「人として正しい」道。

私の親は、私を怒ったり、さとしたりするときに、

「正しい」「間違ってる」というニュアンスを含む言葉をよく使っていた。

「そうするのは間違ってる」

「こうするのが正しい」

「こう考えるのが正しい」

という感じ。それはまさに、「価値観」というヤツなのだけれど。

これが生き方として正しい、という一般論的な表現は、

わりと多かったように思う。

でも、大人になっていろいろなタイプの人に出会い、

自分が今まで『人としてこうあるべき』と信じていたことのいくつかは、

親からの「価値観」の受け売りなんだなあ、ということには、一応、気づき始めていた。

そして、生きざるを得なくなってから、心理学・その他の本などをいろいろ読んでいくうちに、

「正しいことはいくつもあって、全部、どれでもよいんだ」と、やっと思えた。

これしか正しくない、というのは、私が勝手に思い込んでいただけなんだ、と。

この「正しい」というのは、それこそ、

「真面目にコツコツ努力して生きていくことこそが、人として正しい」

「がんばれない人間はダメである」

「やるからには、きちんとする。手を抜いてはいけない」

といったような生き方の方針から、

「ご飯は三食、きちんと食べるべし」

「家事はきちんと、毎日行うべし」

といった日常生活の細部にまで及び、

それらが私の中にガッチリ、組み込まれていた。

例として上に書いた5つを、もう一度読んでほしい。

これ、すべて、鬱で休職しちゃうような状態になったら、

「まったくできなくなる」ことばかりなのだ。

実家に帰って療養する道が、私にあり得なかったのは、このためである。

全部だめ、しかも治る見込みなんてない。

私はあっという間に、お荷物、厄介者になるだけだ、迷惑だ、と。

しかもそのときの価値観では、私は「人として間違ってる」わけだから、

素直に「このままでは生きられない」という方向へ、頭が走っていってしまった。

言われてきたことはある意味、まっとうな、普通の範囲のこと。

なのに鬱という状態のせいで、こんなところからも完全自己否定である。

刷り込みされていたとはいえ、その思考回路は、いかに極端だったことか……。

でもこれが実は、鬱病の怖さでもあるのだ。

次は、鬱という病気、その極端な「頭のなかの状態」について、

書いてみたいと思う。

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