カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

泣き言も、涙も

つらいときに、「つらいんだな」と思うこと。

怒りがわいたときに、「怒りがあるな」と思うこと。

悲しいときに「悲しいんだな」と思うこと。

それ自体は、必要なことなので、吐き出してください。

ただし、その感情に巻き込まれてひたすら、たとえば「つらい・つらい・つらい」と繰り返すのではなく、

自分を遠くから静かに見守る人のように

「つらいんだな、私」と、思って、ただ、静かに認めてあげてください。

この「感覚」の違いは、自分を「追い込まないで済むかどうか」につながります。

私は実際、何度も、どちらもやっていました。

繰り返してどんどん自分のまわりに「つらい」「悲しい」という言葉を並べていくと(というふうに例えさせてくださいね)、

その量と重さに耐えきれなくなって、自分がもう、どうなってもいいや、って、投げやりな気分になっていきます。

もう一方の、「ああ、また私、つらいんだな」って、ボーッと眺めるかのような状態だと、

なんだろう、つらい気持ちをつらいまま、無理に追い立てられることもなく、それを味わえるのです。

激情にかられるかどうか、と言い換えてもいいのかもしれません。

もちろん、激情が湧いてきたときは、一瞬、それに身を任せて「もうイヤだっ!」って口に出していいのです。

でも、その際、出てくることも多いであろう涙は、しっかり、十分に、流してください。

泣いていければ、やがて、激情が収まっていきます。

収めていかなくちゃいけないのは激情、その大きな揺さぶりの「波」のほうであって、

悲しさそのもの、つらさそのものは、無理に抑えなくていいのです。

だから「ああ、悲しいなあ。悲しんでるな、今」「悲しもう、うん。悲しいんだから」というふうに、

静かに認めて、味わうことで、少し、気分が落ち着きます。

つらいんですもの。

苦しいんですもの。

悲しいんですもの。

そのこと自体は、排除するのでなく、自分の中にある「感情のひとつ」として、

今、そこにあることをゆるしてあげてくださいね。

私自身が、無理に感情を抑えようとしたり、

逆に激情に駆られてそのまま乗り上げていき、どちらにせよ、さらに苦しくなった経験から、

今日はそんなことを、お伝えしてみようと思いました。

あなたのなかの、あなたのいろいろな気持ちは、大切な大切な、あなたの一部です。

そのひとつか2つがあなたのすべてでもないし、

それがあるから「ダメ」でも、「悪いわけ」でもない。

私には、そう思えます。

腹が立つときに

それは誰か、特定の個人に対して、だろうか。

それとも社会に対して、あるいは自分に対して?

感情のコントロールが狂いがちなときには、こうした「むかつく!」といった気持ちを

なかなか収めることができないことがある。

脳の働きが正常じゃないし、身体も弱っているから、マイナス感情をいつも以上に深く感じてしまうのだ。

社会に対しての不満、たとえば政府や自治体、組織の対応、企業などの対応、については、

そうした機関へ投書する文章を、あえて「下書き」してみるといい。

何に腹が立つのか、どう変化してほしいのか。自分がそう思う根拠はどこにあるか。

きっかけとなった情報などがあれば、それは事実なのかどうか。他の視点で捉えている記事はないか。

いわゆる「ウラをとる」という作業もきちんと行いながら、

自分が感じていることをどうやって伝えるか、整理してみるのだ。

もちろん即効性があるとは限らないが、そういう声が多く集まれば、組織として

対応せざるを得ないこともある。つまり「多く」なるためには、自分の行動も必要だったりするから、

まずは冷静にきちんと「訴える」ことが重要となる。

次に、誰か特定の個人に対しての場合。

何か「その人にイヤな気分にさせられた」出来事が過去にあって、今、腹を立てているのだと思う。

ではなぜ、それをイヤだと感じたのだろう。

その相手の人間性ゆえ、か。それともたまたま、自分がそう受けとめたのか。

他の人が同じ目に遭った場合、同じように怒るかどうか。

たとえば理不尽だと思うなら、その「理不尽さ」の内容を、見つめてみるのだ。

そこに至る過程で、あなたも何か、きっかけをつくってはいなかったか。

実は相手に過度の期待や要求をしていなかったか。

自分のことを棚に上げてはいないか(鬱、という病そのものについてではなく、言動として、ね)。

「わかってほしいのに、どうして!」という気持ちは、基本的に自分側の都合である。

「こういうときにはこうしなければいけない」というのは絶対的・100%、100人いたら100人がうなずくことか。

あなたの価値観に、相手を「従わせよう」としてないか。

自分のほうが正しいのに! と、それを認めさせようとしていないか。

やり方は何通りもあって、それぞれ、100%間違いではないかもしれない。

だからその場合は「私はこうするのが気持ちいいから従ってくれない?」と、相手に言っているわけである。

であれば本当は「○○じゃないとダメ!」なのではなく「○○のほうが、いいんじゃない?」ってことだ。

そして相手は「○○」じゃなく「△△」のほうが気持ちいいのかもしれない。

ならば結論としての解決方法は「歩み寄り」であって、腹を立てることでない。

そうやって冷静に考えてみても、パワハラ、セクハラなど、明らかに相手が自分の立場を利用して

ひどいことをしてくる、と思える場合は、まず「それをどう、かわすか」。

こうした関係性は職場に限らず、家族の間でも友人との間でも、生じることがある。

でもいずれにせよ、こちら側だけがなんとか努力すれば解決できる問題ではないかもしれない。

以前にも書いたが、たとえば八つ当たりのように、相手側が自分自身の問題点を

他人に転嫁してくることがあるからだ。

その場合はもう、自分ではなく「相手の問題」である。本来、こちらが解決できることではない。

たとえば奥さんとの不仲が原因となっている苛立ちを、部下に転嫁してくるような相手に向かって

「奥さんとの問題を解決したほうがいいですよ」なんて言ったら、火に油を注ぐだけだ。

転嫁する人は、ある意味、ひどい思いを味わっている。味わっているからこそ、攻撃してくる。

であれば根本的には、冷たいようだが「うん、大変だね。あなたも可哀想なんだね」って話なのだ。

あとは、かわしてみる。本当はそれだけで、あなたのほうの努力はOKなのである。

もちろん、仕事や生活に支障が出る場合は、他の第三者に相談するなど、別のルートの対応も必要だ。

ただし、それは「この部分は相手が明らかに悪い」と言い切れるところの相談に限られる。

そこまでは、自力でやってみるしかない。

単にその人との相性が悪いのを、他人に相談したところで、相談された人も困るだろう。

まずは自分で、相手を冷静に見て、コミュニケーションをとってみる必要もあるのだ。

こんなふうに、「腹が立つ」という感情には、いろいろな視点や問題が含まれている。

それを少しずつでも把握してみると、自分の価値観や考え方もわかるし、

怒りの感情に巻き込まれる時間も短くできる。

相手か自分のどちらかが、100%完全に正しいとは限らない。

自分自身に腹が立ってもそれは同じ。黒い自分と白い自分のせめぎ合いなのだ。

でも実は、どっちでもよい……なんてことも、客観視してみればありうる。

そういうグレーゾーンな状態のほうが、実は結構、多いのだ。

腹が立つ→「じゃあ、どうして私はそれに対して怒るの?」という視点。

これもまた、練習は必要だろう。

必ずしも一気に解決はしなくていいのだ。無理せず少しずつ、見つめてみよう。

追伸~生まれてきてごめんなさい~

こんなわたしで ごめんなさい

眠ってばかりで 動けなくて ごめんなさい

おなかが空いて ごめんなさい

息をしてて ごめんなさい

こんな状態で 生きててごめんなさい

生まれてきて ごめんなさい

そう 思っている人へ。

そう思ってしまうことを 私もまた 知っているからこそ。

ありのままのあなたでいてくれて ありがとう

身体を整え 心の病を治すために しっかり休んでくれて ありがとう

おなかがすいたときに ちゃんと食べものを口にしてくれて ありがとう

自分で息を止めるような行動を 実行しないようにしてくれてて ありがとう

つらい経験から何かを学び 人とつながり 伝えていくために 生まれてきてくれて ありがとう

心から そう思います。

私だけでなく あなたの周りの あなたを 陰から日向から応援してくれている人 すべてが

あなたが その経験から得ていくであろうもの そのすばらしさについて

未来にそれを知る日のことを 無意識にであっても 待っているのです

だいじょうぶ

確かに今は とてもとても つらいけれど

それでも あなたは だいじょうぶ だからね