カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

伝わっていくのね……

先日、具体例で挙げたお姉さん(仕事の上で『私を認めて!』と思いすぎて、

もろもろやり過ぎて勝手に周囲に怒る……4月2日と3日の記事ね)に対し、

他の女性も、なぜか彼女が『お局さま』に変わりつつあるわー、と見ていた、

という話が今日、私の元に届いた。

ほえー。私にだけ、ツンツンツンケンされているわけでは

なかったのか? お姉さん。

 

そして、そのお姉さんに訴えられて、うちの課長が乗せられたかな? と

思える出来事も発生。

隣の部署である彼女たちの、ある一部の業務を、こちらでやってもいいと、

なぜかうちの部の課長が急に言い始めたので、

おお、ならば仕事の流れと体制的に、この点をこうしてもらわないと

結局、こちらの部署が、隣の部署の人をフォローするだけになるのだけれど、

なぜ、こういうふうに他部署が手伝えるようになってないの?

と尋ねたら、移行話はそこであっさり終了した……。

 

要はそもそも、体制や仕組みが、改善されないまま、放置されているわけ。

うちの部署の前任者がそれを確かに一時期、担当させられていて、

「あれはとても大変だった」と私にもらしていたけれど、

そうやって前任者は隣の部署の仕事を、無理やり振られていたわけですよ。

 

で、たぶんお姉さんがまた「前任者はやってくれてたのに」という、

業務の流れを全然、読まない『印籠』使って、

分担変えを課長に訴えたものと思われる。

課長はそのお姉さんと、わりと仲良しだから、たぶんかわいらしく訴えられて

つい、いいよとか、言っちゃってたんだろうなあ(笑)

話の途中でそれらしきこと、課長が匂わせてくれたから、

ほう! なるほど、と、なってしまったわ、私。

 

実際、やり方自体を根本的に変えないと、彼女の部署も大変なままなので、

そっちにまず手をつければいいのに、

なぜ私と同じように流れを把握できる範囲の業務を担当していて、

彼女がそこは見ないのか、不思議である……。

 

そこが改善されないと、隣の部署との連携とか、

役割分担とか、言ってられないんじゃない?

ってことを私は、やがて戻ってくる前任者のためにも、

目立ちすぎない範囲で(笑)伝えていこうと思ってるよ。

流れがよくなるなら、それに越したことはないから。

 

うーむ。しかし、こうして徐々に、周囲にも伝わっていくものなのねぇ、と、

今日はしみじみしてしまったのでした。

 

私が認められたいのに! だけを見つめすぎると、

こういうズレ、起こすのですよ。

そうして、周囲にもマイナスイメージのほうが先に伝わってしまって、

自分が結局は、いろいろ大変ですよ、という事例として、

受け止めてもらえたら幸いです。

 

2015_04_07

ID:201305020700
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ほらほら、そこだけ見て怒らない、怒らない。

全体とか、他の角度からも、いろいろ見てみようね(^^;)

 

そしてお姉さん、たまたま身近でわかりやすく見せてもらえるがゆえに、

何回もネタにしてごめんね(^0^;)

とてもよい例として、捉えてしまう私がいるのよー。許して☆

 

 

鬱病という病のこと。はい、完璧なひとりごと

自分にとって苦しい方向の思い込みをして

それしかないんだ、という視野狭窄に陥ったあげく

自分を傷つけていくことしか(自死を含めてね)思いつかない。

 

これが、私自身が経験したり、

あるいは過去の、周囲の鬱病の人を見て感じたり、

または心理学・精神医学等の本などで学んだりして、

大まかに捉えることのできた「鬱病の症状の主たるもの」です。

 

「そういうふうにしか考えられない」という症状が、

風邪でいうところの「熱」「咳」「鼻水」のように、わかりやすく現れます。

 

あ、新型鬱病のことは、私はよくわかっていません。

特定の他者に対して、鬱になる場合があることは把握しています。

その他者のことを、自分にとって悪いほうにしか受けとめられない、って。

でも旅行に行けたり、友だちと遊べたりするときの「心理状態」については、

調べていないのです。また、その点を調べる・学ぶ予定もありません。ごめんなさい。

 

でね。

最初に書いた「自分に対する悪い方向への」思い込みは、

それゆえに自分の力を信じられない、という現れ方もする。

そうなると、先のことなんて、暗い予想しか思い浮かびません。

だって「このヒドイ私がやること」なんて、

「ヒドイ、ダメな結果」しか、生まないと思うもの。

ものすごくはっきり、そう思うもの。それ以外の可能性なんて、ナイナイ。

 

それも『視野狭窄』のなせる技でね、でも自分が視野狭窄になってるなんて、

イマイチ、わからないわけです。

 

ダメなものはダメに決まってるから、何がどうなろうと、ダメ。

失敗して当たり前だよ、だってできないのだから、私は。

 

こう書くと、ものすごく偏っていることがわかると思います。

未来なんて、誰も正確に予想できるはずないのに、

自分のことだけ、この先もダメ、絶対に悪い、と『すでに』決定させている。

 

ま、そこまで悲観的に物事を捉えて、悲観的なまま何かやれば、

上手くいくはずのものがそうでない可能性も含んでしまい、

実際、自分がわざわざ『ダメになる方向へ仕向ける』なんて事態も起こって

本当に失敗したりもする。

で、それを、また『ほら、やっぱり私はダメでしょ?』という根拠に使う。

 

わざわざ自分にとって悪いことをして、

『ダメな自分である自信』を高めていく、と言えば、イメージわかるかな。

 

不思議なんだよね、これ。

『ダメ』シミュレーションを脳内で繰り返すだけでなく、

実際にも、シミュレーション通りにやってみたりする。

そして『ダメな証拠』を集めて、ある意味、ダメな自分に安心する。

 

安心、という言葉は不気味でしょうが、本当に安心するのですよ。

ほーら、やっぱりね、って。

自分をどこか、それでもなお信じたい気持ちが、

そうやって、ゆがんで現れるのかもしれない。

 

これをさ。

正しいかどうか、なんて視点で見たら、

そりゃあもう、めちゃくちゃ、間違いですよ。

いいか悪いか、なんて視点で見た日には、

なんでそんなふうに受け止めるのよ! って、

普通の人なら、怒りしか出てこないだろう。

 

でも、風邪を引いてしまった人に「なぜ鼻水出すのよ!」

「そもそもなぜ風邪引くのよ!」って責め立てたところで、

風邪を引かない身体に変われるか?

 

「その、咳をするという症状が、絶対に許せない!」と誰かが言い張れば、

風邪を引いてる人が、咳をしなくなるのか?

 

そう指摘して怒ること自体、おかしいこと、気づけるかな?

そんなこと言ってる場合じゃないのよ、

熱、どんどん高熱になってるかもよ?

だったら肺炎を併発してる可能性、悪化してる可能性も、考えうるよね?

 

あなたの意見が正しいとか、

相手が間違ってるとか、

言ってる場合じゃないのよ、鬱って。

相手は間違ってるの、悪い思い込みをするという段階で、

そういう意味で言えば、間違ってる。

 

でもね、そういう「症状」なの。

そこを理解せずに、うまくいかなくて腹が立つなら、

それ、あなたも相手も傷つけ合うだけになるから、

さっさと手を引いて専門家に委ねたほうがいいよ。

 

あなたも本当に、傷ついてしまうから、

せっかくの愛と思いやりが、ものすごく変なことになる可能性、すでにあるから。

自分の意見に固執するの、相手を怒るの、とりあえずいったん、棚上げして、

現実的に、症状の悪化、止める対策のほうへ

全速力で走ってもらえないかな?

 

私は、私の感覚と過去の経験から、勝手にそう感じるのだけれど、

鬱病の人も、それを支えようと思った心優しい人も、

どちらも傷ついて欲しくない。

 

その思い込みは、外せる日が、来るから。

鬱を患った本人が、自分で気づける日が、来るから。

何がきっかけになるかは、

『きっかけが起こって、うまく使えてから』しか、気づけないんだけどね。

死ぬのはやはり怖い、と、どこかで思い続けるだけでも、

何かのきっかけに、つながる、変わるかもしれないから。

 

どうか、あきらめないで。

どうか、怒らないで。

どうか、どんなに苦しくても、

あきらめないで自分を、

相手を、ただ、見守ってあげてください。

 

切に、切に、心の底から、祈り願います。

 

2015_04_06Photo by Antranias
Pixabay

 

他者視点にまず従ってから、自分が自分を「なんとか」認めてあげようとする

他者を自分と見比べて、

見下したい、他者に勝ちたい、他者に認められたいのも

相手に同情して、相手の問題を自分の問題にするのも

『実際のやり方』が真逆、なだけでね。

 

結局は他者を使って、

「自分はこれでいいんだ」とか

「私は素晴らしい、役立つ人間なんだ」と

外側からの理由、視点で

自分をなんとか認めてあげようとしてるんだよ、それ。

 

他者との関わりの中で

他者からの視点だけで

自分のことを、見てる。

 

だから、他者から非難されたら

『外側から』まず同じように自分を見て

その非難が「合ってる」とか「間違ってる」と感じて

そのあとでやっと『内側にいる、本来の自分』に

何かを言い聞かせに戻るんだよね。

 

それを当たり前にして、

他者からの視点を、自分がベースにしてるから

「へえ、あなたはそう感じるんだ」と

冷静になれないの。

 

あなたも他者と一緒になって、

いつもまず、自分の外側から、

自分を採点してるんだよね。

 

それはさ。昔、誰かに

「そうしなければいけない」

「常に私の(俺の)判断を基準にしろ」

「お前が自分のことどう感じるかなんて、間違ってるに決まってるから使うな」

「お前が自分自身の視点を持つことを、私は(俺は)許さない」

ってなことを、延々、刷り込まれて、

もしかしたらそのときは、自分の生存がかかっていて、

その声に従わざるを得なかったのかもしれないけれどさ。

 

その当時でさえ何か、おかしいとは思わなかった?

私は、誰かの命令に従うだけの、下僕のような存在なのかな、とか、

疑問には思わなかった?

 

その人が、そんな刷り込みを他人にしていたのは、

まさにその人自身も「自分のことをないがしろ」に扱っていたからでさ。

他者に及ぼす影響力でもって、自分を保とうとしていたからなの。

つまりその人も「自分のこと、大切にしてなかった」のさ、本来の意味では。

 

あんなに横暴なのに! わがままなのに! って?

うん、そういうやり方で自分を誇示して、

「認めて」「認めて」って、あなたに訴えてただけ。

そんな方法でしか、自分を認めてあげられなかっただけの人なの。

 

で、それをまんまと信じ込まされて、

他者視点に固執させられて、

それしか正しくない、と思わされて今に至る、のがあなたです。

 

自分がおかしいと感じたこと、

自分がいいと感じたこと、

そういうのを全部「信じるに足りない」と思い込むよう練習させられてきて、

他人の視点で自分を判断するよう、仕向けられた。

 

で、さ。

それ、実際に今、おかしいと思うよね?

だって自分という「感覚」って、あきらかに自分の内側にあって、

自分が感じることって、自分の内側で起こっているのに、

あなたは常に『先にまず』他人の視点と同化して、自分を見ようとする。

 

だから「他者から言われたまんま」の

『みじめに見える自分』

『みすぼらしく見える自分』

『不細工・デブ・馬鹿・その他の悪口のように見える自分』

をいちばん最初に「思い浮かべて」から、

 

ああ 私ってそういう人なんだわ、

私ってそんなレベルの人間なんだわ、

 

ってまず捉えて、次にやっと

「自分にそれを言い聞かせる」ために、自分の内側に戻ってるの。

 

で、そうなのか、と落ち込んでみたり

そんなことない! と反発したりする。

必ず先に「他人の視線基準」の自分を信じてから、

自分自身でも何かを感じる。

 

それを、ものすごく極端な例で言えばさ。

誰かから

「やーいやーい、おまえの母ちゃん、デベソー!」

って言われた瞬間に、あなたは

「ああ、私のお母さんは、デベソなんだわ」

「他人から確実にそう見えるのだわ」

っていったん、信じてから

「そうか、うちのお母さんのおへそ、あれは『デベソ』の範囲に入るんだわ」

「『デベソ』って、恥ずかしくていけないことなんだわ」

「非難されるってことは、うちのお母さんのおへそは、よくない形なんだわ」

「なんとかしなくちゃいけない種類のものなんだわ」

「お母さんに伝えなくちゃ。お母さんに、それをなんとか矯正させなくちゃ」

「そのために私は頑張らなくちゃ」

「だって他人から、そう言われるのだから!」

って感じのこと、やってるわけです。

 

ま、あるいは「そこまでひどくないのに!

お母さんが『そんなにはデベソでない証拠』を見せつけてやる!」

って逆向きになるのも、同じこと。

他人が『デベソ』だと見ていること自体については、一切、疑わない。

他人の視線は「必ずその通り」であって、

「なぜその人が『そんなことを言うか』」の部分は、問題にしない。

 

それは、あなた自身が『自分のものの見方』を、

他者に委ねているから。

心のどこかで自分の感覚は常にどこか、または100%間違っていて、

自分のものの見方は信じてはいけない、と

決めつけている証拠。

 

で、それ、何やってるのかな。

そんな生き方して「何とかしよう」と頑張って、

他人から「文句を、いちゃもんをつけられないように」だけを狙って、

何を得ようとしてる?

 

「あなた自身が見ること、感じること、思うこと」は、

その判断基準のいったい、どこに存在しているのさ。

存在していない、ってこと、わかるかな?

だからこそ、居心地悪くて、苦しいんだよ。

あなたが自分で「自分の感じること」を、完全に無視してる、

だからこそ「気持ち悪い」んだってこと、理解できるかな?

 

「じゃあもし、本当に私のほうが間違っていたらどうするのよ!」

って、あなたは「不安」になるかもしれないけれど、

あのね、自分の『感覚』をきちんと使い始めるとね、

自分が本当に誤ったこと、していたら

やがて自分が、もぞもぞ、するのさ。

あなたは自分の「内側」で、それを「うれしく」感じないのさ。

なにか「後ろめたいもの」「卑怯なもの」を感じるよ。

だって「本当は違うとわかっててやる」から。

 

そういう「自分自身に対するうしろめたさ」と、

「他者目線から見た、他者に対するうしろめたさ」を、混同してるの。

 

そして延々、他者に対するうしろめたさだけに従って、

自分が「本当にはそうは思えないこと」を選んでいくと、

それもまた、自分の内側が気持ち悪く感じるよ、間違いなく。

 

だから、他者の言う通りにしてみても、幸せじゃない。

デベソを本当に治してみても、幸せを感じないの。

自分の感じること、あなた自身がいちばん、無視してるもの。

 

だからこそ、

「へえ、他人から見たら、うちのお母さんは『デベソ』に思えるんだ」

「そういうものの見方もあるんだねえ」

「もしかしたらこの人、よっぽど『デベソ』が恥ずかしいんだろうねえ」

「それを、許してあげられないんだねえ」

っていう捉え方が、できなくなるのよ。

 

他人と自分のものの見方が『違っていていい』、

『違っていて当たり前』ってことを、あなたが許さず(というか、知らず)、

しかも「自分のものの見方のほうが、間違っている」って

いつも決めつけて生きてきたから。

 

で、そんなつもりじゃないのに、

こんなはずじゃなかったのに

なぜうまくいかないの? ってやってる。

なぜ他人は私を認めてくれないの?

だけが、最後の問題としていつも残る。

そこにまた、自分自身は、存在していないよね。

他者目線で自分を外側から見て、採点していく。

 

その、他者目線を先に認めてから、起こっている事態を決めつけるクセ。

それをはずしていくための、小さな練習方法を、最後に伝えておくね。

 

私は、何が好きかな?

どっちを心地よく感じるかな?

今日は、どっちにしようかな?

「うん、私が心地よく感じるほうを『選ぼう』!」

 

これを、毎日、すべてのことについて、やってみてください。

それこそ、太ろうが肌が汚くなろうが寝坊しようが、

もう、本当に本当に、そんなこと、どうでもいいから。

そんなこと言ってる段階では、ないから。

 

『自分が心地よく』感じるほうのことに、できる限り従ってみて。

他者の気持ちに敏感なあなたなら、

自分が心地よく感じられる範囲も

絶対に『逸脱したひどい間違いやわがまま』には、ならないから。

絶対に、本当に、だいじょうぶだから。

 

自分にとっての「快」

自分にとっての「心地よいもの」

「よりうれしいもの」「より楽しいもの」を

自分が感じて自分で決めて、選ぶ

この練習から、どうぞ、やってみてくださいね。

やってみて初めて「今までの自分がやってきたこと」との違いを、感じられるから。

 

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Photo by ecowa 
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