聖人君子になれ、という意味ではない、
そこは最初に明言してから、今日の記事を書きます。
まず、前にご紹介したこの記事をもう一度、読んでみてほしい。
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相手が「何を思って」そのひどい言動をしているか、
推測をしている部分に、しっかり注目してね。
◎古宮 昇さん
心理療法家であれば、ここで「相手に寄り添う」わけだけれど、
ふだんの暮らしのなかで「ひどい言動をする人」の心の中身を
ここまでたくさん、推測する必要はまあ、まず、ないよね。
ただ、相手が「何を思って」その、あなたにとって
「ひどい」と感じられる言動をしているのか。
その相手の意図は、あなたの「想像外のところ」という可能性だって、
あるわけで。そう、心屋さんもよく、
「なぜこんなに」という質問に対して
「知らんがな」っておっしゃいますが、まさにそれ。
知っているのは本人だけ、というか、
ここで挙がっている例では、本人だって、
その意図に気づいていない可能性がある。
それをあなたが「なぜこんな」って、どんなに考えたって、
正確にその意図をつかむのは、難しいでしょう?
どうしてもその意図を探したい場合、その目的は
「相手のことを正す」ために、ってことも多いはず。
じゃあなぜ、相手のそれを私は「正したいのか?」
自問自答してみて。答え、すぐに見つかるかな?
たとえば私のほうが正しいのよ! って叫びたいために、
相手の意図を探ってない?
これもまた、詳しく正確に言えば
「私のほうが正しいってことを、理解しなさいよ」であり
つまりは「私の言うことが間違ってないと、
私が良いと、誰か認めて!」でもある。
あ、責めてないよ、可能性としてありうる、っていう意味ね。
誰か(相手)に、実はそんなことを叫んでしまっているのかもしれない。
相手は相手の問題でいっぱいいっぱいで、だからこそ
こちらに「ひどい」と感じさせるような言動をしてくる。そのとき
あなたはそれに対して「私が良いって認めてよ!」という要求をかぶせる。
ずれてるよね? これ。お互いの意図が。
「ずれ」ているってことは、わかるよね?
そんな「斜め上からの、あなた側の要求」をそこにかぶせても、
相手に通じないこと、結構、ありそうだよね?
あなたが「自分は間違っていない!」と言うとき、
あなたは「私はこのように感じる人間なんだ」ってことを、
認識しているでしょう?
じゃあ、それでいいじゃない。
堂々と胸張って、そう感じる自分を、
自分がいちばん先に
それでいい
って認めてあげれば。
なぜ、誰かに「承認」させないと、気が済まないのかな。
そのために相手側の問題を使ってるんだよね?
だったら、こちらのことを認めてもらうためにも、
ちゃんと、相手の気持ちの「元にあるもの」に対しても、
寄り添う覚悟は自分に必要になってくるよね。
「ずれ」を修正していく必要、あるもの。
もちろん「自分のことをよいと認めてほしい」と感じている、
その自分の内側にも、きちんと目を向けつつね。
実際、そこまでするのって、本当に自分自身の覚悟がいるし、
感情をかぶせないって、かなり、たいへんなことなんだよ。
そもそもその寄り添いも、相手側が望んでいなければできないし。
だからこそカウンセラーという職業が成り立つほど、覚悟が必要。
そういうことは面倒だからと全部、吹っ飛ばして、
イヤなことをする相手へ「自分を認めさせる」ってことに
あなたが固執すればするほど、ずれが大きくなったりして、
あなたがさらに、イヤな思いをするわけでしょう?
自分で「これでよい」って思い定められないの、なぜだろうね?
相手から、あるいはせめて別の人に承認をもらわないと、
自分が落ち着けないのはなぜだろうね?
それこそ、何を要求してるんだって話。
このときにさ。
『自分が自分のこと、整理したい』から、
自分が、自分を「これでよい」と確信したいから、
「吐かせてほしい」って他の誰かに頼むのであれば。
それはね、
『愚痴をきっかけにした、自分の気持ちの発見ツール』
に変えられるよ。すごくいいきっかけにできると思える。
でも、そうではなくて「あの相手が認めてくれない」から
代わりに他の人に「良いと認めてもらい、ほめてもらいたい」であれば
その訴えられる他の人のほうにも、ときと場合によっては
「え? 自分のことしか考えないの?」って
受け止められてしまう可能性もあるよ。
自分が自分の感覚を「よい」と思っていいこと、
でもそれは「他者の承認」が必要なことでもなく
ましてや誰かに「認めてよ」って訴えなくてもよいってこと。
そこを練習してみるのって、すごく大切だと思う。
練習していけば、この先、
誰かから「その人自身の問題」を
あなたのほうに投げかけられてきても
そんなの、知らんがな
って言えるようになる。
そして自分は相手からの要求(怒りはかなりの確率で「要求」だ)、
引きずらなくて済むようになるからラクだよ。
これは傍から見れば「自信」とも映るかもしれないけれど、
実は、人と自分は「違う」んだってことを、自分が認識する練習。
それでいいのだと、知っていく練習。
違っていて当然だよね、別の人間だから。
苦しさから離れたいからこそ、冷静になる、ってことでもある。
誰かを正すとか、認めてって叫ぶ前に、
自分のその奥の意図を見つけて、なぜそうなるのかを見つけて、
そこを解放してあげようよ。
そういうツールとして、その苦しさを使えるよ。
自分の『奥にあるもの』を探す覚悟は確かに必要だけれど、
苦しいときってある意味、「すごくいいチャンス」だと、私には思えるよ。
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