カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

自死、という選択肢についての考察(1)

どうして死んじゃいけないのか、というテーマについては、その選択肢のまっただ中でもがいている人にとって

とても切実なテーマであることは、私自身も経験したので、重々、承知している。

だから、その「是非」については、本当は語る資格もないし、

語ったところで、納得はしてもらえないかも、とわかりつつ……。

そうなっていく「可能性」の問題や「結果」について、今日は考察してみたいと思う。

それがすなわち、今のところの私にとって「うん、無理して自死を選ばなくても……」と思う理由には

なっているように感じるから。

ただ、答えがない問題だから、今日はひとりごとのような、くだけた文章になると思う……。

すいません、その点はご了承ください。

そもそも自死、という行為そのものが、いいか悪いかなんて、絶対にひと言では語れないだろう。

歴史的にみても、武士はお家のための切腹が「アリ」だったし、明治~大正時代は恋愛心中も流行ったし、

神風特攻隊なんて……自死、とは言えないけど、みずから突っ込むことが国の名誉ですよ、名誉。

神風、知ってる? 「元寇」があった鎌倉時代に、元の船が2回も、日本海の荒れ模様で転覆しちゃって、

それを「神が日本を守ってくださっている」ってことになって、エライ学者さんとかまで、

それを信じ(たということになって)、戦時中、そういう名称がついたのだ。

はい、信心については、ここでは述べませんよ。人それぞれの解釈だから。

でも、そういう思いが根底にあって、荒れ海のような役目を人間が果たすことが「名誉」とされた時代はあったのだ。

……そう、過去を考えても、それがいいか悪いかなんてくくりでは、簡単に語れないのだ。

ただ、これだけは、事実だろうと思えること。

自死を選択するのは「苦しい」。

喜び勇んで、「やった、超ラッキー! これで本当に幸せになれるわっ♪」という気持ちで

それを選択する人はまずいないだろう。ドラッグで、自分をごまかしでもしない限り。

で、苦しいことは、いいことか? と聞かれたら、これは通常、あえて、お勧めはしないよね。

そこから学ぶことは本当にいろいろあるけど、「苦しみ」という学び方をする必要が、そもそもあるかどうか。

ほかに、もっといい学び方は、あるかもしれない。

さて。そのうえで書くよ。

私が、個人的に、できればその選択肢はやめておいたほうがいいのかも……と、

今のところ思える理由が、2つある。

そのひとつめ。

以前、「死にたい気持ちは脳のあやまち?
」というテーマで、ブログを書いた。

自死を望むのは脳みそのミスかも、という話だ。

これって結構、有力な説だと、私には思えるのだよ。

脳って、意外と簡単に、だまされやすいようなのだ。

たとえばこういう実験がある。割り箸を一本、横にして前歯で噛む。

口角の両端から、割り箸がはみ出すような感じね。

それで被験者に、しばらくそのままの状態でいてもらい、脳波をモニターしていく。

そうすると、脳から「楽しい、うれしい」っていう信号が、出始めるのだ。

なぜかというと

左右の口角が上がり続ける → 笑顔を作っているのと同じ → 楽しいと、感情で思っているようだ

って、脳が判断するからだ。

なんじゃそれ!? と思うでしょう。

暗い気分のときにこれを試しても、バカバカしくなって割り箸をくわえ続けられなくなるだろうから、

たぶん効果はイマイチだけど。

それに、何か行動しようと思う「ヤル気」だって、脳研究の池谷裕二氏によると「実際にやり始めてから出る」らしい。

行動し始めれば、その行動についてのヤル気が出て、継続・完成できる。

逆に言えば、やり始めるまで、ヤル気は出ないのだ……。

こんなふうに動作が先にきて脳が変化する、なんてこともある。

結構、いい加減な気がしない?

ってことは。

脳内の「楽しい、明るい気分になる」ための物質が、暗い気持ちを持ち続けて極端に減ってしまった結果、

脳みそが作動ミスを犯して、「死ぬかどうか」しか考えられなくなってしまう……ってことは、

十分、ありえると思うのだ。専門用語でこれを「視野狭窄(しやきょうさく)」っていうらしいんだけど。

ダメだから死にたくなるんじゃなくて、単純に物質的な変化のせいで「ダメ、死ぬ」しか考えられなくなるの。

理由が先、じゃなくて、脳が先。暗い気持ちを持ち続けた結果、脳が反応してそう思っちゃう。

しかもそれは「誤作動」。脳みその判断ミスの可能性が高いのだ。

で、なぜそんな誤作動をするかというと、これはもう、単純に、あなたが「病気」だから。

たとえばね。

風邪をひいて治ったあと、空気が乾燥してると、咳が出続けちゃうことってあるでしょう? 

これは炎症を起こしてるからだよね。それゆえ、信号が脳に達して、脳が判断して、咳を出す。

その場合は、マスクをして気管支内の水分を高めたり、咳止めを飲んだりするでしょう?

そうして、実際に咳を止めようとするよね。信号を、自分で止めるのだ。

ふつうの病気のときには、そうやって「脳の信号」を元通りにしようと素直に思えるのに、

どうして、「鬱」という病気のときには、自分が病気だと認められないのだろう。

自分の判断が正常でなくなることを、認めたくないのだろう。プライド? 恥? 迷惑?

あなたの思考パターンが、正常じゃなくなる病気であることは、間違いないのに。

そうやって、自死という選択肢すら一種の「病気」ゆえなんだと、私は考えるようになったわけです。

脳についての、この辺の話を知りたければ、本があるのでご紹介しておくね。

一応、アフェリアエイトを張っておくけど、大きい本屋さんなら在庫もあるかと思うので、

立ち読みでもしてみてください。以前の下園先生の本も張っておきます。

人はどうして死にたがるのか (サンマーク文庫)/下園 壮太
¥530
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のうだま―やる気の秘密/上大岡 トメ
¥1,260
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さて、私が考えるふたつめの理由は、これも何度か書いているけど、

「あなたの“味方”を巻き込み、ときには一生、ときにはその人まで立ち直れなくなるほど傷つける」から。

……これもまた、長くなりそうなので、明日以降に。

今は、生きているだけでも、支えに。

将来が不安でも、何も見えなくても、今は、生きていてください。

「生きてるだけで丸もうけ」であると実感している人たちにとって、

あなたが生きているという事実、それ自体が支えになります。

将来を悲観して死を選ばないことが、悲しみをひとつ減らし、人の気持ちを助けます。

あなたは今すでに、生きているだけで、十分、役に立てているのです。

怖ければ、泣いてください。不安だ、と声に出してください。

もし東日本から逃げたくて、逃げられる状態にあるなら、西日本へ逃げるのもひとつでしょう。

自分の心に優しくしてあげることは、今、日本中の人に必要なことだと、私には思えています。

決して、決して、恥ずかしいことではありません。

怒りを感じても、ちょっとだけ、待ってください。

東電の対応がひどいとしても、海水に晒されながら、曝露も覚悟しながら、

現実に、原発で必死にがんばっている人たちがいます。

被災地で寒さと夜の暗闇に震えている方々は、とにかく「電力」を求めていらっしゃるでしょう。

エアコンがある方なら、なおさらそれで暖をとりたい、と思っておられることでしょう。

ニュースの内容に疑問を感じても、あの場所で私たちに状況を伝えるため、

とどまって映像を流してくれている人たちがいます。

曝露を防ぐ食べもの、玄米、塩分、海草の情報を皆に伝えたい、と思っても、

屋内待避の方や避難所生活の方は、その情報を見るだけで、さらに不安が増すかもしれません。

そして食料不足が不安でも、被災地以外の地域が今は買い控えをしないと、

物資は本当に足りなくなっているのです。

今は、生きて、そっと静かに、やれることだけをする。

現地ではまだ倒壊した家屋等、危険なものがありすぎるため、できるボランティアも限られています。

苦情なら直接、電力会社や小売業界、メーカーのサイトに書き込めます。

自身のつらさや不安を解消しつつ、でも被災者の方の気持ちを最大限、考慮しつつ、

静かに生きて、自分のできることだけをやっていけたら、と、思えます。

いかがでしょうか。

「人として正しい」道。

私の親は、私を怒ったり、さとしたりするときに、

「正しい」「間違ってる」というニュアンスを含む言葉をよく使っていた。

「そうするのは間違ってる」

「こうするのが正しい」

「こう考えるのが正しい」

という感じ。それはまさに、「価値観」というヤツなのだけれど。

これが生き方として正しい、という一般論的な表現は、

わりと多かったように思う。

でも、大人になっていろいろなタイプの人に出会い、

自分が今まで『人としてこうあるべき』と信じていたことのいくつかは、

親からの「価値観」の受け売りなんだなあ、ということには、一応、気づき始めていた。

そして、生きざるを得なくなってから、心理学・その他の本などをいろいろ読んでいくうちに、

「正しいことはいくつもあって、全部、どれでもよいんだ」と、やっと思えた。

これしか正しくない、というのは、私が勝手に思い込んでいただけなんだ、と。

この「正しい」というのは、それこそ、

「真面目にコツコツ努力して生きていくことこそが、人として正しい」

「がんばれない人間はダメである」

「やるからには、きちんとする。手を抜いてはいけない」

といったような生き方の方針から、

「ご飯は三食、きちんと食べるべし」

「家事はきちんと、毎日行うべし」

といった日常生活の細部にまで及び、

それらが私の中にガッチリ、組み込まれていた。

例として上に書いた5つを、もう一度読んでほしい。

これ、すべて、鬱で休職しちゃうような状態になったら、

「まったくできなくなる」ことばかりなのだ。

実家に帰って療養する道が、私にあり得なかったのは、このためである。

全部だめ、しかも治る見込みなんてない。

私はあっという間に、お荷物、厄介者になるだけだ、迷惑だ、と。

しかもそのときの価値観では、私は「人として間違ってる」わけだから、

素直に「このままでは生きられない」という方向へ、頭が走っていってしまった。

言われてきたことはある意味、まっとうな、普通の範囲のこと。

なのに鬱という状態のせいで、こんなところからも完全自己否定である。

刷り込みされていたとはいえ、その思考回路は、いかに極端だったことか……。

でもこれが実は、鬱病の怖さでもあるのだ。

次は、鬱という病気、その極端な「頭のなかの状態」について、

書いてみたいと思う。