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何にダメ出ししているか

先日、「不足している」等の、自分でダメだと思っている、

その根っこのところの気持ちを見つめてみて、と書いた。

 

なぜそう書いたかというと、

自分がふだん行っている判断って、

ある種の習慣レベルになっている可能性があるからだ。

 

しかもその習慣は、過去の記憶から来ているもの。

誰かに教えられたり、誰かとの間で起こった出来事によって、

ときには強制的に、ときには『たまたま相手がそういう考え方の持ち主だったから』

起こった状況だったかもしれない。

 

で、その、自分の中に持った法則みたいなものを、

自分が「似ている」と思った状況に当てはめて、

もしかしたらほんの一部しか似ていないのに、

また一緒だ! とひとまとめにしちゃう「クセ」みたいなものが

出来上がっているかもしれない。

 

もし、その「クセ」であったとしたら、

これがまた、意外にやっかいモノでさ。

一度、犬に噛まれたら、出会う犬がすべて自分を噛みそうに思える、

そういう思い込みをも、作るのである。

 

普通に考えたら、そんなことはあり得ないとわかるはずなのに、

「あ、犬だ、噛まれたな、怖い」という発想を、例えば3年間くらい、

小さな子どもの頃に毎日、隣の家の犬を見たときにやってごらんよ。

それだけでもう約1000回、自分に対し、噛まれたときの思い出を

自主的に繰り返して、記憶させてるってことになる。

 

しかも子どもであれば、それ以外の可能性云々、と、

深くまで考え直す練習もなかなかできないし、

そりゃあ、犬=怖いにもなるよね。

 

でね、そうやって思い込んだ場合、その後は

「出会ったすべての犬に噛まれることはない」という明らかな事実さえ、

もう見なくなってしまう。別の犬との出会いでも、

犬だ! はい、私は怖い。

梅干しを見たら唾液が出る、みたいに、思考の真ん中の段階を、

自分がすっ飛ばして短絡的に反応する。

 

だからね、あなたのその『○○はダメ』という思いも、

わざわざ過去から今まで、自分に繰り返し刷り込んで、

梅干し=唾液、犬=怖い、みたいな「クセ」に

変化させちゃってませんか? と尋ねているのだ。

 

その当時は、おかしいということさえ、言えない状況だった可能性だってある。

例えばものすごく頭が(お勉強、の面で)優秀な一族がいるとするでしょ。

その場合、その家に生まれたというだけで、

あなたは立派な学歴を持つことを当たり前のこととして、

子どもの頃から刷り込まれるかもしれない。

すると勉強以外、という選択肢を、たまたま選ぼうとしても、

親に理解がない限り、よその家庭よりずっと、選択は難しくなるのだ。

 

私は高校で、頭が良い人たちと一緒になったけれど、

友達の中には、上のお兄さん2人は東大と京大に行ったから、

それ以下のところを選ぶのは本当は許されないんだよね、と悩んでいる人もいた。

あとは将来、医者か弁護士以外は許されない、とか。

そんなの、どっちもものすごく記憶力が必要な職業で、

その本人が向いているかどうか、わからないのにね。

 

ま、そんなふうに、自分が自分に刷り込むだけでなく、育った環境によっても

『○○はダメ』の条件や内容は変わり、あなたもそれを当たり前にして、

梅干し=唾液にしている可能性がある、と。

 

だから改めて、尋ねてみたいと思えた。

何を『ダメ』と思っているのか、なぜそれが『ダメ』なのか。

苦しんでいるなら、その部分をいったん、解きほぐしてみてほしいのだ。

 

もちろん、すぐには解きほぐせないことだってあり得る。

たとえば身内から幼いうちに刷り込まれていた場合、

それが犬や勉強みたいなものなら、基準としてのズレはまだ、見つけやすいけれど。

人としてこうあるべき、みたいな価値判断などは

自分で、人としてやってはダメなはずと『知ってる』つもり、

だから何がどう苦しいのか説明できない、

他の家族は何とも感じてないのに、どうして自分だけがそこに違和感を持つのか?

そんなふうに途中でいろいろわからなくなる可能性もある。

 

そのときこそ、他者の助けを借りてみればいい。

説明を読んで「惹かれるな」と思えたカウンセラーのところへ行ってみるとか、

そのテーマで本を探して読んでみるとか、さ。

 

ただしその際にも、自分で、内面のそうしたクセ、短絡的習慣に対し

『本気で意識を向けて解きほぐそうとしているかどうか』が、

結果にとても大きな違いを生むと思えるよ。

 

助けをお願いしたい他人に全部丸投げして、

「お任せするので私の内面、解きほぐしちゃってくださいよ、

お金払うんだから!」と、上から目線で命令したら、

あるいは逆に、下から目線で「すがって」しまったら、

いい結果は生まれないかもしれない。

 

魔法使いはいない。

いるとしたら、それは唯一、まさにあなた自身だけなのだ。

 

あなたの内側で、あなたが何を感じているか、を言葉にできるのは

(それが解答のない疑問であっても)あなたしかいない。

他者は、それを表面に出す手伝い、サポートしかできないんだよ。

 

しかも、サポートは受けても、内容を受け入れるかどうかを決めるのは、

常にあなた個人。自分で感じて選んで、自分が決めていい。

今の自分に合うか合わないかを感じられるのも、本人しかいないからだ。

 

逆に「必ず○○にしてみせます、私を頼りなさい」という感じで

偉そうに自慢する人は、その人自身が

あなたを「ネギしょった鴨」として求めているか、

自分の名声を、成功体験率を、高めてよ! と、あなたに求めている。

それこそ貴重なお金と時間を払って、求められるものを

自分からバキュームされる必要もないのだ。

 

まあ、需要と供給だから、自分がバキュームされることでまた、

自分の存在意義を見出すというクライアントさんも確かにいて、

それで成り立ってる世界もあるんだけどね……。

今の問題が解決する代わりに、誰かとの依存関係という別の問題を、

普通は背負いたくないでしょう? 

 

なので他者はサポートする役割であって、

解決するのは自分だ、と、自身で必ず『決めて』おいてほしい。

それすら、自分でやるのが面倒なら、そのままでもいいよ、まだ今は。

受け取るのにちょうどいい時期もあるからさ、

ヘンに立派になろうとしての無理、なら、しなくてもいい。

 

もし、あなたが、解きほぐす作業をやってみたいなら。

何がおかしい、ダメと感じるか、のリストを自分で作る

→次に、なぜそれがダメだと思っているか、を言葉にして書き加えてみる

くらいまでをまず、自分で整理してみることをおススメする。

 

さらには、いつからそう思ったかをペンの色を変えて書き加えたり、

苦しすぎない範囲で、そのときの出来事を、改めて言葉で表現したり。

 

要は、頭の中でぐるぐるさせてたものを、

いったん、紙(画面)の上に取り出してみるのだ。

なのでそんなに難しく考える必要はない。

 

書いてみたら、新たな違和感や、どこからずれ始めたか、などにも、

自分で気づいていけるかもしれないし、

もっと前の記憶も、取り出せるかもしれないよ。

 

問題が多いと思うなら、気になる順にする、

あるいは一番、苦しいものからまずは3つ以内。

完璧に全部取り出そうとしても、慣れていないうちは難しいかも。

 

で、取り出したものを、画面なら印刷してから、

「もし、近い存在の、仲のいい他人がこうだったら」

という視点で、眺め直してみよう。

 

そのときから、ちょっとした変化が始まると思うよ。

頭の中でやってる、捉えてることって、意外に輪郭があいまいで、あやふや。

だから形にすることで、自分がすっ飛ばしていた途中の思考にも、

気づいていけるかもしれない。

 

今までにも何度か伝えてきた手法だけれど、

本当に、箇条書きでいいの。

まずは眺めるために、自分が並べてみる、という意識を持つことが

実は、あとで大きな意味を持つことになるから。

 

あなたにその準備が出来たときに、ぜひ

本気で、でも少しずつでいいから、やってみてほしい。

 

2015_02_08

Photo by Pixabay

 

動きすぎても、動けなくても……

動く、動かない。

動いたのに、うまくいかない。

動きたいのに、動けない。

上手にできなくて自分を責める人は、その部分の視点自体を、

まるまる変えていいことを知ってみるのも、ひとつの方法だと思う。

 

やる、やれない、その視点に強くこだわり過ぎる人って、

なんとかせねば

→やってみる

→うまくいかない

→ならば余計になんとかせねば

→さらに動く

→やっぱりうまくいかない

→ならばもっとやってみなければ

→やがて疲弊

→できない自分を責める

→私はいつもうまくいかない

 

あるいは

 

やれない、動けない

→やりたいとは思ってるのにいざとなると動けない

→それはきっと回りも非協力的だからだ

→回りも悪いし、タイミングも悪いんだ

→でも本当は自分が動きたいだけなのに

→やっぱり動けない

→イライラする

→自分に情けなくなる

→自分を憎みつつ、回りをも恨んだりする

→やっぱり自分は動けない

 

こういう感じで、ずっとネガティブぐるぐる、になってるんだと思える。

 

そして一見、正反対に思えるこの2つに、

共通してるんじゃないかな、と思えること、実は二つあるのよね。

 

その一つめ。

やった後に起こる結果を「あまりにも神聖視し過ぎてる」可能性はないかな。

 

何かやった、達成しただけで、万能&万全の幸福感に

自分が包まれることができるなら、すでに

人類は少なくとも2000年以上生きているのだから、

それこそ今ごろ、戦争も飢餓も、なくなってんじゃない?(^◇^;)

 

そんな魔法みたいなものは実は存在していなくて、

皆、日々、チクチクと軌道修正しながら、毎日いろいろ感じながら、

行動としては、そこそこやってみる、を意識して楽しんでいるわけで……。

 

だからさ、これこれを達成したら、自分は幸せになれるのに!

という、その強い思い込みそのものが、すでにもう

何かズレている……という視点は、持ったことあるかなってこと。

 

そして二つめ。

本当はそれをできなくては『いけないのに』というのは、

ただの価値観の一種、に過ぎない。

 

でも、その枠の中だけに自分をいつも押し込めているってことは、

イコール、他人のことも、その枠内でしか、きっと判断していない。

 

それって……実は他人に対しても自分に対しても、 めちゃくちゃ強く、

たったひとつの価値観を押し付けてるのかもよー? ってこと。

 

この場合、たとえば相手に具体的に何か言うかどうか、は関係ないの。

あなたがいつも、その枠から、世間や他人を見ている。

そして心の中で、相手の行動を批判したり、羨ましがったり、

常に常に常に、自分と、あるいはその価値観と、照らし合わせて比較してる。

ときには行いが正しいかどうか、

ときにはちゃんとしているかどうか等々、

ずっと他人のこと、自分のこと、比較して、ある意味、採点してるのよね……。

 

で、ごめんね、あえてこういう書き方してみるんだけど、

それって、あなたが『いつも必ず、自分や他人を

採点できる、という立場に、視点を置いている』ってことでもある。

 

……あなたは、そんなに上の立場の、素晴らしい人なのかな?

世の中をそんなにあれこれ採点できるほど、すごいのかな? 

普段の自分のことは、どちらかというと、真逆の存在のように感じてるよね?

 

なのにね、結果的に『心の中でやってること』は

実はとても上から目線の、傲慢な採点、傲慢な批判、なのかもしれないよ。

 

何かをするとか、しないとか。

それよりもっと前の段階で、

もっともっと、大切なことは、

自分が何を思っているのか、どんなふうに感じているか、を

客観的に、見つめ直してみることだと思える。

 

行動、というのは、確かに表面に現れるわかりやすいものだけれど、

そのもとになる気持ちや考えは、常にあなたの内側にある。

 

ってことは、あなたが、自分の内側にもっと気を配ってあげることは、

あなたの幸せを感じる、その気持ちにも影響するし、

やがては行動そのものも、変えていくんじゃない?

 

だって私たちは常に、何かを『しよう』という気持ちがあって初めて、

行動に至るのだから(階段を上がろうとするのさえ、まず気持ちが先でしょう? 

上がろうと思わないのに身体が勝手に階段を上がったこと、ある?)

 

だから何をするか以前に、気持ちの部分を見つめ直してみる、というやり方も、

今のあなたには、またとても有効なんじゃないかな。

 

それにね、何を『成した』か、以前に、

何を『為そうとした』か、のほうが

よほどあなたを変化させてくれると、私には思えるよ……。

そう、成功かどうかが、必ずしも重要なポイントではないってこと。

 

なんとかしなくちゃいけないのに、と思う、

その自分の心や気持ちのほうに、もっと注意を払ってあげてほしいと、

それこそ心の底から、私は願っています。

 

どんなつもりで、私は……?

それは遠くから見つめ直すことで、気づけること。

実際に動こうが動くまいが、今のその、

行動重視の色眼鏡をいったん外してみて、ぜひ、

自分の気持ちの部分の『奥のほう』を、

もっと知ってみてください。

 

心屋さんや武田双雲さんがおっしゃっているのは、

単なる気持ちの持ち方論でなく、そうした部分で

自分が気づける『変え方』の話なのだと、私には思えています。

 

2015_01_29

Photo by Boudewijn Berends
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注目する方向

何も変わらない まったく同じ1日なんて

絶対に 起こることはない

同じように感じる部分はあっても

あくまで『ように』であって

似ている部分をわざわざ探して

それであなたがわざわざ そう決めつけてるんだよね

 

昨日降った雨や雪は

今日降った雨や雪とは違うものなのに

また同じだ って決めつけてしまう

それってさ いつも自分が選んでるのよ……

 

あなたは記憶のすり合わせばっかりに

力を注いでいて 似たもの探しに夢中で

変わっていくところには

注意しないか

注意するときには

悪いほうに変わったと

『そのとき たまたま感じる』部分ばかりに

目線を向けていくのね

 

過去の記憶と そのなかでもとくに悪いことに 

そこまではっきり 注目していくことが できるのなら

注目する力 自体は あなたにすでに備わっているのだから

これからは それを

未来や 小さな変化や よいことや

やりたいのに まだやってないこと に 使えばいいんじゃない?

今度はそっち向きに その力 使えばいいだけだよ

 

そのためには許可が なんらかの条件達成が必要だって?

じゃあ あなたは 過去や 悪いことに注目するのに

どんな許可を必要としたの?

 

なぜ自分の卑下や悪いことには 許可や条件達成が必要でなくて

よく思うほうには それらが必要なのさ?

 

自分『なんか』が 決めちゃいけないのなら

どっちにも 何かの許可が必要なんじゃない?

 

すべては変わっていく

それだけが すべての人に必ず起こっていること

空気でさえ ずっと流れてくれているから

私たちは酸素を 毎日吸える

 

変わるのって 当たり前なの

だから起こった出来事の 悪いと思える面に

注目することだけ を 練習せず

それをどう捉えていくか も 練習すればいいのだと思えるの

 

それに加えてさ その日々の変化のなかにある

どんなに小さな『悪くない出来事』に対しても

感謝してみる練習を積んだほうが

悪い記憶や悪い感情にだけ

注目する練習を積むよりは

よほど自分を楽にすると思えるけどな……

 

たとえばさ 今日も 無事に(大きな天変地異などなく)終わり 

ここ数日間は 雨や雪で日本がちゃんと潤い

太陽の光でも暖められたりする

そうやって落ち着いて 日付が変わっていく状況そのものに

私はよかった と思い 感謝して 寝ることにするよ

そんなささいな練習からで いいのだと思うよ……

 

2015_01_28

Photo by Brynn Tweeddale
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