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なんか、こう……いろいろな意味で驚いた、の巻

すみません、意味不明のつぶやきみたいになります。

今日1日の話です。

まず朝に「おりょっ?」∑ヾ( ̄0 ̄;ノ って、驚いたことがありまして。

出だしというか、その、気づいたことの内容自体は、

別にぜんぜん、良いこと、ではなかったのですが……。

それに気づくきっかけが、ちょっとした爆笑ものだったり、

気づいたときも、そのきっかけのおかげで、いやあ、私、

でもこれ、何かに守ってもらえてるのかも(笑)と

逆にスルッと思えたり、

その後、それに対応していくための手順調べで、

まったく想定外だった、よい情報まで、いくつも拾えたり……。

私と仲のいい人が聞いたら「なんだと!?」と

怒ってくれるような内容であったはずが、

今日1日、自分にとっては、それがあったおかげで

実利的にも、内面的にも、すごい収穫となったのですよ……。

はい、ぶっちゃけ、この先の自分の仕事にも、

精神面にもかなり役立つ、という感じ。

しかもその「事前準備」的、心構えみたいな情報も、

たまたま前日の夜に私、しっかり受け取っておりまして。

その「心構え」のようなものへの、即・実践練習にもなり……。

なんていうのでしょう、出来事としてはスタート地点で

マイナス2くらいのものが(最初の自己ダメージが

「マイナス2」程度だったことにも、そもそも驚けた)、

そこからどんどん学んで受け取って、自分のなかに残ったものが

1日の終わりにはトータルでプラス8くらいになってて。

実質、10ぐらいの分、練習? 前進? できました、な印象。

もし、これがもっと昔の時期であれば

私は最初から、マイナス10くらいのダメージ……を

受けていたのかもしれませんが(まあ、どうだろう、わからないけど)

別にショックとかまでは、受け取らないで済んでる自分がいて。

へー、私、強くなってるわ、なんだか、と。

いや、強くなってるというか、

もっとほかの「自分はこうなるだろう」的予測を

自分自身でもずっと持っていたはずが、

そんなこともう、どうでもいいや、というか、

その根っこは私の問題じゃないので関係ないや、というか。

やわらかくなったのか、冷たくなったのか……(笑)

とにかく「誰か何かに仕組まれて、練習&学習を

させられたんじゃないの、これ?」的なタイミング、

または内容、情報収集のでき具合、自分の内面への気づき。

うん、表面的には結構、悪そうなことなのに、今回は多方面でかつ

すごい大量に、自分が受け取り、学べ、驚きと自信までもらえました。

ふだん、ここで書いてきたようなことを、たぶん

あらためて自分で実践・確認できたのかもって感じ。

しかもその効果にまで自分で驚けて、うれしかった。

いやあ、ある意味、これ、すごい。

よくできてるわ~。心から感謝です。

って、最後まで意味不明で申し訳ないです。

でも本当に、思わぬ収穫の1日。

準備みたいに、どちらかというと「これでいいのか、

果たして」という疑問さえ抱えつつ、

いろいろ地味に蓄積してるだけだったのですが……。

それでもそれが「見える」、

こういう日って、やってくることがあるんだなあ……。

うん、やはり、トータルとしては感謝だ。

 

誰か何かが悪い、という「部分」ではなく

『見春屋』を始める前からの話ですが、

お話を聞いて欲しい、という状況になったとき、私は必ず、

その方が「なぜそういうふうに事態を理解されたか(受け止められたか)」を

知るようにしていきます。

というのも「その苦しい状態」を抜けていくにあたっては、

自分自身が視点を変えてみることが、かなり有効であるからです。

とくに話を伺うなかで多いのは、その方自身の身の回りの、

人間関係についての苦しみ。

誰かに対する思い、のお話です。

その際、いろいろご質問させていただくのですが、

「相手側の気持ちを変えるには具体的にどうすればいいか」

だけが、解決策では決して、ないのです。

この辺、とくに最初のころは、

私が単純に「話を伺う係」であると思われていたのでしょうか、

ご質問をしたら「私が悪いっていうんですか!」と

お怒りになられる方が現れることが、何度かありました。

たとえば私が「あなたご自身はどういう気持ちであられたか」と同時に、

相手の方はどうであったか、をお尋ねするだけで。

あるいは、相手の方の非をいろいろ並べられ、

私がそれに「賛同」を示さなかった場合に(ひどいでしょう、

という言葉に私が同意せず、あなたがそう、お受け止めに

なっているのですね、という姿勢であったときなどです)。

もちろん私も、すべてにおいて冷静なわけではありません。

たとえば「相手に思い切り殴られ、恐怖ですくんでしまって」

というようなお話をお伺いすれば「それは怖かったですね」という

お言葉を返したりもします。それは

「そのとき、その状況に遭遇したときの、その方の感情」

に対する「共感」です。

それは逆に、心がけるようにしています。

でも、一緒になって「それはひどい! 相手が悪い!」という

悪口を繰り返したり、相手の方を批判・判断したり、

「まあ、なんてかわいそうなんでしょう、よしよし」

などとという慰め方はしません(どうしてもそのときにいったん、

落ち着いていただくために、それに近いやり方が必要な場合も、

もしかしたらありえるかもしれませんが、極力)。

なぜならそれは、「かわいそうごっこ」につながるからです。

あなた、かわいそうね。相手、ひどいね。

相手が悪いのよね、あなたは悪くないわ、あなたはイイ子。

だから特別に「よしよし」してあげるわね、私はあなたの味方よ。

ってやったら、それ、私はいったい、何様でしょう???

母親? 自分に依存させたい? それで自分の存在意義を見出すとか?

上から目線で、相手を「力のない、かわいそうな人」として扱うなんて。

自分自身に「母親的な力(もっと言ってしまえば威力・権力)」が

あることを確認したくて、相手の弱った部分を利用しているとしか、

私には思えません(キツくてごめんなさい)。

事態の「解決策」なんて大それた発想は、私にはできません。

話をされる方が今、まさに「苦しい」、

その状況を少しでも「やわらげるため」に、ご質問するだけです。

そしてそれは「相手を変えるにはどうしたらいいですか」

という話にも、まずほとんどの場合、つながりません。

だって私には、その「問題となっている相手側の方」のことが

わからないからです。

その方がなぜ「ひどいと思われる」ことをされたのか。

そこにどんな意図があったのか。

お二方が並んでおられ、そこで直接、私が加わって

やり取りしているのではありませんから、

片方だけのお話を伺っても、本当のところは知り得ません。

ですから「もしかしたらお相手の方は、

こういうお考えをお持ちだったかもしれませんね」

という「推測」が成り立つことがあっても、

そこから即、罵倒、非難、には、つなげられない。

つまり私は「賛同」を、基本、示しようがないわけです

(何度もお話をお伺いし、ある種のパターンが見えてきた場合に、

相手の方はきっとこういうお考えだと思うので、

だから今回新たに、その事態が起こったのでは? といった形で

推測を深めることはまれにあり得ます。が、しかし、

そこまでたどり着けることは、やはり少ないです)。

そして、あくまで、私にできるのは

「その苦しい気持ちを、どうやったらやわらげられるかの検討」です。

その際に「相手側の変え方」には言及しようがありませんから、

「あなたの受け止め方を、まず、変えてみてはいかがですか」

という話になるわけです。

事態が変わらなくても、自分の解釈・受け止め方が変われば、

自分がその時点でまず、ラクになれることもあるから。

そういう意図でしか、話しようがないのですが、

私が「あなたの」、と言っただけでもう

「私が悪いって言うの!」という怒りにも、

つながりうるわけです……。

そういう事態になったとき、たぶん、その方が求めておられるのは

「賛同者」、かわいそうごっこの「慰め役」であられるのでしょう。

そして私がそれを「拒否」して、違うところへ話を進めようとしている、

さらには「私のほうを変えろだと!? 私が間違っているとでも!?」

というほうへ、解釈されしまう。

残念ですが「そうではなくて」というご説明さえ、する暇もなく。

ご自身の気持ち、受け止め方が変われば、

それは相手の方への態度や対応にも、おのずと現れます。

これは別に、引き寄せの法則でもなんでもなく、

片方の対応が変われば、もう片方も「おや? いつもと違う」って、

たいていの場合、思うはずなんです(ご自分も、そう感じませんか?)。

そこから。

自分の受け止め方が、対応が変わることで、

意外といろいろ、変わるんです。事態・状況、そのものも。

そういうことが、起こりうる。

なぜなら人間関係は、相互作用だから。

つまり、あなたご自身で、その問題となっている事態を

「結果として変えられる」ことにもなりうるのです。

だからこそ。

私には「解決策」を提示するなんて力はありませんが、

「お気持ちを整理する」お手伝いなら、少しはお役に立てるかも、

なわけです。ゆえに「視点変換」の話を、私は書きます。

「受け止め方」の話も、書きます。

それで少なくともまず、

お気持ちがラクになっていただければ、うれしいです。

あなたはそのとき、いかがでしたか。

相手の方は、いかがでしたか。

ではそのときの、その部分のお気持ち、または受け止め方を

「こう変えてみるのは、アリですか?」というようなことを

文章で、お尋ねします。

たぶん、そういうことを、私はやっているのです。

決して、あなたが「悪い」わけではなく。

別に最近、誰かから責められたわけでもありませんが(笑)、

ふと、こういう話をしてみたくなったので、

今日、ここで、お伝えしてみます。

 

なに見て 暮らす

一つ前の記事でいただいたコメントに

何度も何度もうなってしまい、感化され書きます。

過ごしてきた人生の、1/3を振り返ったとはいえ

8歳のときの自分にはすでに支えがあった、と受け止められる12歳。

自分の抱える問題が何かわからず、苦しみ、

私なんていらないでしょ、と(つまり価値がないと受け止め)、

屋根から飛んでしまおうとした過去を持つ女の子。

その障がいが、遺伝に関わるものであったがゆえに

(コメントをいただいた方はその旨、隠されていないので、

このように書かせていただきます。ご了承ください)、

その行動を取った娘を支える親の側、も

どれほど、どれほど心苦しかったことか……。

お腹を痛めて子どもを産んだことのない私でさえ、

想像するのは難く(かたく)ありません。

でも、娘さんは、自分が日々、息苦しい、

「生き苦しい」その理由を知ったとき、

自分の今の「状態」を本気で見つめたときに

そうだったのか! と、それをすんなり、受け容れました。

そんなの、子どもだからできるんだ!

と、口で言うのは、簡単でしょう。

大人側のいろいろな理由を、くっつけることも簡単でしょう。

でも、だから?

それで「も」いいんだ、と

「最終的に」受け容れられる気持ちは、

大人か子どもか、が、関係しますか?

できないことを数えまくるのであれば、

先の長い子どものほうが、よほどたくさん、

思いつけるでしょう。

いまどきの子どもは、その気になれば

あらゆることをインターネットで調べられます。

情報が「過多」なくらい、みつかるんです。

不安を見つめ、そこを「わざわざ」探しまくれば、

10歳を過ぎた子どもであれば、十分、

将来を嘆き続けられるでしょう。

延々と、自分が「今、持っていないもの」だけを見つめ、

「なぜ」「なぜ」「なぜ、こんなことに」と。

そして、あらゆるものを責め、

自分が悲劇の主人公で居続けることも、可能でしょう。

子どもだったら、それこそ「なおさら」なんだと、私には思えます。

だから彼女は、そうしないことを「選んだ」と言えるのだと。

さて。そんな美猫姫ちゃんに触発され、

自分を改めて、振り返ってみたくなりました。

私は「川べり」が、子どものころから、好きでした。

近所を流れていた、小さい土手の川。

40年前はなんと、そばの小さい工場が、

たぶん構内運搬用であろう牛を2頭、飼っていて!

蹴られてしまうのでは、と、幼な心にドキドキしながら、

姉と一緒に、川べりで草をはむ大きい生き物を、

遠巻きに見ていたことを思い出します。

……一応、普通に住宅街だったんですよ、でも。

それから、中学校のそばにあった、大きい川。

幅広の、流れる水を見るのが好きでした。

きれいな川ではなかったけど。

そして、たまたま、陸上部に入って、

川べりをランニングすることの心地よさを知りました。

走るのがキライな人には理解しづらいかもしれませんが、

「ランナーズハイ」って気持ちいいんですよ。

しかも、水の流れを見ながら。

音を聞き、風を感じ、

空はずっと大きく広がっていて、

遠くに車や電車が走ってて。

息は苦しいはずなのに、心地いいんです。

短距離を選んだので、川べりのランニングは

走りこみの冬の時期がメインでしたが、

高校もたまたま、中学校と同じ川の、さらに下流近くにあったため、

同じく陸上部で、同じような景色の川べりを、楽しんでいました。

大人になって遠くへ引越し、

大きい川の近くには住めなくなって、

川べりを味わうことがなくなっていたのですが。

あるきっかけから引っ越して、その地域の大きい川のそばに

住むことに決めたら、やっぱり、気持ちいい。

さすがに10代のときのような走り込みはできませんが、

それでも2km、4kmくらいなら、ダラダラ行けるので

やった~、と思って、ランナーズハイを(笑)ときどき楽しんでいたら。

原因不明の、低血圧がやってきました。

いきなり始まるめまい、しゃがみこみ、そして何より頻脈。

放っておいても、心拍数は1分95回を超えます。

はい、ジョギング禁止。以上、おしまい。

原因、不明なんですよ。

でも、たぶん間違いなく、鬱になってしまったこと、

もしかして服薬していたことも、関係しているかもしれない。

もはや元には戻りそうにない、体質の変化、です。

で、自分を鬱にしたのは? 自分です。

当時の会社のせい、と言うのは簡単だけれど、

「鬱になるような、ものごとの捉え方をしていた」自分が、

いちばん悪い。

そういう意味で体調管理を怠ったのは、間違いなく、自分なんです。

じゃあ、この先。

川を見るたびに、私は、自分を嘆くこともできます。

その気になれば、毎朝毎晩、郷愁のように

過去を振り返って、悲しむことができます。

だって、本当に、心地よかったの。

やっと久しぶりに、味わえるようになったの。

あの風と、あの空気と、あの心地は、

こういう土手でしか味わえないものだから。

そして、走れる自分が、好きだった……。

でも、これ、何の意味があるのでしょう?

これからの、今からの、私に。

自分がまいたタネ、の結果を受け取っておいて、

タネをまく前の自分をうらやましがって。

だってまいたことに、気づいてなかったんだもの!

まさか低血圧になるなんて、まったく想像もできなかったんだもの!

そう、あくまで「病」だったのは「鬱」でしかなくて、

低血圧は「原因不明」なのだから。

私が悪くない? 私はタネをまいてない?

いいえ。まいているのです。まいていたのです、確かに。

じゃあ過去を見て、過去だけを見て、

栄光だった自分の姿を思い返し、嘆き続けることは……。

自分を責め続け、マゾのようにウットリすることと、同じです。

たぶん、そんなことをし続けたら、

今でも血圧は70台で、頻脈もまだ、起こりまくるでしょう。

これを書きながら、今、あの心地よさを懐かしんでみたら、

ちょっと、泣きそうにもなりました。

でも、もう無理。

せいぜい、心臓発作で行き倒れになって、

救急車騒ぎで散歩している人に迷惑かけるだけです。

病は気から、の部分は、確かにあるのです。

鬱なんて、その典型。

だから私は、もう、過去は見ない。

反省はしました。十分、イヤになるほど、しました。

過去のよかったことは、すべて、

「それを味わえたのはありがたかった」という、

私の「力」になってくれる、ステキな思い出です。

川を見ても、泣きません。

今日はたまたま、川を例にしたけれど、

それ以外にも失ったもの、たくさん、たくさんあります。

主に、外側の価値に関するもの。

自分が「死ぬほど」大切にしてきたもの。

でも、数えるのはもうイヤ。

これ以上、自分を「変に」扱うようことは、繰り返したくない。

だってまた、鬱になってしまうもの、それやったら。

それって、新たなタネまきなんだもの。

同じあやまち(どころか、次は年齢も関係してさらに

謎めいた病を連れてくるか、鬱&血圧低下&心臓機能悪化でしょう)は、

私、絶対と言いたくなるほど、イヤです。

そんなタネはもう、まきたくない。

だから、そういう過去の「扱い方」からは、離れます。

自分を哀れみ、悲劇の主人公として、

できなくなったこと、失ったものを、数えて生きたりはしません。

だって私は、私のこと、好きでいたいから。

めまいが起ころうが、頻脈になろうが、そんな私のままでも。

何より、二度とあんな暗い暗い闇の中へ、自分を追い詰めたくない。

「閉じた自分の内側の空間で、自身を哀れんで愛おしむ」こと。

それはグリーフ・ワーク(悲しみを癒す練習)として

必要だった時期が、もしかして以前はあったとしても、

私はもう、終わっていると思えるから。

今の自分で、堂々と、欠けたものがあるなら欠けたまま、

でも、それを丸ごと、好きでいいのだから。

お馬鹿だった自分がいたよ、うん、かわいいヤツだね、と。

だいぶん、そう思えるようになってきているし、

あるいは、ほかのものを内側に、新しく付け加えていきたい。

もっと、今の自分から、いい意味で内側を「豊か」にしたい。

私はずっと、外側の自分の価値ばっかり、追いかけてきたから。

そうやって、前を向こうと思います。

想い出は「宝物」として取って置いて、

「楽しむ」ためだけに……使いたいと思います。

わかっていたようでいて、でも、何度も繰り返すこの気持ち。

この時間は、私には、大切です。

美猫姫ちゃん、sei-seiさん、

ステキな機会をありがとうございました。