もしかりなのだ。
もう少し、例を挙げてみようか。
教会で、本当に真摯に祈りを捧げている人を見たとして。
それが見知らぬ外国人のおばあちゃんなら、
そのままシンプルに『何か、真摯に祈ってらっしゃるな』と
自分の心の中で、捉えられたりするよね。
だがしかし、その祈りを捧げている方が、
自分の気に入らない相手だったとしたら?
きっとあなたは
『何かまた、自分勝手なことを祈ってるのだろう』
『神様も大変だこと』
『自分が信心深いことをアピールしてるつもり!?』
などと、勝手に受け止めることもあるでしょう?
そうした思いは、自動的に、しかも反射的に即、思い浮かぶはず。
たとえその嫌いな方が、本当に真摯な思いから、
静かな祈りを捧げていたとしてもね。
そうなのよ、偏りはあるの。
どうしたって出るの。
だって自分も、感じたり、考えたりする力を、確かに持っているから。
だからまず、その偏り自体は、もう責めなくていいよ。
私もひとりの人間なんだなぁ、って思えばいい。
昨日はだいじょうぶだったのに、今日はイヤだと感じる。
そんなことは、普通に起こりうる話。
とくに鬱になると「そんな! 自分勝手な偏りや、いい加減さなどは許されない、
本当は常に、こうあるべきなのに!」
って方向の思い込みをしがちだけれど。
偏らない。変な間違いはまず起こさない。
常に安定した一定の効果、結果を出す。
そうしたもののことを、私たちは『機械』とも呼ぶのだ。
つまりあなたは人間でなく、機械であらねばならないと思っているの?
機械みたいに立派になりたいの?
自分が感じることは、無視して? 捨てて?
違うよね。
あなたはただ、幸せになりたい、を根底にもっているはず。
楽に呼吸できる、うれしさを感じられる日々を、
なるべくたくさん、過ごしたいのだと、
どこかで望んでいるはず。
じゃあ、そのための「手段」「手法」、つまりやり方、
そうしたものの『達成』に執着するのでなくて、
「自分が感じること」のほうを大切にしてごらんよ。
それをいちいち、すぐにあれこれ採点するの、まずやめてみなよ。
自分のやり方を採点するの、やめてみたらわかるよ。
他人の言動より、自分が感じることをまず見つめてみていいんだってことがね。
嫌いな人が真摯な祈りを捧げている。
そして、それをバカにする、疑う私がいる。
ああ、こんなにも、他人を色眼鏡で見ることがあるんだなあ、私。
それだけが「そのとき起こっていること」だよね。
それ以外の事実、別にないよね。
あなたが思い込まない限り。
あなたが、そこに『怒り』や『いら立ち』を、さらにかぶせているだけ。
そういう日も、そういうときも、あるだけ。
そうでないときも、あるだけ。
そうしないですむ相手も、いるだけ。
そこで良いだの悪いだのという判断をかぶせること、
しばらくやめてみたら、また、さらに気づける。
あなたもそうだし、他人もまた、ただ、そうなんだなあ、ってことが。
あなたが何かして悪いのでなく、相手の機嫌が悪いだけのこともある。
なのにすぐ、判断をかぶせるから、状態をまともに見つめられなくなる。
どうしよう、どうしよう、って焦らなくていいの。
そういうときも、そういうことも、あるってことだけだから。
自分が感じていることを、まず、素直に受け止めてごらん。
そういうことが、今、起こっている。
そこを知ることができると、
自分のことも、他人のことも、だんだん批判自体、減るよ。
だって他者の問題や視点をかぶせてこられても、
そうか、あなたはそう感じる『派』なのですね、だから。
そうなの、他者を自分だけの一方的な都合で奴隷にでもしない限り、
いい、も悪い、も、そんなにはないの。
違いがあるだけ。
すごく簡単に言ってしまえば、それが自分の好みかどうか、
心地よいかどうか、だけなの。
そこが基本、そこが土台だよ。
そこからすぐに『だから私は』『いつも私は』『どうしてあなたは』って
余分な思考をさらに上乗せすること自体、やめてみればいい。
これはある花、だけれど、
これもまた、花。
Photo by Steve Cornish from Wikipedia
事実は、それだけしかない。
2つめの花をたとえ、世界中の人が美しく感じても
あなたがちょっと不気味だと思えば
「ああ、私はこれを『不気味だと感じる派』なのね」って、
いったん、静かに受け止めてごらん。
そう思う自分を、そのままシンプルに、
ただ、知って、静かに感じてごらんよ。
余分な上乗せを止めてみること。
まわりの世界そのものが、そこから変わり始めていくよ。