カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

傷を受けたままであり続けること

他者から、ひどい仕打ちを受けると、私たちは傷つく。

ひどいことを言われたり、ひどい行為をされたりしたら、

怒りや悲しみ、苦しみが生まれる。

それは人として、当然の感情である。

が、しかし、その傷から早く立ち直る人もいれば、

ずっと抱え続ける人もいる。

これは、単なる性格の問題だけではなく、

それよりも「どういう受け止め方をするよう

自分を習慣づけてきたか」という要素のほうが、大きいことも多いらしい。

つまり、自分なりに受け止め方を訓練してきたのだ、経験するうちに。

「○○のせいで私はこうなった」という場合。

その「受け止め方」を、ずっと大事に一生抱える必要があるかどうか。

その点が、人によって千差万別なのである。

もちろんこれは「きっかけとして」親から受け継いだ場合もある。

でも、その「きっかけ」を、永遠に

変わらない事実として、使うかどうかを決めるのは、

実は自分で選択できる。訓練し直せるのだ。

私はこれまでに、自分を嫌っている人について、

何度か書いてきている。

自分のある部分が嫌い、とかいう程度ではなく、

自分なんてダメな存在なのだ、と

根本的な部分で規定している(本人としては認識、であり、

変えられないものと思っている)人を

とくにこの点で、例に挙げてみたい。

自分のことを嫌う人の場合、傷つけられたことは、

「やがて」自分を嫌いでい続けていい、という許可を出せるための

根拠に変化させられる、というか、自然とそうなっていく。

「やがて」と書いたのは、人によっては即刻、

それに変化させる場合もあり、ボディブローのように、

ジワジワ自分に効果をもたらす人もいるからだ。

つまり「あんな傷を負ったのは、私がダメだという証拠だ。

だから私はやはりダメな人間で、自分を『嫌いでいていい』のだ」

と、心の奥で、自分を嫌っていることを正当化してしまうのだ。

もちろん自分では、そんな『許可』を出したつもりはないだろう。

でも、そのようにしてどんどん「傷を受けたこと」を蓄積させ、

自分は「ダメなんだ」というデータを固めていってしまうのだ。

それを責めているわけではない。

今、そうなってしまっていることが、いかに苦しいか、

鬱のときの自分を思い出せば、私でもある程度、想像はつく。

でも、本当は、データを蓄積すること自体を「やめる選択ができる」のだ。

もちろん、そのためには、鬱という病からも、抜け出していかねばならない。

ゆえに、いっぺんには難しい場合も多いだろう。

ただ、蓄積し続けることを意識的にやめていくことは、

病そのものの治療にもなるのだ。

中には、そうではない、誰かから否定されたりするということは、

自分の、その部分が悪いのだから、それを忘れてしまったら、

私は恥を知らない高慢な人間になってしまう、

と、考える人もいるだろう。

しかし、そうではない。高慢にならないよう自分で覚えておくべきことは、

「何があったか(言われたか)」ではなく、

その指摘を受けて、今後、自分の欠点(と思っていること)を、

どう直していくか、その改善方法のほうである。

言われて傷ついた「感情そのもの」ではなく、

何に注意すればいいか、のほうを覚えておけば、

それはいずれ、自分の改善にもつなげられるのだ。

しかし自分を嫌っている人は、そのときのひどい場面ごと、

傷ついた、という「感情」のほうを、覚えておこうとする。

それは自分が嫌いだから「ほら、やっぱり」という、根拠にできてしまうからだ。

意図しなくてもそうなってしまうし、それでまた、

自分を嫌う根拠をひとつ、増やせるのだ。

ひとつだけ、キツイ言い方もしてみる。ごめんなさいね。

もしかしたら、それで安心さえしているかもしれない。

そこから何かを変えるのは苦しい、と決めている……思い込んでいるから。

嫌いなままでいれば、新しい苦しみは受けず、何も変えなくていいから。

でも、考えてみてほしい。

そもそも、ひどいことを言われたとき、

言った相手にも問題があることも多い(相手だけが悪い、という意味ではない)。

なのに、自分を傷つけられた、その場面と感情のほうだけを覚えていたら、

問題点がずれたまま、いつまでも、自分を嫌い続け、それを直せないのだ。

自分を嫌うことが、自分に対する罰だという場合はなおさら、

嫌い、という感情を直すこと自体、許されないことと捉えるだろう。

その点については、私でもはっきり言える。

そんな罰そのものが、必要ない。

人は、心構えを入れ替えられる、反省して進歩できるための

考え方を、持っていいから。持てる存在だから。

そうした考えを持っていい、ということは、法律でさえ、定められている。

服役は、人間というものが反省して心を入れ替えられるという

前提があるからこそ、あのように規定されているのだ。

変わるかどうかは、本人次第だが、その力がある、ということは、

人間に備わっていると「わかっている」からこそ、

その機会を与えるための人道的な訓練所として、

犯罪に対する刑務所が存在するのだ。

そう。傷つけられた、その傷は、自分のためにも使っていける。

そういう力を、皆、それぞれが、持っているのだ。

では、どう捉えればいいのか。

その部分を知る勇気を、持ってほしいと思う。

プロの相談者、本物の相談者は、そのための方法を知っている。

書籍やDVDなども数多く出ている。図書館に行けばよい。

あなたに合うヒントは必ず、見つかるのだ。

あなたが、やめようとさえ思えば。

どうか、あなたの傷が、やがてあなたの力に、変わりますように。

あなたが、力にするほうを選び、やり方を探して、

あなた自身の手で、変えていけますように。

この先も傷を「受け続けなければいけない」理由など、何もないのだから。

果たして何が いけないことなんだろう?

うまくいかなかったとき

イヤなことが起こったとき

つらくなったとき

それらの感情に

過去の同じように感じた気持ちを

覚えている限り 全部引っ張り出してきて

あのときもそうだった

あのときもダメだった

と 足し算する

今の苦しさに

過去の思い出の苦しみを

わざわざ 上乗せする

だから 余計に苦しくなる

そして

自分のことを嫌いになるための

根拠を 作り出すのだ

そのために

過去の失敗も

つらかったことも

苦しかったことも

怒りも ねたみも

わざわざ全部 ゆるすことなく

ずっと覚えている

ただ覚えているだけではない

記憶を繰り返すということは

そのなかでもっとも強かった感情を

さらに強化させることになる

それゆえ

思い出せば思い出すほど

その苦しさやニガさは

当時より 強くなる

強くしたものを さらに 上乗せするのだ

足し算 プラス 強化分なのだ

そりゃ 苦しいし

イヤだし

自分は嫌いだし

どうすることもできないと

信じられちゃうよね

今 起こったことについては

今なら「自分に対して」だけでも

対処できるのに

過去を足し算プラス強化するから

どうしようもないことのひとつが増えるだけになる

何もできなくなるし

何もしなくてよくなる

ただ 自分はダメだと

嘆き続ける根拠を

増やすだけになるのだ

過去は 変えられないし

増幅した分を 記憶をたどって

もとの量に戻すのも困難だ

そこはもう確かに どうしようもない

でも今から 変えられることはある

それは

足し算する

という行為そのものを

スッパリ やめることだ

過去の自分と 今の自分は

まったく同じだと思っているから

わざわざ 足し算するのだ

同じではない

毎日 違う

毎日 勝手に 変化はしている

日付が二度と同じでないように

あなたも二度と 過去の自分には戻れないし

戻る必要もないし

事実 細胞はどんどん入れ替わって

同じあなたではなくなっている

あなたの認識だけが

自分を変えたくないあまりに

同じなんだと 決めつけているのだ

わざわざ その考え方を選んで

思い込んでいるのだ

そのほうが 新しいことに

チャレンジしなくていいから

今の苦しさは 過去から続いている

分かってる範囲のことだから

安心なのだ

そうやって 人は わざわざ自分を

苦しい立場のまま 安定させようとする

いつまでたっても

苦しさは変わらないし それどころか

増幅させ 新たに感じた苦しさも付け足して

ますます 苦しいままになる

なぜ そんなことをするか

こんな私は いけない と決めつけているから

こんな私は許されないし

私が私を許さない と

決めつけているからだ

この先も苦しみが増幅する一方の安定と

また 失敗するかもしれないけれど

私は私でいいと 思ってみる新しい世界と

どちらが あなたにとって

怖くて 苦しいのだろうね

新しいやり方に 目を向けるのは

そんなに自分にとって いけないことなんだろうか?

追伸、かな。できるようにならなくてはいけないことは

仕事でもないし

お金でもないし

家庭でもないし

彼氏や彼女でもない。

そんな外側のことじゃないよ。

たとえ話をしてみようか。

今、目の前にヨチヨチと歩いてる

人がいました。

子供でも、老人でも、弱ってる人でもいいよ。

うまく歩けなくて、その人が転びました。

そのとき、たまたま通りかかった人が

「うまく歩けないのね」

と言いました。

その評価を聞いて、

あるいは、その人が転んだのを見て、

「なぜそこで転ぶんだよ!」

と怒り、その人を平手打ちで

張り飛ばす人が、果たしているだろうか?

他者からうまくいかないことを指摘されたから、と、

上手にできないからと、

歩いてる人を殴る人がいたら

その人のほうがおかしいことは、わかるよね?

自分を否定する人は

これを、自分に対して、やっている。

うまく歩けないから、おまえのこと、

嫌いなんだ! と、張り飛ばしてる。

弱ってる自分を、自分で殴ってる。

そんな条件づけ自体が、必要ないのよ。

うまく歩けたら、自分をゆるしてあげる。

そんな理由づけ、そもそも、いらないのだ。

うまくいかなければ張り飛ばす。そんな必要もない。

うまくいこうが、いくまいが

まず最初に、何の条件も理由もなく

自分をゆるして、好きになってあげていい。

そこからやっと、ものごとが、はじまる。

他人が、弱っている人の転んでるところを見たとして、

その他人が「転ぶからこの人ダメ」と全否定するだろうか?

普通は、だいじょうぶですか、と

駆け寄るよね。

駆け寄らないで素通りしたとしても、

全否定はしないよね。

なのにあなただけが、

ほら、転んだって言われた!

ダメだと言われた!

否定された! 

だから私はダメなんだ! と捉えてる。

自分に対する認識、捉え方、

そこを、もう、変えようよ。

そんな評価つき、条件つきの

捉え方、やめようよ。

弱ってる自分がいること、認めてあげて、

まずは、いたわってあげようよ。

弱ってるのに、なかなかうまくいかないのに、

歩くチャレンジしてるね、エラいね、って。

そこをまず、変えていいんだよ。