どう受けとめ、選んでいくか

本当は、特定の一般の方の、事件の話を扱うことは

避けたほうがいいのだろうとは思いつつ。

あまりにいろいろ感じ、考えさせられてきたので、

お伝えしたいと思う。

20日夜のニュース番組でご覧になった方も多いだろう。

本村 洋さん。

山口県光市での殺人事件の被害者であるお二人の、夫だった方である。

私が彼に関心を持ったのは、最高裁の差戻し判決が出て、

被告人の弁護団がぞろぞろチームを組んで登場し始めたころ。

さまざまな謎の陳述が始まる、少し前だった。

本村さんがあまりに冷静で、言葉を選び、非難しつつも

きっちりと会見していらして、でも質問の中で、自分を責めた、

その度に周りの人が教え、支えてくれた……と述べられたとき、

あ、自死を考えられたのかな、とふと、思った。

ネットで調べてみたら、やはりそのような談話も載っていて、

その彼の、怒りや悲しみや自己批判が、あの記者会見の冷静さへと

どうつながっていったんだろう、と思えた。

しばらく経って、たまたま偶然、本屋さんで

事件のことと本村さんのことを追ったルポルタージュが

文庫として出ていたので、気になって読んだのだった。

変わり果てた家族の姿を、押し入れから見つけたのは

帰宅した本村さんご本人。

その衝撃は、私にははかりきれない。

誰かから知らせの電話がくるのでもなく、

日常のなかのひとコマとして帰宅したら、

「そうなっていた」のである。

しかも明らかに、誰かの手によって

そう変えさせられていたのだ。

その後の通報、家族への連絡、社宅ゆえの上司への連絡……。

ルポは、そのときの様子から克明に伝える。

長い年月をかけ、本村さんとライターの間で培われた信頼によって

明らかにされていく事実、本村さんの姿が、語られていく。

怒り、悲しみ、犯人への憎しみ。

裁判所での被害者への扱いに対する悔しさ、

被告が未成年だったために極刑は課されないだろうという予想。

すべて、 納得できなかったのも当たり前だろう。

娘さんはまだ、1歳にもなっていなかったのだ。

彼は悩み、苦しみ、何度も「自分がもしああしていたら、

こうしていたら」と自身を責め、

犯人に対してだけでなく、司法にも怒る。

本当に、やり場のない感情の数々だっただろうと思える。

そうした「いきどおり」の感情から、

妻と子の死に報いたいような感覚で、最初は動き始めるのである。

被害者遺族を守るための活動、司法への働きかけ。

そこに輪をかけるかのように、地方裁での裁判で

「何が起こったのか」が明らかにされ、最後の様子が判明していく。

傍聴席で聞いているだけでも、やりきれなかっただろう。

被告に対して「極刑」を求めたのも、当然だと思う。

さらには一審の無期懲役の判決後、

被告が友人に対してまったく反省していない、なめきった手紙を

出していることは判明する、最高裁が差戻しを言い渡したあとで

「ドラえもんならなんとかしてくれると思った」から

押し入れに入れた、とさえ、陳述されてしまうのである。

つまりは精神の薄弱性の訴えである。

メーターの検査官を装うという事前準備をし、

死後に奥さんが辱めを受けていたにも関わらず。

これが地獄でなくて、何なのだろう。

どうして彼が、こんな苦しみを背負わなきゃいけなかったのだろう。

その苦しみは明らかに他人の、犯人のせいでもたらされたのだ。

私なら、まずそれだけで耐えられない。

本村さんは初期のころ、いつかは自分の手で復讐する、と思っていたそうだが、

私なら、そこでとどまってしまっていただろう。

巨大な憎しみの塊になったまま。

しかし、彼は塊を選ばなかった。

そこから司法に挑み、政治に訴え、

被害者に対する法律をも制定させていく。

さらにはさまざまな人と会うなかで、

死刑制度そのものに対しても「それでいいのか」と悩み、追究し、

最後には、アメリカの死刑囚にまで会いにいく。

人が、人の死を決めるということ。

その行為に根源的な「生へのぼうとく」が

あるのではないかと感じて、

彼は自分の受けとめ方を、探しに行ったのである。

人は確かに、他人への暗い思いを持ち続けると、

そのこと自体で、苦しむようになる。

しかし彼には、十分すぎるほどの理由があった。

それでも自分が納得するために、塊になること以外の受けとめ方を、

少しずつ、探していったのである。

彼は昨日の記者会見で、自分のことを「弱い」と評していた。

だが全国で講演を行い、日本の司法を変え、法律を変え、

そのなかで、自分自身の思いをも、変えていったのだ。

憎しみからやがて、二人の死を無駄にしたくない、という願いを持つようになり、

そこからいろいろつかんでいかれた彼自身の変化は、「弱い」でくくれるものではない。

また、10年を契機にそうした社会的な活動をやめ、一社会人として

静かに生きていくことを選択されたのは、

悩み、苦しみのなかでいろいろともがき、

一つひとつ、つかんでいった彼だからこそできる、

一種の悟りの境地のようなものなのだと、私には思える。

たとえ、どんな目にあっても。

どんなに、あえぎ、憎み、もがき苦しんでも。

そこから何を受けとめ、つかみ、受け入れていくのか。

そしてどんな思いで、どう生きていくのか。

それを選ぶのは、紛れもない自分自身である。

そう、言い換えれば、どんなことがあっても、

そこから、その場所からまた新たに、

受けとめ方を自分で選んでいっていいのである。

彼の心境の変化、思いの数々については、

新潮文庫『なぜ君は絶望と闘えたのか──本村洋の3300日』に、

また昨日の、1時間に渡る記者会見の全映像は、まだたぶん、

テレビ朝日ANNニュースのネット動画に

12分割で掲載されているかと思う。

「天網恢々 疎にして漏らさず」(てんもうかいかい そにしてもらさず)

この言葉に支えられなくてはやっていけなかったという

本村さんの人生に、真摯な敬意を表すとともに、

本村さんご自身のこれからのお幸せと、

亡くなられたお二人のご冥福を

心から、お祈り申し上げます。

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