カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

死を選ぶってことは

それくらい究極の方法を使ってでも

今の状態から 逃げ出したいってことだよね

 

今の状況 変えたいのに

自分では変えられないと『信じて』いるから

逃げ出すために 死を想うんだよね

 

別に 死ななくても その状態から 逃げ出せるよ

その状況 あなたが 変えられるよ

 

そのために必要なのは

比べて 見下げる 

っていうバカ行為を やめることだけ

 

比べずに ただ 自分が いちばん 自分の感じることを

大切にしていくんだと 覚悟するだけ

 

その覚悟を決めてから

自分が 何をどう好み

何がどうキライであるか

 

そんなふうに 何をどう感じる人間かを

もっと自覚してみる練習を

始めてみたらいいの

 

それをいちいち ジャッジして

採点しているから

苦しいんだよ 実はね

 

その採点 過去の経験の範囲でしかできなくて 

他の『経験していないこと』までは 混ぜてないもの

めちゃくちゃ 狭いよね 範囲

 

自分が 自分をジャッジすることはやめる

その覚悟ができたなら

『見春屋』でもいいし

他のところでもいいから

自分に合う 自覚のための新しいやり方指南

その助けを 自分から 求めてみてね

 

覚悟できたら サポート役の人に

いつでも 助けを求めてね

自分を助けるために 他者からのサポートを受け取りたい と

そういう意味で 助けてほしいと 打ち明けてね

 

覚悟するだけだよ

だれかどこかの相手と 闘うのでなく

自分とも 闘うわけではなく

自分を 深く知る練習をしてみるのだと

 

そしてそこから 新しいやり方で

自分が この状態を やめるのだと

自分が この状況を 変えていいのだと

 

覚悟を決めて ジャッジなしで 自分を知ってみるだけ

それだけで いいの

それだけで 死ななくても 

そこからは 逃げ出せるよ

 

2015_09_28

Photo by Antranias
Pixabay

 

自分の「奥の意図」に意識を向ける練習

聖人君子になれ、という意味ではない、

そこは最初に明言してから、今日の記事を書きます。

 

まず、前にご紹介したこの記事をもう一度、読んでみてほしい。

Facebookですが、ログインしなくても読めます。

相手が「何を思って」そのひどい言動をしているか、

推測をしている部分に、しっかり注目してね。

 

◎古宮 昇さん

 

心理療法家であれば、ここで「相手に寄り添う」わけだけれど、

ふだんの暮らしのなかで「ひどい言動をする人」の心の中身を

ここまでたくさん、推測する必要はまあ、まず、ないよね。

 

ただ、相手が「何を思って」その、あなたにとって

「ひどい」と感じられる言動をしているのか。

その相手の意図は、あなたの「想像外のところ」という可能性だって、

あるわけで。そう、心屋さんもよく、

「なぜこんなに」という質問に対して

「知らんがな」っておっしゃいますが、まさにそれ。

知っているのは本人だけ、というか、

ここで挙がっている例では、本人だって、

その意図に気づいていない可能性がある。

 

それをあなたが「なぜこんな」って、どんなに考えたって、

正確にその意図をつかむのは、難しいでしょう?

どうしてもその意図を探したい場合、その目的は

「相手のことを正す」ために、ってことも多いはず。

 

じゃあなぜ、相手のそれを私は「正したいのか?」

自問自答してみて。答え、すぐに見つかるかな?

 

たとえば私のほうが正しいのよ! って叫びたいために、

相手の意図を探ってない?

これもまた、詳しく正確に言えば

「私のほうが正しいってことを、理解しなさいよ」であり

つまりは「私の言うことが間違ってないと、

私が良いと、誰か認めて!」でもある。

あ、責めてないよ、可能性としてありうる、っていう意味ね。

 

誰か(相手)に、実はそんなことを叫んでしまっているのかもしれない。

相手は相手の問題でいっぱいいっぱいで、だからこそ

こちらに「ひどい」と感じさせるような言動をしてくる。そのとき

あなたはそれに対して「私が良いって認めてよ!」という要求をかぶせる。

 

ずれてるよね? これ。お互いの意図が。

「ずれ」ているってことは、わかるよね?

そんな「斜め上からの、あなた側の要求」をそこにかぶせても、

相手に通じないこと、結構、ありそうだよね?

 

あなたが「自分は間違っていない!」と言うとき、

あなたは「私はこのように感じる人間なんだ」ってことを、

認識しているでしょう?

じゃあ、それでいいじゃない。

堂々と胸張って、そう感じる自分を、

自分がいちばん先に

それでいい

って認めてあげれば。

 

なぜ、誰かに「承認」させないと、気が済まないのかな。

そのために相手側の問題を使ってるんだよね?

だったら、こちらのことを認めてもらうためにも、

ちゃんと、相手の気持ちの「元にあるもの」に対しても、

寄り添う覚悟は自分に必要になってくるよね。

 

「ずれ」を修正していく必要、あるもの。

もちろん「自分のことをよいと認めてほしい」と感じている、

その自分の内側にも、きちんと目を向けつつね。

 

実際、そこまでするのって、本当に自分自身の覚悟がいるし、

感情をかぶせないって、かなり、たいへんなことなんだよ。

そもそもその寄り添いも、相手側が望んでいなければできないし。

だからこそカウンセラーという職業が成り立つほど、覚悟が必要。

 

そういうことは面倒だからと全部、吹っ飛ばして、

イヤなことをする相手へ「自分を認めさせる」ってことに

あなたが固執すればするほど、ずれが大きくなったりして、

あなたがさらに、イヤな思いをするわけでしょう?

 

自分で「これでよい」って思い定められないの、なぜだろうね?

相手から、あるいはせめて別の人に承認をもらわないと、

自分が落ち着けないのはなぜだろうね?

それこそ、何を要求してるんだって話。

 

このときにさ。

『自分が自分のこと、整理したい』から、

自分が、自分を「これでよい」と確信したいから、

「吐かせてほしい」って他の誰かに頼むのであれば。

それはね、

『愚痴をきっかけにした、自分の気持ちの発見ツール』

に変えられるよ。すごくいいきっかけにできると思える。

 

でも、そうではなくて「あの相手が認めてくれない」から

代わりに他の人に「良いと認めてもらい、ほめてもらいたい」であれば

その訴えられる他の人のほうにも、ときと場合によっては

「え? 自分のことしか考えないの?」って

受け止められてしまう可能性もあるよ。

 

自分が自分の感覚を「よい」と思っていいこと、

でもそれは「他者の承認」が必要なことでもなく

ましてや誰かに「認めてよ」って訴えなくてもよいってこと。

 

そこを練習してみるのって、すごく大切だと思う。

練習していけば、この先、

誰かから「その人自身の問題」を

あなたのほうに投げかけられてきても

そんなの、知らんがな

って言えるようになる。

そして自分は相手からの要求(怒りはかなりの確率で「要求」だ)、

引きずらなくて済むようになるからラクだよ。

 

これは傍から見れば「自信」とも映るかもしれないけれど、

実は、人と自分は「違う」んだってことを、自分が認識する練習。

それでいいのだと、知っていく練習。

違っていて当然だよね、別の人間だから。

苦しさから離れたいからこそ、冷静になる、ってことでもある。

 

誰かを正すとか、認めてって叫ぶ前に、

自分のその奥の意図を見つけて、なぜそうなるのかを見つけて、

そこを解放してあげようよ。

そういうツールとして、その苦しさを使えるよ。

自分の『奥にあるもの』を探す覚悟は確かに必要だけれど、

苦しいときってある意味、「すごくいいチャンス」だと、私には思えるよ。

 

2015_09_26

Photo by mksn
Pixabay

 

「心地よさ探し」という遊び

面倒くさいことを

「面倒、面倒、面倒」と呪文のように唱えながらやるのと

「この部分は面白いからそこだけでも味わおう」って思いながらやるのとでは

自分の打ち込み具合が変わってくるよね。

 

私は、鬱を過ぎた以降、自分の「気持ち次第」で、文字通り

すべてが変わる

ということを経験をしたから、

何かをするときには極力、その、やることの面白い部分を

「味わおう」って、意識するようになった。

 

どんな小さいことでも一つひとつ、

「どうやったら心地よくなれる?」「楽しくなれる?」を

探しながらやるの。時間もあまり、意識しない。

でもって、手を抜くところは抜く。

 

低血圧になったら、朝、どうしてものんびり過ごしたくなったから、

コーヒーを飲む時間は必ず一定程度、確保する。

ええ、仕事がある日に結構、遅起きしてしまったときでもね(笑)

その代わり、そういうときは化粧で手を抜く「覚悟」をして、

化粧は昼休みの時間を狙うとか、割り切る。

 

それこそね、洗濯物の干し方まで変わったよ。

楽しめる干し方、と言ったらなんだけれど、

心地よくなる順番、干す位置、並べ方。 

どれをどうやって、どの順で干すのが

「今日はいいかな?」みたいな感じ。

そのために一定の時間は確保するようにしよう、とか。

 

休日も平日も、無駄に焦らない。

眠ければ寝る。起きていたければ起きている。

食べたければ食べる。食べたくなければ食べずに寝る(笑)

休日のお出かけ予定でも、自分一人の場合なら

その日の気分で簡単にキャンセルする。

そういう意味では「気まぐれ」を明確に、自分に対して許した。

 

こうなってくるともちろん友達との約束でも、

鬱前にはほとんどしたことのなかった「遅刻」をすることはある。

で、そのときは、真剣な気持ちで謝る。

きちんとした意識で真摯に謝るけれど、自分のことは責めない。

そういうときもある、ということを、自分で認める。

 

楽しむ、ということ、その中身の『基準』を

「刺激」でなく「心地よさ」にした、とも言えるかな。

それを意識し始めたら、生活全般、力まなくなった。

今まで無駄に力んでいたことも「やめてから」気づけた。

 

これって、私が年を取ったからか?(笑)と最初は思っていたのだが、

いやいや、今までが穏やかじゃ「なさ過ぎた」んだわ、と。

「穏やかさ」なんて自分には想像の範疇外だったのよ、たぶんね。

 

たとえば仕事も、キリッと、とか、キビキビ、などを意識しすぎて、

なんだか毎朝「戦いに行ってくる」ような感じ。

まあ、私は高評価をバリバリに求めていた生き方だったから、

よけいにそうなっていたんだと思うけど。

 

今のゆるやかさ、穏やかさって、自分が

「こうやったら楽しいわ♪」

「これは今、集中して片付ける、ということを楽しもうっと」

などと探し始めてから、身についたもの。

で、そういうことを本気で意識し始めたら、

何をやってても、全部そこそこ、楽しめるの。

 

狙った「遊び」を、ちょいちょいやるような感覚?

仕事では、それによって時間はスルスル流れて、

自分はほぼ、楽しくて穏やか。

なので、かのお姉さんのことを

観察しようなんて意欲も持たずに済む。

別に、彼女がどこでどうやって、それこそ何をしようと、

私は私で、好きなようにやっていればいいんだもの。

いちいち引っかかって「あげる」、

気分を害する方向でつきあって「あげる」、

さらには引きずって相手のことを気にして「あげる」必要なんて、一切ない。

 

こうしたやり方を、私はやっと自分に「許可」したんだな、と思う。

身体を張って何かを『獲り』に行くような感じでない、やり方。

 

でね、面白いことにこれ、

「後から」新たな評価も、戻って来始めたのだ。

基本、自分がずっと微笑できる、ニコニコしていられるでしょう?

ゴミ袋ひとつ縛っていても、普通に笑顔が出るからさ。

あら、ぷっくら膨らんだ、カワエエ(*^_^*)

とか思って、そういうのを探してにっこりやってるから。

 

今の会社で、周りの複数の人から「いつもなんだか笑顔で、

なんかいい感じの雰囲気よね」

「優しくて柔らかい印象」と言われて

「ええええええええっ!?」となりました。

そういうことは一切、意識していなかったのでびっくりした。

 

だって基本、私はオッサン脳で、はっきりものを言う、勝ち気系。

かの「お姉さん」に対してさえ、吹き出すようなキャラなんだもの。

それこそそんなこと、初めて言われましたさ。

 

しかもそもそも私ね、見た目も勝ち気そうで、はっきりしている印象を

持ってるのだよ。昔なんぞ、赤色が似合いすぎてて(笑)、

「赤い服を着ていたら、100m先からでも木元だとわかる」と

先輩方に言われていたような感じ。

まあ、原色とか今でも着られるしさ、実際。

 

柔らかい、とか思ってもらえるようになったのは、明らかに

「自分が楽しめそうな部分を絶対、探すぜ♪」と決めて、

一人で勝手に楽しみ始めたからだと思う。

 

こういう今の私みたいなやり方って、どう感じる? ダメかな?

眠っている布団の肌触りや色合いまで「心地よさ」を

求めてみたりするの、面白いよ?

ガーゼタオルとか、その日の気分で敷いたり。

 

お出かけして渋滞にはまったら、こりゃもう仕方ない、

ならばいっそ、車内カラオケしよう! とか。

 

電車が止まったら「あ、ならばこの本を、じっくり読めってことだな」とか。

 

道を歩いているとき風が強ければ、

葉裏がはっきり見える街路樹の「いつもと違う姿」を

「おおっ」と思いながら鑑賞するとか。

 

その気になって探し出したら「おお」「あら」「これはっ!」

が案外たくさん、見つかります。

同じ仕事をしていても、違う部分を味わえる。

 

ねえ、どうせそれを「やらなければいけない」とか

そこで「時間を過ごさなければいけない」のであれば、

自分が自分に意識させて、その「とき」の何かを、味わってみようよ。

その許可を、自分に出そうよ。

 

どんなに暗い気持ちのときでも、

そういう許可は、自分に出してあげていいんだよ。

心地よさそうなものをほんのちょっとでも味わう、というほうへ、

自分が切り替える練習を、してみてね。

 

それこそ、ぼーっとするのも、「悪」ではないからさ。

何かを「悪」だと捉えることを『やっている』のも、常に自分、なのだ。

 

P.S.

ゆえに今回のブログデザインなぞ、

私の「今までの印象」とは真逆方向です、きっと。

単にそういう気分で、そういうのが楽しかったからこうなっただけで、

身内が見たら「どうした、見春!?」って思うかもしれない(笑)

そのうち、気が向いたら感想を聞いてみよう(≧▽≦)

 

Photo by nidan
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