カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

ないもの幻想

鬱になると持つもの

あるいはそれが元で鬱になるもの

それは 自分に欠けているものを見つめる視点

お金がない

仕事がない

頭がよくない

意気地がない

覇気がない

自信がない

健康な身体ではない

家族に恵まれていない

夫に 妻に 愛されてない

愛したい相手がいない

愛しても 通じない

心開ける 友達がいない

いくらでも 挙げられるだろう

自分は 周りの人より不幸で

周りの人は 自分とは違ってうまくいってて

自分だけが 立ち直れない

あるいは自分だけが 不幸を背負わされている

そうやって ないものを数え始めたとき

大丈夫 心配はまったくない

私は完璧だ 100%全部ある

視点や性格からでなく 状況からそう思える人が

この世に何人 いるだろうか

そんなの程度の差があるって?

じゃあ 生まれたときすでに 家族がおらず

ごみ置き場にいたところから始まり

援助は受けても すべて自分でやっていかないと

生きていけない子より あなたは何もないだろうか

そんな海外であり得そうな話をされても困る

私は今ここ 現代の日本にいるのだから

そう言う人には 私が昔 聞いた 悲しい実例を伝えよう

そこそこの大学を出て とてもいい会社に入社した男性の話

社会人になった途端

親が2人とも 息子の金をアテにして遊び始めた

自分たちは働かず 息子の金をなんだかんだもらい

足りなくなったら 親戚や結婚した娘 その他にまで借金しまくって

「長男が返すから」でおしまい

息子がどれだけ諭しても

「おまえの今があるのは 私たち親のおかげ

孝行しないとはどういうことだ 受けた恩を きちんと返せ」

そう言って 借金を繰り返す

親族に借りられなくなったら 平気で貸付業者に走るため

危険すぎて 周りも縁を切ろうとし

親族から 息子が責められる

稼ぎは毎月 借金返済に大幅に取られ

その様子を知った恋人には皆 結婚できないと去られ

それでも息子本人がまだ「親を見捨てる自分」に

耐えられないがために 悩んでいた

確かに両親が改心しない限り

解決策は 親を捨てることか 好きな仕事を辞めるしかないのだ

23歳から始まった彼の苦しみが いつどのように なくなるのか

なくなる日がくるのか

それはどんな痛みを伴うことになるのか

話を聞いて ただ ただ つらいと思った

さあ 彼は好きな仕事も 稼ぎも手にしているのだから

自分より幸せだと 思えるだろうか

彼の今も未来も明るいと 言えるだろうか

彼はもちろん 外にそのつらさを見せておらず

表面上は しっかりふるまっているのだ

脊髄が歪む原因不明の病気で 手術したりもしてるけど

見た目には 明るくいい人だ

言いたいことが わかるだろうか?

人はどんな苦しみを その内側に抱えているか

見た目だけでは わからないことも多いのだ

あなたが見ているのはまさに 隣の芝生なのかもしれないのだ

だからね 不幸自慢をしても キリがないんだよ

よりによってあなたは 自分で自分に対して 不幸自慢をしている

そうして 私は ダメなんだと

ないものだけを自分に叩きつけて不幸なんだと 言い続けているのだ

過去に失ったもの 過去の過ち 過去の悲しい出来事

それらを過去に戻って やり直したり 取り返したりはできない

できるのは 今ここから しかないのだ

なのにずっと ないものだけを見つめ続けて

ずっと自分に不幸自慢をして

これからも 過ごしていくの?

その視点しか 保つ気がないのなら

あなたは不幸なままで

やがては 生きる気力を失うだろう

動けないのは 自分で自分を嫌いになる 不幸自慢の視点を

あなた自身が やめないからなのに

やめなければ 鬱も続くだろう

鬱が続けば なおさら動けず

さらに悪い方向しか見られなくなる 脳ミソの誤作動を引き起こし

ずっと 暗いままだろう

あなたが自ら ないものだけを見つめることを止めると決めない限り

誤作動と相まっての 不幸自慢の悪循環は 続くのだ

あなたには そうやって自分を病にするほどの意思があり

ゆえに病を治せる意思も 備わっているのに

あれが悪い これが悪い

あれのせい これのせい

自分が悪い 自分のせい

そうやって 自分を追い詰めているのだ

今あるものに 目を向けること 感謝すること

そこから今 できること

そのできることから ほんの少し やってみること

そこから始まるもの 変えられるものは

きっと あのときの彼に比べれば たいていの人が

何かしら 持っていると 私には思えるのだけれど

それこそ 幻想なのだろうか

どう受けとめ、選んでいくか

本当は、特定の一般の方の、事件の話を扱うことは

避けたほうがいいのだろうとは思いつつ。

あまりにいろいろ感じ、考えさせられてきたので、

お伝えしたいと思う。

20日夜のニュース番組でご覧になった方も多いだろう。

本村 洋さん。

山口県光市での殺人事件の被害者であるお二人の、夫だった方である。

私が彼に関心を持ったのは、最高裁の差戻し判決が出て、

被告人の弁護団がぞろぞろチームを組んで登場し始めたころ。

さまざまな謎の陳述が始まる、少し前だった。

本村さんがあまりに冷静で、言葉を選び、非難しつつも

きっちりと会見していらして、でも質問の中で、自分を責めた、

その度に周りの人が教え、支えてくれた……と述べられたとき、

あ、自死を考えられたのかな、とふと、思った。

ネットで調べてみたら、やはりそのような談話も載っていて、

その彼の、怒りや悲しみや自己批判が、あの記者会見の冷静さへと

どうつながっていったんだろう、と思えた。

しばらく経って、たまたま偶然、本屋さんで

事件のことと本村さんのことを追ったルポルタージュが

文庫として出ていたので、気になって読んだのだった。

変わり果てた家族の姿を、押し入れから見つけたのは

帰宅した本村さんご本人。

その衝撃は、私にははかりきれない。

誰かから知らせの電話がくるのでもなく、

日常のなかのひとコマとして帰宅したら、

「そうなっていた」のである。

しかも明らかに、誰かの手によって

そう変えさせられていたのだ。

その後の通報、家族への連絡、社宅ゆえの上司への連絡……。

ルポは、そのときの様子から克明に伝える。

長い年月をかけ、本村さんとライターの間で培われた信頼によって

明らかにされていく事実、本村さんの姿が、語られていく。

怒り、悲しみ、犯人への憎しみ。

裁判所での被害者への扱いに対する悔しさ、

被告が未成年だったために極刑は課されないだろうという予想。

すべて、 納得できなかったのも当たり前だろう。

娘さんはまだ、1歳にもなっていなかったのだ。

彼は悩み、苦しみ、何度も「自分がもしああしていたら、

こうしていたら」と自身を責め、

犯人に対してだけでなく、司法にも怒る。

本当に、やり場のない感情の数々だっただろうと思える。

そうした「いきどおり」の感情から、

妻と子の死に報いたいような感覚で、最初は動き始めるのである。

被害者遺族を守るための活動、司法への働きかけ。

そこに輪をかけるかのように、地方裁での裁判で

「何が起こったのか」が明らかにされ、最後の様子が判明していく。

傍聴席で聞いているだけでも、やりきれなかっただろう。

被告に対して「極刑」を求めたのも、当然だと思う。

さらには一審の無期懲役の判決後、

被告が友人に対してまったく反省していない、なめきった手紙を

出していることは判明する、最高裁が差戻しを言い渡したあとで

「ドラえもんならなんとかしてくれると思った」から

押し入れに入れた、とさえ、陳述されてしまうのである。

つまりは精神の薄弱性の訴えである。

メーターの検査官を装うという事前準備をし、

死後に奥さんが辱めを受けていたにも関わらず。

これが地獄でなくて、何なのだろう。

どうして彼が、こんな苦しみを背負わなきゃいけなかったのだろう。

その苦しみは明らかに他人の、犯人のせいでもたらされたのだ。

私なら、まずそれだけで耐えられない。

本村さんは初期のころ、いつかは自分の手で復讐する、と思っていたそうだが、

私なら、そこでとどまってしまっていただろう。

巨大な憎しみの塊になったまま。

しかし、彼は塊を選ばなかった。

そこから司法に挑み、政治に訴え、

被害者に対する法律をも制定させていく。

さらにはさまざまな人と会うなかで、

死刑制度そのものに対しても「それでいいのか」と悩み、追究し、

最後には、アメリカの死刑囚にまで会いにいく。

人が、人の死を決めるということ。

その行為に根源的な「生へのぼうとく」が

あるのではないかと感じて、

彼は自分の受けとめ方を、探しに行ったのである。

人は確かに、他人への暗い思いを持ち続けると、

そのこと自体で、苦しむようになる。

しかし彼には、十分すぎるほどの理由があった。

それでも自分が納得するために、塊になること以外の受けとめ方を、

少しずつ、探していったのである。

彼は昨日の記者会見で、自分のことを「弱い」と評していた。

だが全国で講演を行い、日本の司法を変え、法律を変え、

そのなかで、自分自身の思いをも、変えていったのだ。

憎しみからやがて、二人の死を無駄にしたくない、という願いを持つようになり、

そこからいろいろつかんでいかれた彼自身の変化は、「弱い」でくくれるものではない。

また、10年を契機にそうした社会的な活動をやめ、一社会人として

静かに生きていくことを選択されたのは、

悩み、苦しみのなかでいろいろともがき、

一つひとつ、つかんでいった彼だからこそできる、

一種の悟りの境地のようなものなのだと、私には思える。

たとえ、どんな目にあっても。

どんなに、あえぎ、憎み、もがき苦しんでも。

そこから何を受けとめ、つかみ、受け入れていくのか。

そしてどんな思いで、どう生きていくのか。

それを選ぶのは、紛れもない自分自身である。

そう、言い換えれば、どんなことがあっても、

そこから、その場所からまた新たに、

受けとめ方を自分で選んでいっていいのである。

彼の心境の変化、思いの数々については、

新潮文庫『なぜ君は絶望と闘えたのか──本村洋の3300日』に、

また昨日の、1時間に渡る記者会見の全映像は、まだたぶん、

テレビ朝日ANNニュースのネット動画に

12分割で掲載されているかと思う。

「天網恢々 疎にして漏らさず」(てんもうかいかい そにしてもらさず)

この言葉に支えられなくてはやっていけなかったという

本村さんの人生に、真摯な敬意を表すとともに、

本村さんご自身のこれからのお幸せと、

亡くなられたお二人のご冥福を

心から、お祈り申し上げます。

Give me please

ほらまたキミは

ないものだけを見つめてる

手に入ってないもの 隣の人は持ってそうなもの

だって私は苦手だから

だって私はできないから

私は 私は ダメだから

でもね 私 ホントはほしいの

できることなら 手に入れたいの

愛も 友情も 仕事も お金も

それをもらえたら 私は幸せになれるでしょ?

だからホントはほしいの Give me please

ねえ じゃあ 聞いていいかな

ある日 理想の人が現れて

あなたは ドキッとするだけでよくて

その人が 愛も 友達も お金も 仕事も

捧げ続けてくれたら 与え続けてくれたら

あなたは本当に絶対 とても幸せになれるかな

あなたは何も しなくてよくて

理想の人を通じて 友達が勝手に「あなたが好きです」って寄ってきて

誰かから「あなたにはこの仕事がお似合いです」って渡されて

それをこなしたら お金がたっぷり手に入る

理想の人は あなたをとても愛してるって言ってくれて

あなたと一緒に住む家を用意してくれて

服も用意され

食事は誰かから常に提供され

お風呂が入りましたよって 入れられ

ベッドが用意され 就寝の時間です と言われ寝る

あなたが幸せに暮らしていけるよう

すべてすべて その人が手配してくれる

あなたは何も考えず

全部与えてもらって その通りにしていれば

全部手に入るし 傍目からはとてもとても 幸せにみえるよね

ねえ それはどうかな あなたはそれなら 幸せに なれるかな

それはちょっと 違うかな

まるで赤ちゃんみたいだもの

私は 私の好みがあるの

好きな食事 好きな仕事

友達だって自分が 仲良くなりたい人 選びたい

好きなときに お出かけしたいし

服だって 自分で選びたいわ

赤ちゃんみたいには やっぱり 生きたくないわ

おやおや でもキミはさっき

いろいろもらえたら 幸せだと言ったはず

与えてもらってるのに どうして自分から 動く必要があるんだい

ないものをねだり

自分が手に入れられないと決めつけ 嘆き続け

与えてもらったら 今度は不満?

違うの そうじゃないの

程度の問題なの

全部 与えてほしいわけじゃなくて

私が選ぶ 自由はほしいの

じゃあキミ でもそれは

自分からやらなくちゃいけないよ

自分から選び 取りに行かなくちゃいけない

幸せになれないのは 周りにないせいだと言ってたよね

じゃあ何かい ステキな選択肢だけを ずらりと並べてもらって

愛する人も 友人も 仕事も 家も 食事も 服も

自分が選びたいってわけかい?

そうね そうかも いいものだけ 並べてもらって

私が選べば 必ず手に入るの

そうしたら 必ず幸せになれるわ

それはね キミ 誰が並べてくれるの?

そんなことできたら 世界一の王様じゃないかな

それにね キミ 何より大切なこと忘れてる

外に出てごらん 愛する人 友達 仕事 家 食事 服

キミが自分で選びたいものは

そこに全部 揃ってる

だから もう! 言ってるじゃない

私にはできないって 私からはできないって

確かに私は選びたいわ でも自分では並べられないわ

そうよ だからね 足りないものを見つめるの

見つめていくのよ これからも

そうよ そうよね ずっとできない 私には

だから 永遠に Give me please

……だって 今あるものは 私

そこに万が一 いいものあったとしても

できないから 見ないもの……