カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

そしてオマケ。自分に対して、でもあるかも(^^;)

でもでもだって、

ダメダメのにのに。

 

その世界を、丸ごと捨てよう。

やりたいときにやりたいこと、やろう。

 

ダメダメのにのに、

のにのにダメダメ、

でもでもだってだって。

 

どうせそんなこと言ったって目の前の『今』は!

 

はい、現在、は明日につなげられます。

あなたが、その気になれば。

 

現在は、過去と同じではありません。

あなたがそれに気づく気になれば。

 

その視野、決めているのは、あなたです。

その視野、決めているのは、はい、私なのです。

 

怖いね~おそろしいね~面倒でたいへんそうだよね。

 

でも、腐っているよりは、マシだよ?

止まってとどまって閉じこもってドロドロしているより、

そこから抜けて新鮮な別の種類の空気、吸ってみない?

 

寝る。整える。肚を据える。

 

すでに今の自分にその「余地」があること自体、

実はとても、有難い。

 

一歩、半歩、無理ならつま先だけでも。

自分が、自分を知ろう。

 

たとえばね、なぜ、他人とうまくつながれるかどうかばかりを

必死に見つめて(はい、他者を自分に都合よく利用しようとして)

それ『だけ』に価値を置き、

そこ『だけ』で幸せになろうとしているのか。

 

人の上に立てなければ立派な人間とは言えない、とか聞かされて育った?

そういう言葉を吐く人の心の裏側には

『人を見下げられるような立場にならなければ笑われる!』

なんていうおそれが隠れていたりもするけれど、

その人の裏側が怖がりかそうじゃないかを、どうやってあなたは判断したの?

表だけ見て盲目的に信じて、自分に呪い、かけてない?

苦しい理由、自分のそんな視点から、ひも解いてみようよ。

 

そのために、自分を、整えよう。

 

何をやるかでなく

どう『在るか』から、すべてが始まる。

 

そう。

わかっているけれど、あー怖い怖い(^◇^;)

ゆえに整えつつ、まずは、つま先から。

 

そのつま先が、未来の一歩に、やがて変わる。

 

2016_03_26_2

Photoby GLady
Pixabay

 

イメージとしての、鬱の話

病に達するかどうか、とか、

度合いのことではなくて。

 

鬱々とした気持ちのときに、私がやってるな、と思うこと。

または、鬱の病だったときの、

悪い(と捉えていた)自分を「見つめていたとき」の感覚。

今日はその、たとえ話です。

 

まず、広い野原、みたいなものを

イメージしてみてください。

公園でも、広場でも、原野でもいいよ。

 

タンポポがあって、シロツメクサの群生もところどころにあって、

他にもいろいろ、短い丈の草があったり、

ぽつぽつと樹木があったり。

 

そこをときどき訪れるあなたは、

広場の自然な心地よさを味わったりして、

いつもゆったりと、ときを過ごしています。

 

でね、ある日『たまたま』、

そこにモグラの穴を見つけました。

 

穴の近くに、今のところは

モグラがいそうな気配もありません。

でも、せっかくのシロツメクサの群生の横に、

せっかくの木陰に、盛り上がった土。

ときにはぽっかり、穴が開いています

(ここでモグラの習性として、あえて根がたくさんあるところには

わざわざ穴を開けないだろうとか、そういう類のことは、

気にしないでくださいね。あくまでもイメージです)。

 

ああ、今日はこの木陰を味わおうと思ったのに、

穴が開いてるよ。

そう思ったあなたは、その穴を埋めます。

 

さて、次に訪れてみると。

また、モグラが、穴を開けていました。

再び、景観が乱されたように感じたあなたは、

その穴を埋めに行きます。

 

さあ、こうなってくると?

 

そうです。最初に気がつくまでは、

「気にしたことがなかった」穴を、

あなたは毎回、探すようになります。

 

もともとそんな広い空間があるところに、

モグラが、いきなり湧いて出るわけはないので、

実は今までにも、穴はあったはず。

 

でもそれは、あなたにとって、今まではとくに

「悪いもの」ではなかったのです。

 

ところが、いったん気にし始め、

しかもモグラを『悪者』として認識したら、

あなたは、それに注意を向けることでしょう。

 

そしてダメだ、こんなの、せっかく心地よかったのに、

こんなのダメだ、ダメだ、ダメだ、

と、嫌な気持ちを徐々に積み重ね始めます。

 

ところがどっこい。

相手はもちろん、あなたではありません。

地中を自由に行き来できるモグラなのです。

つまり、あなたの感情や思いとは関係なく、

勝手に好き放題、するのです。

あなたが、ある日から、

モグラを「悪者認定」しただけの話。

モグラには、モグラの生き方があり、

どうしたって、地面に穴を開けるのです。

 

はい。そうです。

あなたがそれ以降、

モグラの穴を『悪』として注目し続ける限り、

不毛な穴埋めとモグラ批判は、そこから一生でも、続きます。

 

今まで、心地よかった広場も、

モグラ批判のため、台無しになります。

そのうち、たとえ穴を埋めても、

地面の土色のマダラ具合にさえ、

あなたはイライラし始めるかもしれません。

 

そうなったらもう、広場の自然な心地よさ、

なんて、消えてしまいますよね。

モグラめ! 腹が立つ、懲らしめてやりたい。

それだけになり得ます。

 

木も、花も、草も、以前と同じようにそこに存在してくれているのに、

同じ心地よさを提供してくれているのに、

モグラを気にして「批判して罵倒」して、

わざわざ嫌な気持ちになるほうを、

あなたが、選ぶのです。

 

モグラが、土を柔らかくしてくれること、

微生物を助け、その心地よい景観を保つことに

協力してくれているとしても。

 

そんなこと、あなたには、もう、関係ないですよね。

アイツは私を気分悪くさせるのだから、

悪いに決まってる! のです。

 

鬱々とした気持ちのとき。

あなたは、モグラの穴『だけ』を見つめています。

わざわざ、悪いことだけに、集中しているのです。

 

ええ、私も以前、まったく同じこと、やってました。

そしてモグラ自体が、この世から消えることがないように、

私の悲しい記憶は、いつ思い返しても、悲しいままです。

 

薄れてはくれます。別の見方をすることで、学びにもなります。

その点で、感謝できるもの、にもなりますが、

悲しい、というカテゴリーが「うれしい」に変わることはありません。

切ない、というふうに、色を少し変えるくらい、かな。

 

苦しい記憶も、やはりまた同じことがあれば、

以前ほどではない場合もあるだろうけれど

やはり、苦しさを感じることは、あり得ます。

 

だからこそ、言います。

あのさ。

それを「悪者」として、それ「だけを見つめる」、をやめない限り、

そりゃずっと、鬱々とした気持ちのままだし、

モグラは悪者のままだし、

あなたは幸せに、なれないわ。

 

自分から『悪いもの』に意識を集中させておいて、

なぜ私は、うれしくなれないのだろう? 

って、やってるの。

 

モグラの穴はこの先も、

10個でも20個でも見つけられるだろうし、

さらにはマダラになった土を見て、

過去のモグラのヒドさも頭の中で加え、

記憶の中の悪さ、まで付け足して、集中して見つめる。

見つめて、罵倒すること、可能なの。

証拠はある! 土はマダラだ! ってね。

 

そりゃ、ずっと、不幸です。

そりゃ、ずっと、鬱々です。

あなたが自分で、自分の見るものを

『変える気を起こさない』限り、

花にも草にも木にも、喜び、感じられません。

 

そこを流れる風、お日さまからの光、

優しい雨、柔らかい緑の香り。

あなたを包んでいる『他のもの』を

あなたが、見ないことを選ぶのです。

 

でね。

過去にさんざん(泣)、やったことのある私だから、尋ねるよ。

あなたは、いつまで、それを選ぶ?

いつまで悪者を消すことだけを、見つめる?

 

すべては、あなたの、選択次第。

あなたがいつまで、また、どこまで自分を苦しくさせるか、

それを、選べます。

 

モグラ自体は、この先も、出るでしょうよ。

あなたが気にする間は、ずっとね。

 

ならばいつ、何をきっかけに、あなたは、

『だけれども、心地よい世界』に、自分の集中を戻す?

いつ、『記憶まで使ってモグラを批判するだけ』の気持ちから、抜け出す?

 

それは、あなたが、決めていいんだよ。

変えるために、先に寝て、食べて、

心の体力、取り戻していいんだよ。

 

この世界ではいつだって、

そうするかどうかを、あなたが、選んでいいのだから。

 

2016_03_26_1

Photo by FraukeFeind
Pixabay

 

失敗した、損したと「私が」思わないで済むには……?

心屋さんのブログを読んでいて、

ある意味、衝撃を受けた質問と感想があった。

 

私が勝手に、とある視点で解釈したわけだけれど、

その視点から、今日は書いてみようと思う。

 

話に入る前に、この記事を読んでください。

あ、先に読んでくださいね、すみませんが。

子育てについての質問なのだけれど、

私にはそのテーマは単なる『一例』であるな、と、

後半の方の体験話を読んで思えた。

 

◎心屋仁之助さん
■自分の子供に、へんな呪いや刷り込みをしない方法
http://amba.to/1ZqUx2I

 

で、まず、私はタイトルを読んだ瞬間、

それって『子どもが、こちらの伝えたことをどう受け止めるか』まで

完全にコントロールできない限り、無理だよね!? と思えて。

 

子どもは子どもなりに、ひとりの人間として

自由に相手の言葉を受け止めるわけだから、

それを「呪い」に使う子どもだって、当然いるわけで

(はい、『頑張らねば』を自分の呪いに変えていたのは私で、

私がその点における親と自分の違いを認識・説明できず、

親は親で、期待することがいいことだと思っていた、というだけの話)。

 

そんな、親が全部を知って全部を操るなんて、あり得ない……と。

 

で、これは私が子どもとしての立場から感じたことで、

心屋さんも答えとしては

「そんなの、ない」とおっしゃって。

 

ここで済んだら、話はそれで終わったわけだけれど、

心屋さん、ちゃんと、続けて「引っ掛け」をご準備なさいました。

ちょっと引用してみます。

 

********************************************************

  私は生まれつきの複雑心奇形。
  ママのお腹の中で、自分の心臓を作る時に…

  「あーー… なんかちょっと失敗しちゃったな……」

 

  「…」

 

  「ま、これでいいか! よし、完成!!」

 

  そんなこと言いながら、
  産まれて来ようとしてる胎児の自分を想像……

 

  したら
  なんか可笑しくて可笑しくて!!

  大事なところでやらかす自分らしくて、

  もう、許すしか無いですよ(笑)

********************************************************

引用ここまで。

 

この方にとって、複雑心奇形は、確かに問題。

けれど、ご本人は「そこまでの問題『視』」は

されていない感じ、伝わってきますよね。

 

自分が『そう見ない、そうは捉えない』でよくなれば、

問題は少なくとも「大きな問題」ではなくなる。

そのためにどうするかというと

やらかした自分、をゆるすだけです。

だってそうなんだもの、仕方ない、と。

 

で、ここで私は、最初の方の質問を、

この心奇形の女性の方の視点方向から、

改めて、読み解き直してしまった。

 

そうしたら、記事のタイトルにあるように、

読み取れたわけです。

 

『失敗した、損したと「私が」思わないで済むには?』

 

えーと、気づいてもらえるかな。

これ、一歩ズレたら、ものすごく「ごう慢な質問」ですよね。

私のことしかアタマにない人、みたいになり得る。

そして同時に、私が自由に解釈してもいいのだよ、

という基本的なことを、含んでいる。

 

私は、私のことが大事。

でも、他人と私は同等。

同等だけど、違いはある。

同等だから、違いは、認めたほうがいい。

 

自分のことにしても、相手のことにしても、同等に、扱う。

相手も、相手のことが大事、でOKなのだ。

違いながらも同等だからこそ、折り合えたら、気持ちが通じたら、

私も相手も、すごくうれしくなれるのだ。

 

同等、と違い。

これってコインの裏表、みたいなもので、

そのふたつの間でバランスを取っていく。恋愛や友情なら

『自分がより、心地よく対することのできる相手』を探せばいい。

 

親であっても、子どもであっても、バランスの取れる距離を置いていいし、

自分自身の問題についても、この心奇形の女性のように、

問題『視』しないですむ距離やバランス、探していいんだな、と。

 

まあ、子どもの中には「100%自分側にわかりやすく示す」ことを

当たり前! と言い張るヤツもいる。

あ、逆にもちろん、親でもそういう人はいる。

 

それは、距離を取っていいことを知らないがゆえのなのかな。

勝手にそういう距離やバランスを取るだなんて、私への愛情の示し方が

不足している証拠! とかね。

おお、子どもも親も、これだと

すぐ「相手が悪い」って視点になるね、気をつけねば(^^;)

 

同等で、でも違っていて、それぞれ大切。

それさえつかめれば、そこを忘れなければ、

どんなやり方しても、結局はいいのかも。

 

それこそ最初にあった、呪いをかけないように

うまくやるためには、なんて質問も、

バランス悪い(コントロールしたい)人から発言された場合だと

自分のことだけ見つめすぎていて、回答が

「知らんがな」にもなりえるんだなあ……。

相手の状況次第で、答え、変わるのか、そうだよね、とも思えたよ。

 

呪わない子育てと、問題視しないでよくなった人の話。

これを組み合わせていただけたことに、感謝いたしますm(_ _)m

 

最後に、問題視しないですむようになるためには?

なぜそれを『自分は』問題視しているか、

そこをひも解いてみるといいかも、です。

あと、他の人の「別の視点」の例を探してみて、

なるほど、と思えたものについては勇気を出して、

そっちを「自分に当てはめて採用」してみてください(*^^*)

 

練習練習。

上手にできるようになるまで、少しずつ。

一足飛びばっかり、狙わないでね

(自分がわかりやすく優秀になりたいってのも、自分自身への呪いだよ)。

 

2016_03_24

Photo by Pezibear
Pixabay