カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

大前提、の話

このところ、

とても素直で可愛らしくて、

良い子だなあ……と思える女の子に、

勝手に話し掛けては、

ときどきお返事をもらっているのだけれど。

 

そこでの、改めての気づき。

自分の中で『大前提』になってることって、

本当に自分で認識するの、難しい!!

 

たとえば私は過去に、自分のことを

素のままでいると、人に迷惑をかけてしまう人間である、

と、かなり強く信じていた。

 

それはもう、自分の内側を掘り下げて掘り下げて、

やっと気づいたこと。

(2年前の夏、そのときの記事→)

 

そうならないための努力を、私は幼稚園のときからやってたのよ!

すんごい頑張ってたの、その頃から。

前提条件が『ダメ』だから、ほめられたくて、ほめられたくて。

 

もうね、自分が『別に楽しいとは感じられないこと』、

内心で「えー、イヤだな、それ」と思っていることでも、

ほめられそう、と思ったら、やってたの!(^◇^;)うわー。

計算しまくりでしたわ。

 

でね。

私の場合はたまたま、

迷惑をかけてしまう、という表現で自分を認識していたけれど、

それよりもっと直截に、

『自分は人より劣っている』ということが、大前提の人もいたりするわけです。

つまり自分以外の人を必ず、100%の確率で、

自分より上か下か

で『まず』見極めようとする習慣を持っている人がいる。

 

そしてそういう人は、心の奥では

自分のことを『本当の本当にいちばん底辺』とまでは

思っていないかな、とも感じる。

 

天災や海外などの悲しいニュースを知っているから、

そこまで、本当の本当に底辺とは思い切れないのかもしれないし、

そこまで思うことに、おこがましさを感じているのかもしれない。

 

みじめな境遇、とは思っていても、

完全にすべてをなくして、

道で行き倒れになるところまでは『まだ行ってない』ないことは、

わかっているのだろうね。

それは日本に住んでいるから、かもしれない。

 

まあ、そうやって、境遇としてはまだ、自分より下がいる、

というふうには認識していて、

だからこそ「この人は、私より上か下か」を

見極めようとするのかも……と。

それでも自分を『下のほう』に見ていることは間違いないんだけれど。

 

そういうタテ目線で他者を見る、他者と付き合う。

そこのところはもう、本人にとっては当たり前過ぎて、気づけないのだろう。

 

でもさ。

人間には本当に、上とか下とか、とくにないのよ。

地球という、この小さい星の『表面』で、全員が、

もれなく、生きさせてもらってる。

 

たまたま、いい具合の重力を持たせてもらえて、

たまたま、いい具合の太陽の光やら、水やらミネラルなども

摂取できる形になってて、だからこの星の表面で、

多様な生命体の1つとして、存在させてもらってる。

みんな地上にいて、それぞれ生きているのだ。

 

そこに勝手に優劣をつけて、パワーゲームをして、

自分にはない、足りないから、と、

奪うことや『外側の力を身につける』ことばかりを考えるのが、上下視点。

 

その人が自分の基準で『そのように見る』ことを、決めているの。

親がそうだったから? 周囲の環境がそうだったから?

そのような『ものの見方』のほうが、自分がトクできる! と

信じることにしただけ。

 

たとえば社会的に成功した人のことを

上に見る人は多いと思うけれど、

それもまた『そう見ることにしている』だけの話。

 

あ、尊敬とか、それとは話が違うよ。

ひとりの人間として、

この人はいいな、ステキだな、と思う気持ちって

『その人の素晴らしい資質』に対して、でしょう?

 

お金を持ちまくってても、

めちゃくちゃ根性の悪い人に対して、

さすがに尊敬の念は抱かないよね(私が知らないだけで、

そんな人を本気でリスペクトしている方もいるかな?(^^;))。

 

そういう人間性、中身の話ではなくて、

超限定的な部分での「できるできない」やら、

見栄えや地位やら、外側のもので他人を判断して、いずれにしても

他者と自分をまず、比較することが当たり前の感覚になっている場合。

 

自分が勝手に見た方向から、つまり相手のある一面だけで、

その人のことをすぐに見下してみたり(そしてその後は相手のこと、

必ず色眼鏡をかけて見る)、

逆にある一面だけで「この人にはへりくだっておこう」とか

自分が下だわ、と、萎縮するの。

自分にふさわしいとか、ふさわしくないとか、

あんなヤツに負けた、勝った、何、それ?

 

「違い」を自分の好みで勝手に上下に採点して、

勝手に振り分けしてるだけじゃない。

それって結局、王様感覚になってると思わない?

そこにその人の「おこがましさ」、感じないかな?

(あ、自戒こめて書いてるよ。もちろん。

ほめてほしかったという点で、私もある意味、経験者ですから)。

 

そんな捉え方をするから、当然、

人間関係でめちゃくちゃいろいろ疲れるのに、

本人はまったく気づけないのだ。

 

これ、逆のバージョンで言えば、

たとえば親が大金持ちで贅沢をしているとかを理由に、

まるで『私は選ばれた人間』みたいに、ごう慢な人、

確かにいるよね。

あえて言えば、その環境を整えた、その人の親はすごいかもしれないけれど、

その人自身の能力や努力じゃないことは、わりと誰にでも見えるよね。

本人が井の中の蛙なだけで。

 

そういうタイプの人と、自分を下に見つつ、他者と比べる人は、

まったく、同じ目線で他者を見ている。

人間というものについて『上下』の視点が基本なの。

 

こういう直接的な、上下の大前提って、

ずっと苦しいだろうなぁ、と思えるよ。

 

だって常に、見張らなくちゃいけないもの。

上に行くだの、せめて保つだの、を意識しないと、

落ちてしまう不安で、自分がすぐいっぱいいっぱいになる。

 

落ちた負けたと思いたくないからヘタに人と関われないし、

すぐ他人と自分を比べてひがむし、

自分で勝手に相手のことを「同程度だ」と判断したら、

なんとか自身が優位に立っておこうとするし、

かなわない、と思ったら、逆にへりくだって、

おコボレをもらおうとするかのごとく、従うことになる。

 

そもそも上とか下とか、ないんだってば。

一人ひとりが「違う」人間、

本当、それは違いがあるだけ。

でもそれって単なる、生物としての多様性であって、

どうしても上下で言うとすれば、

立場の強さよりも内面の美しさのほうが、

『社会的』にはよほど、生きていきやすい。

だって他者に受け入れられやすいもの、単純に。

 

自身が受け取れる喜びも、タテ目線の人より

「違いがある」という目線の人のほうが、

それこそケタ違いに多いよ?

だって生物学的に見ても、

人間という種は集団で生きるようにできていて、

ライオンみたいにグループで完璧に分かれて

一生、生きていく戦略なんて、取ってない。

だからこそ! お互いの違いが、お互いを助け合うことになってる。

 

なのに、そうした「違い」という感覚を、

わざわざあえて、

自分より上か下かで比較することに決めているのは、

紛れもなく『その人自身』なんだよね。

 

そうなるともう、たいていの場合は

自分より上の人、と、自分が(勝手に決めて)思える他者をうらやみ、

自分が対面するあらゆる相手、あらゆる場面において、

自己の立ち位置を常に「どこにするか」探りまくり、

「自分の立場をなくさないか」と内心でおびえることになる。

 

そうやって毎日、瞬間瞬間に、

そのことで苦しんでいるのに! その不安を自身がキープするしかなくなる。

だって上下なんかで他者を見たら、

一生、上になる瞬間も下になる瞬間も、きりなく発生するもの。

だからもう、見張るしかないもの。

 

そういう人たちは、

なぜ、そのような形の『世界の捉え方』を、

選んでいるのだろうね?

そこにどんな『思い込み』が、存在しているのだろう?

 

しかも、なぜそのヘンな思い込みを解こうとはせず、

自分を不安にさせる元である「上下視点」を

大事に大事に扱い、大前提にしたまま、

当たり前のように放置するのか。

 

自分とは違うタイプの素晴らしい『資質』の人を知り、

自分が取り入れる練習をしたり、

学ばせてもらったりしたくないのかな。

温かいものだって「違うから」やり取りできるのに、

その喜びを、なぜ知りたくないのかな……。

 

それよりもパワーゲームに明け暮れる人生、

力を手に入れている、と思える人にへりくだって、

なんとかオコボレをもらうような人生、

常に自分を貶めるかどうか、

他者より強いのかどうか、

優れているのかどうか、

そんな「内心でおびえながら周囲を見張って見栄を張る」

ような視点の人生を、なぜ選ぶのだろう?

わざわざ比べて続けて、一度きりしかない人生の中で

何を得ようと思っているのだろう……?

 

その視点ではっきり得られるものって、何があるのかな?

一瞬の栄光? それを得たあとは、

なくすのが怖くてキープに必死になり、

キープできなきゃその思い出にすがるだけにならない?

どっちにしてもそうやって、ずっとおびえながら生きていくのかな?

 

2016_04_29_1

Photo by Hans
Pixabay

 

自分の内側

昨日のブログで「自分の内側」という表現を使ったので、

今日は、その内側と外側の境目って、どこなんだろうという話をしてみたいと思う。

 

私の解釈なのだけれどね、私のなかでは「自分」って

「考えたり感じたり」の思いを『持つ』部分、のこと。

部分って言っちゃうと、ちょっと語弊があるけれど。

 

たとえば、私が、誰かのイヤな言動を見て、不快さ、を感じたとする。

その最初の瞬間の「ムッとした」感じ、

そういうなんだかモヤッとしたものって、

胸よりはもうちょっと下、おなかの真ん中あたりにまず表れる。

そして同時に、「え!?」という『頭の中で思い浮かべる言葉』も湧く。

すごく一瞬なんだけれどね、「モヤッ」が湧くときに「え!?」って出てくる感じ。

 

トキメク方向の「ドキッとする」のは胸のあたりで、その瞬間、

頬にもちょっと血が集まってくるし、

同時に頭のなかで「うわっ」とかいう言葉を発していたりもする。

 

悲しさを感じたときも、胸にまず「何か」が来るけれど、

このとき頬には、何も感じない。そして「う……」という言葉が思い浮かんでいる。

どちらかというと、頭の中で思い浮かぶ言葉は、

どこかで感じた「もやっとした何か」が表れたことによって出てくるのかもしれない。

 

で、ですよ。

そうなると内側の私って、感じ取る際に

身体のいろいろな場所を使ってはいるけれど、

「身体全部、そのもの」よりは、

そのもっと「内側」とか「奥」な感じがするわけです。

背骨よりも奥深く、みたいな印象。具体的に想像するの、難しいんだけれどね。

 

こういうことって私は、昔からずっと、

当たり前のこととして、自分の身体を使ってやってきていたのに、

自分が、何をどうやって感じているかなんて、気づいたことなかった。

 

はっきりと気づけたのは、私が死ねなくなったあと。

もう私は死を選べない、そういう意味では、回復することしか道が残されていない。

じゃあいったい、どうやって生きればいいのだろう?

自分をこれ以上、見下げて苦しまないで済むには、どうしたらいいのだろう、と

いろいろ探っていたときに、

たまたま受けた、あるセラピストさんのセッション。

 

その人が「今日は、自分を感じてみましょうか」というレッスンをしてくれたのだ。

そのときに、こうイメージしてみてください、って言われたのが

「私というのは、CD盤の『穴』の部分である。

その外側にCDの部分、つまり『自分の身体』があって、さらにその外側に、

今まで外側だと思っていた『外界』がある。

『私』は穴から、五感も使いながら、

『身体を含めた外側全体』を見渡し、感じている」と。

 

この「本来の自分はCDの穴」っていう表現で、

先に書いたような「感じ」をどこで最初に受けとめているか、みたいな話が、

ストンと腑に落ちた。

 

そうか。

たまたま私は「この身体」の内側にいるけれど、

ここまでが私、っていう区切りを厳密につけるとすれば、

肉体もすでに「自分の外側」って思ったほうが、

なんかスムーズに納得できるわ、って。

 

で、私はこの外側の肉体とは関係が深いゆえに、

感情の湧きどころとして、腹を使ったり、胸を使ったりできる、勝手に。

人前で「あがる」、そういう形の緊張をすると、

足にも震えという「お知らせ」が来たり、

汗をかいたりもするのか、と。

 

で、話を昨日のところに戻すと、だからこそ「自分の内側」、

つまり本当の芯のところの私を磨く、心地よくするのって、

寝たきりでも可能だよ、と言えるわけです。

 

たまたまね、この内側を「心地よく」するために、

キレイな花を見たり、美味しいものを食べたり、身をキレイにする、

という方法は「使える」けれど、

自分の内側を磨くのに、別にそれが必須ではない。

 

自分が「心地よくなれる練習」を積むことが

『内側を磨く』ってことなのだ。

 

そう捉えれば、病があっても、できそうなこと、あると思わない?

笑えたら、免疫力だって実際に上がるんだよ?

外側だけれど、自分と関わりの深い「身体」を大切にしてあげることも

自分の内側を「心地よく」するのに役立ちそうじゃない?

 

お金も、勉強も、成績も、地位も名誉も見栄えも、

「内側」を良くするために「うまく利用」はできるけれど、

必須じゃない、別にそれが「私というもの」じゃないのよ。

 

っていうかどうせなら、内側を磨く、

自分を心地よくしていくために、そうした外側のものと

上手につきあっていく、うまく扱える練習のほうを積もうよ。

それがなければ死ぬしかない、なんて、

単なる思い込みだっていう意味、伝わるかな?

 

そして、自分の「内側」をいちばん「心地よく」してくれて、

自分の内側磨きにいちばん役に立つのが「愛」や「思いやり」と

呼ばれる範囲の、温かい感情、なのだと思う。

 

しかもね、誰かからそういったものを受け取ることが必須、じゃないの。

自分が内側から「それを表現できる」ことが、内側磨きに役立つ。

特定の誰かに限定していなくても全然、問題じゃないの。

見知らぬ人にだって「表現できる」ことはわかるよね?

 

そしてさらに、絶対、とも言えることは、

自分に向けて「愛と呼べそうな範囲のもの」を発してあげることって、

他のあらゆる手段よりも効果が高い

ってこと。

これは私も練習してきて、確実に、そうだと思える。

 

だから本当は、何かを持ってないこと、が問題なのではないし、

誰かにほめられたり愛してもらえたり、が

できていないことが問題なのでもない。

 

あなたが、自分の内側を見捨てている

あるいはまったく無視している

 

ことのほうが、よっぽど大きな問題なの。

だってそれ、いちばん、自分を苦しくさせる方法として「近道」なんだもの。

 

ゆえに、もう一度、言っておくね。

 

自分の外側のことが

うまくいかないという理由から、

今、あなたは、自分が苦しんでいるように

思えるのだろうけれど、

それは「外側のこと『しか』見てない」から

苦しいのだよ。

 

あなたはCDで言えば『穴』の部分。

そこを見つめ直していくことで、必ずいつか、

その苦しみから「あなたにとってやりやすい方法で」抜け出すことができるよ。

身体、肉体を含めた「外側」のものだけを見つめるのは、

そこまで苦しい今だからこそ、ちょっと、やめてみない?

自分の内側のほうに、もっと意識を向けてみない?

 

なぜ私は、自分の内側、芯の部分、

CDに例えれば穴の部分を無視しているのだろう?

どうやったら私は、自分の内側を大切に扱って、

『磨ける』ようになるのだろう?

 

そういうふうに内側を知る練習を始めるとね、

そこに「ものごとを損得でしか捉えていない自分」とか

「見栄を張らなければいけないと信じてきた自分」などが

見つかり始めるのですよ。

 

そういうシンプルな部分からもう一度、

練習、始めてみない?

 

2016_04_26

Photo by Hans
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見栄張り人生

当たり前のことを改めて綴ります。

 

わかりやすい外側の何か。

美、健康(運動で筋肉を鍛えること、のほうね)、

財産、地位、名誉、勉強、成績、伴侶、親、子ども、その他身内。

よくわからない知り合いレベルの友達100人とか、

有名人と友達、とか(笑)

 

ま、勉強は、自分の脳みそを鍛えることになるから

あとあと、役に立つこともあるし(脳の神経回路のつながりを増やせる)、

運動も免疫力が上がるし、

他のことももちろん、

悪いことばかりではないのだけれど。

 

いずれにせよ、上に挙げたようなことが

「できなければ」人間失格、とか言ってる人を見ると、

見栄を張るのがすべてって

器、小っさいなー(^^;)

と思う私がいる。

 

だってそんなもの、ヘタに溺れたら、

心を失うだけだから。

なのに、それだけしか見ないのであれば

要は「私は世間様に見栄を思い切り張りたいんです!」と

宣言しているわけで。

ね、器、小さそうでしょう?

 

まあね、同じ意見の人なら、

それに釣られてくれるかもしれないけれど、

お互い、それらのどれかを失ったら、

その関係ってジ・エンドだよね。

見栄を張れなくなったら、おしまい。

くだらんと思うのですよ、そんな人間関係。

 

私の知る範囲、だけれど、

たとえば勉学なら

「東大卒だから」とか

「○○高校出身だから」を

しょっちゅう口にしている人ほど、

人間関係がうまくいっていない、残念ながら。

傍から観察してるのも飽きたから、

最近はどうなってるか知らないけどさ。

ステキだな、と思える東大卒の方は、

東大卒だということをわざわざ匂わせない(笑)し、

とても気さくでチャーミングだったりするよ、

男女問わず。

 

あと、お金の例で見たことがあるのは、

『年収』が(マジで)3億円に届いたとたんに

家族をないがしろにして、

愛を失ってしまう人(そして事業も、ごう慢さゆえ?

やっぱりというか、うまくいかなくなってた)、

なのに同じ金額までいって、家族や仕事仲間と

みんなでより、幸せに暮らしている人もいたしね。

 

その差って、結局は外側の問題じゃないよね?

その人たちそれぞれの、内側の問題だよね?

 

美しくなれば幸せになれるのなら、美を商売にする

女優や男優は日本で最も幸せな人たちのはずだよ?

なぜ記者会見で泣き叫ぶような人がいるのだろうね?

 

こんな、言わずもがなのことを並べたくなったのは、

外側のことがうまくいかないなら

もう、死んだほうがいいのでは、という

えらく狭い視野に囚われている人が、まだまだいるから。

 

外側のこと(人間関係を含む)がうまくいかないから、

今、あなたが苦しんでいるように

自分では思えるのだろうけれど、

それは「外側のこと『しか』見てないから」苦しいのだよ。

単純に、視野、偏ってるの。

愛などの感情が混ざることもあるのだろうけれど、

見ているものがそれなら、愛する相手さえ

見栄のための飾りになり得るもの、それ。

 

それにそもそも、

自分の内側のことをないがしろにしている人間は

人間的魅力も、低いと思わない?

 

まあ、本当に、そんな世間的見栄に

溺れたいのに溺れられない、

だから死ぬしかない、と、

どうしてもあなたが思い込んでいたいのなら、

それはあなたの選択だから、

私は止めることをしないのだけれど。

 

内側を磨くためにやれることはたくさんあるのに、

そして内側を磨くほうが、絶対、

外側のチャンスも確実に増やせるのに、

外側ばっかり得ようとして、うらやんで、

人生終わらせるのって、

私は、ね、もったいないなー、と思えるのだ。

 

内側を磨くのにお金なんて要らないし、

美も要らないし、健康を損ねていたって、できる。

病院だって今は、ボランティアの人に頼んで

長期入院中でも本を借りられたりするのだ。

ネットも使えるようになりつつあるしね。

 

それこそ、お迎えが来るその日まで、

自分なりに内側磨きのほうは味わって

練習しながら楽しめるのに、

なぜ外側のものがないからって、

ひたすら自己罵倒して

自身をこの世から消さなくちゃいけないんだろうね。

 

そんなに、見栄を張りたい?

それ『しか』見ていかないってことは、

自分の内側の魅力をどんどん押し下げる練習、

積んでいってるってことなんだけれど、

そんなに自分の器を、小さくしてしまいたいの?

 

なぜだろうね? なぜその外側の見栄を張る練習ばっかり、

あなたは積みたいと願うのだろうね?

そうしたくなる理由のほうは、探ってみないのかな?

 

2016_04_25

Photo by Hans
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