カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

おびえや怒り、から引き寄せるもの

怖がってるだけじゃ、

自分がチャンスを失うんだな、ということを

私は、かの「お姉さん」から最近、

学ばせてもらっている。

 

傷つくことを極端に恐れ、それゆえヘンに怒ってみせたり、

必要以上にへりくだるような謝り方をしたり。

 

そうすることで、彼女の「傷つきやすさ」を

感じる人たちがたくさんいて、

あるいは逆に、触らぬ神に祟りなし、みたいに

関わることを避ける人もいて。

 

その結果、彼女が仕事でミスをしても

「ではどうすればいいのか」を

誰も、彼女には、まともに教えない。

 

まあ、会社の「生ぬるい風土」も、もともと、関係してはいるのだけれど

(改善より、適当にいい加減なフォローをして

お茶を濁すような部分がある)、

それにしたって、彼女から「嫌われたくない」と

いつもアピールされている人なら、

もうちょっと指導してあげてもいいのになあ、

だって彼女も、その人に対しては視野の狭い反発や反応を

すぐには起こさないだろうだから……とは思うのだ。

 

あー、失敗しちゃったね、

仕方ないね、

だけで終わらせていいことと、

「どうしたら、そのミスをなくせると思う?」

と一緒に考えてあげる必要があることって、

明らかに問題レベルは別もの。

 

彼女の失敗は、彼女の恐れから来ている

(だから抱え込みすぎて、本人がうっかりミスしやすい部分で頻発する)のに、

しかもそのミスが、レベル的には「それ、放置しないで

一緒に対策を考えてあげたほうが良くないか?」

という危険性をはらんでいるのに、誰も手出ししないのだ。

 

たぶん、彼女なりに頑張ってはいるのだから、

傷つきやすい彼女を刺激してヘタに傷つけたくない、という

うっすらとした「逃げの空気」が、

彼女の部署の社員さん達から漂っているのが

いちばん問題なんだろうな、と傍から見ている私は感じる。

 

でも、彼女の側に立つと、

そこまで「恐れから自分の頑張りを必死でアピール」しつつ、

何でもかんでも抱え込むからこそ、

そのような問題も発生しているわけで。

 

仕事という面で共依存しなくてもいいのに、

私がいなくちゃダメよね! に、なりたいんです!

をPRしたら、そりゃまあ、普通の感覚の人なら

その子と摩擦はしたくなくなるよ……良い意味でも、悪い意味でも。

 

かくして彼女は、いつまで経っても同じような部分で

ミスをして、しかも忙しくなると必ずそれらをやってしまうのに、

改善することができない。そして「危険」っぽいものが毎回、匂う。

 

それは彼女の「社会人としての経験不足」からも

発生しているときがあるのだけれど、

彼女は、誰からも「経験者の智恵」を伝授してもらえないのだよ。

皆からヘンにぬるく見守られ、言い換えれば、逃げられていて。

 

これは、まあ、正直、

かわいそうだな、と思えなくもない。

だが、そこまで自分の恐れをにじみ出させて、

『認められないのが怖い』をアピールしてしまっているのは、

彼女自身なのだよね……。

 

『失敗して評価されない』ことを恐れ、

むやみやたらに「低く見られること」を怖がり、ときには

「そうならないよう、先に噛みつく」ことさえある

(たとえば失敗を認められず「私のせいじゃない」と

言わんばかりに逆ギレしたりね(^^;))、

そのような姿勢によって、自分がどれくらい自分の能力を

伸ばし損ねているか(そういう状況を自分が引き寄せてしまうか)、

つまり自分が学べるチャンスを失ってしまう事態になっているか……。

 

そのことに、いつかうまく、

彼女自身が気づいていくことを祈りたい。

 

そしてオマケ的に言えば、私は昨日、まったく別のきっかけから

『温かいもの』を指針にしたけれど、

今日の彼女に対して、早速、効果があった。

 

彼女の態度に『自分が反応して

一緒に(?)ムカムカする』必要がないことを

あっさり感じ、そのように練習できたのだ。

 

『自分の中の温かいものに従う』覚悟、

決めると結構、威力がすごいな。

 

そして上記の通り、お姉さんを冷静に見つめて、

今日、文章に綴ることができたのも、

この指針のおかげだと思える。感謝☆

 

彼女のように、

おびえて周囲の人や状況に

ひたすら反応ばっかりして(自分を見失って)、

もったいないことになっている方がおられたら、

ぜひ、指針、作っていいよ、そして

そんな『反応』のほうばっかり自分から意識して、

練習を重ねなくてもいいよ、と

なんだか伝えたいわ、私……。

 

2016_03_09

Photo by Padurariu Alexandru
Unsplash

 

卑屈とかパワーゲームとか

ごめんなさい、完全に

自分用メモ、とも言える気づきです。

 

媚 売らなくていい

駆け引きもしなくていい

 

○○な振りとか 

パワーゲームなんて

仕掛けられても乗らなくていい

 

昔は もしかしたら一部

楽しんでやれていたかもしれないけれど

今は別に やる気もないし

楽しそう とも思わない

 

だってそれ 見せかけなんだもの

ホントの私じゃないもの

気に入られようとして(?) 

ウソついてるもの

他の人との差を 演出しようとか そんな感じ?

 

相手の気を引こうとか 演技してるのかもしれないし

そのとき その場でとっさに 自分を『良く』見せようなんて

ウソ ウソ ウソつきだらけの

超ヘンな固まり(ネコの皮がんじがらめ)に

みずからを 変えるってことだわ

 

イヤなものはイヤと言い

うれしいことはうれしいと言い

そこまでされたら 無理だと言い

私は私が大事なの! と示したい

私個人がどうこう というよりは

私の内側にある 温かい気持ち

温かいと『私が感じられるもの』が大事なのよ

 

その温かいものに従わないっていうことが

もうダメ もう無理だから

従えない状況になるのなら

その相手から 離れるわ

まあ いきなり離れるのでなくても

相手のこと 斬るし 

それでも無理なら ご縁のほうを切るわ

 

あ 具体的に

誰かとケンカをした とかじゃないのよ

過去のあることを 思い出したら

いきなり ひらめいた言葉たちなの

 

あのとき あれを選んだ私は

もう今は いなくて

あのときの私は 今の私じゃないから

 

私は今の私を 自分のために 

等身大で感じていくの

ネコの皮で自分を増やしもせず

へつらいもせず

力みすぎたりもする必要なくて

 

私は 私の中の

温かいものとだけ ともに 生きるの

私は 私の中の温かさに 常に尋ねて

そこからの答えを聴いていくだけでいい

 

それ以外の指針は 自分の土台になり得ない

この温かさは 私が 私こそが 守っていいものなんだよ

 

そのことが 今 しっかり 届いた……

 

うん だから 覚悟を決めろ 私

記憶の亡霊なんかに 

振り回されるんじゃないよ!!

 

2016_03_08

Photo by Chiemsee2016
Pixabay

 

『ドケチ』さんの例、そこから抜け出したい人の例

昨日の話の続きで、例になるもの。

『お金』や『成功』を先に受け取ろうと

している人たちの話が、

『東洋経済』のネット記事にありました。

 

今の自分の立ち位置のありがたさ、よりも、

他人がどうであるか、

のほうを見つめている人たち。

 

男性のほうは、違う方向のモノを

見ようと努力されつつはあるけれど、

本当はまだまだ、『成功』に未練ありますよね?

という感じの印象を受けました。

 

結局、自分のことを人と比べてばっかり、なのは、

女性の例のほうと、実は大差がない感じ。

 

これ、別に私も、現状で満足しろ、とか、

そういうことを言いたいわけではないのです。

自分がどこを、何を『見ているか』を、

これらの極端な例から感じていただければ……と思ったのです。

 

たとえば、幸せの「カタチのひとつ」として、

自分がやってうれしいこと、を、どんなに小さくてもきちんと見つけていき、

それが10個、20個集まっていけば、

まず気分転換がうまくいく確率、上がりますよね。

そして毎日、プチプチと自分を喜ばせてあげられるのは、楽しそうですよね。

 

『他者への貢献や愛』的なものも、

『努力』とか『達成』というような話とはまったく別のところで、

あなたが喜べるものとして、見つけられます。

 

で、この人たちが語る成功や幸せって、言ってしまえば

他者から見られたときにわかりやすいから、と

望んだ『あるひとつのカタチ』でしかない。

しかも他者軸なのです、どちらの方も、結局は。

 

なのに、それこそが本当は素晴らしい!

とだけ、信じ込んでいるから、

まるで晩年の、黄昏れたおじいちゃんのような言葉を吐いたり、

負け惜しみ、ごまかし、みたいな恋愛をしてみたり。

 

もはや自分を、負けた、失敗した、としか、

捉えて生きることしかできないのかしら……と、感じてしまうのです。

それこそ、気づかなければ、一生、この視点の部分では、

自己卑下し続けて不幸ですよね。

 

この方たちの「極端さ」の部分は、

まあね、バカだな、と笑えても、

この人たちの「視点の頑なさ」を、

バカだ、と笑える人って、今の日本には、

本当はそんなにたくさんはいないのでは……とも思えました。

もちろん、自戒も込めての意味で。

 

この話を読んだあと、どうぞ、

我が身を振り返ってみてください。

 

自分はどれくらい、

隣のみならず、他人の芝生を青く見ていますか?

どれくらい、他人と自分を、比べてますか?

そしてどのくらい、自分をあきらめ、ひとつのカタチだけを追い続け、

他の人の人生を「夢見るだけ」で、立ち止まっていますか?

 

そんな部分で何か、ヒントにしていただければ幸いです。

 

先ほど、立ち位置のことにも触れたので、あえて言ってみると、

恵まれていること、のほうを見ない……という部分だけで感じてみても、

きっと、この方たちと私たちは、

五十歩百歩なのかもしれません。

 

ひとつめ。

とてもわかりやすくて極端な『隣の芝生』視点さん。

とにかく先に、自分が受け取りたくて受け取りたくて、

でも受け取れなくて、卑下して。

出すこと、の喜びには気づかず、

自分をごまかして生きて、やがてはどうする? な例。

http://toyokeizai.net/articles/-/107994/

 

ふたつめ。

黄昏れたような言葉を吐いて、割り切りをつけようとしているけれど、

何かどこか「自分をあきらめた感」が、もうもうと立ち昇ってきます。

疲れ果てて、というのとも、ちょっと違う。

どこを見続けていくのでしょうね、この方も。

http://toyokeizai.net/articles/-/98650

 

『ドケチ』さん、と、私が呼びたくなる意味、伝わるでしょうか。

そもそもその、達成できていない欲望って、本当に、

あなたが心から喜べる『幸せ』ですか?

あなたは本当は「何を見つめている」のでしょう?

 

その面で、これらの例から、

必要な方に必要な部分が、届きますように。

 

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