カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

意地悪、するつもりは全然ないのよ……

さて、久しぶりにお姉さんネタです。

 

とはいえ私も、

以前のようなモヤモヤはなく、もはやほぼ完璧に、

スルー領域に入っていたのであります。

 

で、とくに観察もせずにいたのですが、

今日たまたま、ウチの部署の男性社員さんが外から電話されてきて、

それを受けたのが最初、お姉さんで。

 

「お疲れさまですー☆

はい、はい、それは木元さんの担当になるので、

ちょっとお待ちくださいね♪ラブラブ!コスモス」と、

チョーかわいいラブラブ声で対応して電話を保留にした直後。

 

あら、誰? と思って振り向きかけた私(お姉さんは真後ろの席)に向かって、

お姉さん、まともにこちらへ振り向きもせずに

爆弾木元さん、○○さんから電話です、保留1番むっ

と言ったその声が、チョー憮然ドクロパンチ!としていてさ!

 

うっかりまともに、その声の落差攻撃をくらってしまった私、

爆笑しそうになって、慌てて明るく電話を取ったのだが……。

あれはね、うん、ばれたよね。

私が吹き出しかけたことは、たぶんハッキリと!(^0^;)

 

ゴメン、スルーできなくて、今日は笑ってしまったヾ(≧∇≦)

意地悪するつもりはなかったのだよー。

でもその豹変、真後ろからまともに聞こえてしまったのよー(^0^;)

 

てなことで、またきっと、お姉さんはプンプンされていたであろう。

席が近いと、スルーするのもときどき困難になるのよね……。

 

いや本当、スルー技術、まだ不足しててゴメンなさい。

彼女がそういう乙女だと知っているのにうっかり笑えてしまうのは、

きっと私がオッサン脳だからだろうなあ(笑)

練習、積まねばね。まあ個人的には今日、楽しめたけど(爆)

 

しかしやっぱりというか、今どきまだこのタイプがいるとはね。

いやあ、マジで面白すぎる……!(≧∇≦) ←だからそれがオッサン脳だと

 

2015_07_03

Photo by Alexas_Fotos
Pixabay

 

暗闇に持ち込む「光」

私が初めて自分の鬱のことを

ある程度詳しく、

しかも全く知らないと言える人たちに

向けて話すことになったとき。

 

その直前まで、本当に1秒前までは、

こんな話をするのは迷惑をかけるだけなんだけどな、と思っていた。

 

ちょうど2人めの知人の死を知った数日後で、

私は休職中で。

その集まりは『直観力を養う』ことがテーマで、

それゆえに、1週間で気づいたこと、起こったことを、

参加者がそれぞれ、明かすための時間があったのだ。

 

最近の自分、というシェアリング(自分の思いや出来事を

単数、または複数の他者に打ち明ける)。

その主催者の方のことは信頼できていたけれど、

集まった方に対して、あまりに直近すぎる、

自分の身の回りの死をも含めての出来事を説明するのは、

さすがに迷惑だろうと思った。

 

でも主催者の人は、だいじょうぶだから話をして、と言ってくれた。

 

その言葉だけを信じて、本当に迷惑かけるのにな、と思って、

ドキドキしながら、ゴメンなさいと思いながら、語った。

 

そのとき必要なのは、自分の勇気だけ、だった。

 

そして当時は、他にも、抱えていた自分の闇があり、

そのことも話すように「仕向けられた」感じがしたので、

その感覚が本当かどうかわからないけれど、

もうなんか、何でもいいや、と思い、全部、打ち明けた。

 

途中から泣きながら、10分くらいは話したと思う。

泣きまくりながらも、言葉は、止まらなかった。

涙も言葉も、洪水みたいに湧いて出た。

 

そうしたら。

その場にいる全員が、私の痛みの言葉のどこかの部分を、

自分の痛みの経験と重ねて聞いてくれて、そのまま受け止めてくれた。

その場の雰囲気、空気が私にとって、ものすごく暖かいものとなり、

それがこちらに流れ込んで来た。

主催者の方以外、誰も知り合いではなかったのに、

皆が「共感」を示して、私を迎えてくれたような状態。

 

生まれて初めて「見知らぬとか、

そういうことは何も問題ではない」他者の

思いやりを全身で受け止められたような感覚。

 

主催者の方の、感想。他の方たちの、短い感想。

温かい気持ち一色の、空気感。

 

思いはね、エネルギーにもなり得るの。

それはね、あのとき、本当だった。

 

驚いたし、うれしかった。

明かしたことによるグッタリ感はあったけれど、

温かい、ものすごいもの、を受け取れた感じ。

湯あたりした温泉のあと、みたいな感覚だった。

 

安全な場所を見つけて、打ち明ける。

つまり自分の暗闇を、明かしてみること。

それは、暗闇の中でさまよって、ただひたすら、

むやみやたらに手を振り回して

その暗闇を追い払おうとするのではなく、

単純に、そこに勇気という『光』を持ち込んで、

自分の「恥とも言える暗闇に光を当てて見てみる」ことだった。

 

暗闇は、追い出したりしようとあがくことでは消えない。

そこに光を持ち込むだけで、暗闇は暗闇でなくなる。

 

この表現を、私は最近、ある本で読んで、

唐突に、あの明かしたときのことを思い出したのだ。

 

本当に、そうでした。

何かが、変わり始めた……。

 

だから、そういう使い方としてのカウンセリングを、

私は、おすすめしたい。

別に複数に対するシェアリングでなくてもいいから。

 

この状態がもう本当にイヤだから、先は見えていないけれど、

この暗闇を何とかしたいから、他者に打ち明ける、ということ。

 

くれぐれも『何かを得る』ためでなく、

自分の暗闇を明かすために『他者のところで勇気という光』を持ち込む。

そうするつもりで、それを自分ができそうな場所を、

ネットなどで探してみてください。

そしてこの人なら、という人のところへ出かけて、

どうか、いつか、打ち明けてみてください。

 

そのカウンセラーさんが有名か無名かは、どうだっていいのです。

あなたの『感覚』に合うと思える人のところで、

打ち明けてみてください。

 

自分の恥ずかしさと情けなさ、

自分の闇の過去、を。

 

今日は急に、そういうことを打ち明けてみたいと思えたので、

このようなブログ記事にさせていただきます。

 

必要なのは、たったひとつ。

自分を明かす勇気、です。

 

暗闇が強ければ強いほど、

明かす勇気、という光は、

あなたに機会を作ってくれます。

大きな気づき、という、機会をね。

 

どうかいつか、あなたが必要とする方の元へ、

あなた自身から、たどり着けますように。

 

2015_07_02

Photo by Jaxy
Pixabay

 

そうであると「知るだけ」の練習

前の記事では、自分が、

何らかの思い込みから発生する感情に振り回されていることに、

どう気づいていけるか、ということを書きたかった。

 

で、振り回されていることに気づいていけた場合、

次は、そういう自分なんだな、と『認識する』練習をしてみることで、

変わり始めるものがあることを、書いてみたい。

 

だがこれは、感覚的なことなので、表現するのが難しい……。

そして物事をどう捉えるかは、もちろん、

その人自身が決めていいことなのだけれどね。

でもあえて、書いてみる。

 

まず、気づいたことに対して、すぐに

良いだの

悪いだの

というジャッジをする癖がある人は、

それをやめてみる。

 

逆に、気づいたことを、すぐに忘れる傾向にある人は、

メモに残すなどして、それをときどき、読み返してみる。

そういう工夫をすることで、気づいたことから始まる『次』があることを、

体感してみてほしい。

 

すぐにジャッジしたがる人は(私もその傾向がかなりあった)、

「そのとき」の思考で物事を判断しがち。

その瞬間に、自分が「まだ」見えてないこと、

思い出せていないこともある。

ふだんはそうでないのに、怒りから、悲しみから、

見落としてしまうものもある。

なのに見えてないまま、そこで「即断」したら、

結論は狭まった、偏ったものにもなりかねない、

ということを「あらかじめ知っておく」。

 

直感で、スコーン! と腑に落ちるものとは違い、

頭でジャッジするものは、過去の経験が、そのときの判断について

かなり「邪魔をする」可能性もあることに、

留意しておかないとな……と思うのだ。

 

そもそも、そのときの自分が捉えている世界たけが『すべて』ではない。

それはある種の謙虚さにも通じることで、

だからその瞬間の良い悪い、だけを的確な判断だと信じ込む、

それをやめる練習をしていく感じ……だと、思ってもらえたら、幸いだ。

 

逆に、自分が感じたことを忘れがちな人は、

とくに自分が「イヤなこと」については、

見ないようにする癖があるのかも。

 

見なければ消えるのか?

というと、結構、これが消えないこともあり……。

そして見ないようにすることで、

逆に繰り返し味わう羽目にもなり、

そのたびにモヤモヤしてしまうようにも思える。

 

だから、繰り返し味わうときは、なぜそれがイヤなのか、というところまで

落ち着いて踏み込んでいってみる。

そして「なぜ」の部分で思い当たる理由が見つかったら、

そのあと、さらに

本当にそれしかないのか?

というところにも、触れてみる。

 

こうすることで、その自分の「イヤ」という気持ちの奥に隠れていることにも、

徐々に目が向けられたりするのだ。

 

そして「それをしたあと」で、双方に共通して言えることだけれど、さらに!

そういう自分であることを、そのまま「そうなんだな、私って」と

淡々と思ってみる……という練習を

してみていいのじゃないかな、と思う。

 

罵倒しちゃいたい自分、とか

忘れがちな自分、とか、

そのこと自体を「そうなんだな」と。

 

もちろん、とくに最初のうちは、

感覚的にモヤモヤします、これまたね。

納得できない感じ。不満が残るような感じ。

でもそれをまた否定したら、元のモクアミなの。

そのモヤモヤを持っている自分、という状態を、

そうなんだ、と、事実として認めてみる。

ただ単に『今のところ、そういう自分なんだな』と認識する「だけ」ね。

 

そういうふうに、フラット、平坦、淡々としてみること、も、

意外に、練習できるのですよ。

で、やってみたらわかるのだけれど、

練習する以前の自分って、

逃げてたな、とか、逆に偏りすぎてたな、と

「勝手に」感じられるようになるの。

 

これは、やってみないと感じられないことだから、

練習、本当に、してみてほしい。

 

あなたの今の「良い悪い」、

あなたの今の「おびえ」、

そこに注目し過ぎるのでもなく、

逃げ出すのでもない、ただの自分の観察。

 

モヤモヤ、鬱々とする自分がいることを、

遠くから見るような感覚が掴めれば、

それはやがて、感情に振り回されない練習にも、つながる。

感情に振り回されないでいられると、

どうなるか……それは、

あなた自身が、体感してみてください。

 

冷めろ、とかいう話でもない。熱いときもあっていいし、暗いときもあっていい。

そして見つめる練習をするときも、あっていいのだということ、だけ。

見つめる、今のことを知る、という練習。

熱もない代わりに、冷たさもない状態。

ヤカンでも氷河でもない自分、という感覚。

抽象的で申し訳なく思うけれど、

そういう状態が自分に何を「もたらすか」にも、理屈でない形で

少しずつ、気づいていってもらえたらと願います。

 

2015_07_01

Photo by cameralends
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