カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

引き続き……明日があるということは

昨日の、続きです。

 

明日が来るのが普通である、という前提に立っていると、

死を望む人にはそれが苦痛になります。

 

この書き方でおわかりでしょうが、明日が来るのは、

厳密に言えば、前提条件にはなり得ません。

新聞の社会面を見れば、一目瞭然。

明日が来ない人も、たくさんおられらます。

新聞に載るような『事件』性のあるものだけでも、

毎日、死はたくさんあって。

 

寿命を迎えた方だけでなく、たまたま新聞に載ることはなくとも

事故で亡くなられる方は、毎日、どこかにおられます。

 

何より私たちは、3.11などの出来事も、身をもって知っているわけで。

つまり、明日という日が前提にできるというのは、

どこか、何かで『安定した環境は備えている』ことの証でもあります。

 

単純に考えても、戦争や内戦が勃発している地域なら、

私たちと同じようには、明日を前提にできませんよね。

家が、なくなるかもしれないし。

身内や友達が、いなくなるかもしれない。

建物ごと吹っ飛んで、あるエリアそのものが消滅してしまうかもしれない。

 

そういう恐怖心は、今は少なくとも、持たないでいられるわけです。

まあ、海外へ戦いに行くようになれば、どうなるかわかりませんけど、

とりあえず、今は。

 

で、明日を前提にしないで済むとしたら、あなたはとりあえず今日、

これからの時間、何をしたいですか?

 

明日は、あるかどうかわからないけれど、とりあえず。

 

その希望、できれば叶えてあげてみてください、自分のために。

それこそ、そんなこと考えるのは無理、寝たい、ということなら、

自分のために、それを「意識して」叶えてあげてもいいのだと思えます。

 

他のことを何もしたくないし、眠くもない人なら、

何もしないで過ごしてみることを意識するだけでも、いいかもしれません。

 

意識して、何もやらないことを、選ぶ。

私は森田療法を受けたことはありませんが、

「意識的に」何もしないことを、あえて自分で選び始めると、

確かに世界観は変わるだろうな、と思えます。

 

退屈しても、何もしないでいるのですから。

 

わざわざ、明日、などという時間の概念をセッティングしなくてもいい環境なら、

一度、徹底して、何もしないことを自分にゆるす、というのは、

アリな方法かな、と思えます。

 

仕事等の拘束時間がどうしても発生する人でも、

あえて何もしない時間を、自分のために作る。

30分などの短さでなく、できれば2時間以上くらい。

 

その間は『考えをめぐらせること』も極力、やめていいと思えます。

 

するとたぶんね、やがては辛くなります、その時間が。

何もしないでいる、ということは、基本的に

自分にとっては不自然なんだな、とわかるかと思います。

 

そんなふうにして、一つひとつ。

毎日、これをこういうふうにやりたいな、と思えることをやる。

それがないなら、自分で見つけられるようになるために、

あえて意識して、何もやらないことを試してみる。

 

もしかしたらこういうところから、

自分に嘘をつくことも、減っていくかもしれませんよ。

『意識して』という部分が、自分で自分を苦しめてしまう状態の人にとっては、

とてもよい練習になるように、私には感じられるのです。

 

最後に。

自分に嘘をつくことを意識しないでやるようになってしまうと、

とてもややこしい事態になる、ということを、

『カエル姉さん』さんが昨夜、説明してくれたように感じたので、

その記事もリンクしておきます。

 

この記事に、何か、引っかかるものを感じるなら。

自分の感情をなるべくごまかすことなく過ごすこと、また、

本当に「本心から」自分を喜ばせてあげることを、

少しだけでもいいから、自分のために、選んであげてくださいね。

 

◎カエル姉さん☆リライトで未来をカエル!心屋認定カウンセラー
「お金」と「罪悪感」と「被害者意識」
http://amba.to/1HMms7R

 

2015_05_28

Photo by NT-Design
ID:201410202300
GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0

 

明日があるという辛さ

鬱の病で、自分の死を願う人にとって

『明日があるという事実』が

ものすごく苦痛であることは、

私も経験しています。

 

このままではイヤだ、と思う気力すら、

自分にはもう湧かない、と素直に思えるでしょう。

 

本当は、そんなときだからこそ、

徹底して、自分に優しくしてあげてよいのです。

そこまで、自分を傷めてしまっているからこそ。

 

今は、そう思えなくても、

自分は本当は、まだまだ捨てたもの、

ではないのです。

 

今はそんな言葉すら、

聞きたくないかもしれませんが、

鬱による苦しみは、

本当は、永遠、ではありません。

 

永遠だと思う気持ちもわかりますが、

あなたが、抜け出したくなったときから、

永遠ではなくなり始めます。

 

そのためには、薬の加減だけでなく、

何を自分のためにしてよいのか、を、

自分に許可することが大切になっていきますが、

そういうふうに工夫することで、

本当は、死という究極の苦しみへたどり着く道を、

選ばなくてもよいのです。

 

人には、必ず平等に、命を終わらせる瞬間が訪れます。

そこは誰にも変えられません。

生きものであるから、必ず死はやってきます。

 

ならば逃げ出すために、

先に死を選んでもいいじゃないか、と

私も考えていましたが、

死に至るまでの苦しみが怖すぎて、

その道を選べませんでした。

 

そして私は、それさえ選べない自分の弱さを、

自分で罵倒していました。

 

が、しかし。

私の場合は、ですが、

周囲の環境が激変して、自ら先に死ぬという選択が

できなくなったあとで、それもかなりあとで、

気づいたのです。

 

あそこで死へ逃げていたら、

私は一生、自分を許さないままで、

終わってしまっていたのだな、と。

その奥に潜んでいた、自分が見ないようにしていたこと。

その「意味」がわかったから、私は言います。

 

その『許さないほう』を 選ばなくても

本当は

だいじょうぶ だよ 

と。

 

2015_05_27

Photo by ゆんフリー写真素材集

 

『自己否定』自体は「非難しない」練習

今日は、鬱の方に向けて語ります。

 

鬱という「状態に入っている」ときは、

脳みその作動がどうしても、暗い思考回路のほうを大きく開き、

明るいほうは細々とさせてしまうことが、確かにあると思います。

 

医学的にはドーパミンの放出量が減っていることなどが指摘されていますが、

治療においては、この薬剤なら万人に必ず有効、という類のものはなく、

そのため、自分の状態に応じていろいろな薬を少しずつ試しながら、

複数を使い分けている方もおられるでしょう。

 

私の場合は最初にいくつかの薬を試しましたが、

正直、どの薬も「効いた感じ」がはっきりとはしなかったため、

主に副作用のほうを考慮して、単体の薬剤と、

睡眠薬、胃薬、という組み合わせになりました。

医師からは、もし希死念慮などがこの先、ひどくなるようなら、

頓服薬的に使えるものも試してみましょう、と言われていました。

 

実際には2ヵ月後、事故による友人の急死が、

とりあえずそんなことを言っていられないような気持ちに私をさせ、

そのさらに半年後、知人が自死したために、

どんなに時間がかかっても「回復する以外の道」は、気持ちのうえで選べなくなりました。

 

薬の効果を待つよりも、回復する方法をちゃんと探さないと……という思い。

もちろん、薬はずっと、飲んではいましたけれどね。

少しは効いてるかな、と思えたのは、睡眠薬のほうでしたわ……。

 

と、なぜ、薬の話をしているかというと、

私の場合は、ですが、死ねなくなったと自分でハッキリ思い込んだことが、

実はいちばん効果のある『薬』だったのではないかと思えるからです。

 

鬱は心に関係する病なので、自分の「心情」が変化すれば、

それは当然、病の「症状の出方」にいろいろと作用するでしょう。

このことは、鬱という状態を過ごしている方なら、

当たり前のように理解してもらえるはず。

何らかの出来事だけでなく、たとえば朝、お日さまが昇るだけでも

自分の気持ちが変化し、それによって自分の思いの暗さや症状が変わります。

 

もちろん『思い込んだのが幸いしたんだな』なんてことは、

私もかなりあとになってから感じたわけで、

思い込んだのちにすぐ、何かが変化したわけでもありません。

 

むしろ当時は、だからといって何をどうしたらいいのかさっぱりわからず、

死にたい気持ちが翌日からきっぱり消え去る、なんてこともなかったので、

困り切っていた……というのが、いちばん正しい表現かもしれません。

 

ただ、友人の死の半年後に亡くなった知人が、

どれくらい苦しんでそれを選択したかはありありと想像できたので、

その人に対する恨み言だけは、全然、浮かんできませんでした。

 

『死』という選択肢が身近に思い浮かぶことは、

その知人との間でも話題になっていました。

これほど簡単に、するりと自分が、死という選択肢を持ったこと自体に、

最初は驚いていました。

 

ただ、それを本当に「やるかどうか」、実行そのものは

自分の勇気、諦め、未練、悔しさ、虚しさ、等々が

絡み合った試験問題みたいに思えて。

考えることと、やることは、別ものの話でした……私にはね。

そんなふうに「別もの」に感じるというのも、なってみて初めて知ったこと。

 

そしてまた。

自分の状態を、私はビジュアルでもイメージしていました。

 

まず「死んでもよかったとき」、というより、

私が生きているなんて迷惑なだけ、

だからいつ実行するかはともかく、死以外の選択肢は残されていない、

と思えていたとき。

光がほとんど差さないトンネルの中に自分がいて、

向こうのほうにはうっすら、光が見えていて、あれがきっと出口で……。

 

その出口は出た瞬間、道がT字路になっているように思えて、

たぶん右に曲がれば死、左に曲がれば生。

それくらい、あっさりと単純な二者択一のように感じていました。

 

ただ、そのトンネルの出口にたどり着ける勇気が私にはまだなくて、

出口の数十メートル手前で立ち止まっている……ような感覚。

 

だから知人が、亡くなったときは、

ああ、出口に行ってみて、右に曲がってみようと決めて、

それがたまたま、上手くいってしまったんだな……と思えて。

実行したところで、必ずしも成功するとは限らないことも

知識としては理解していたため、

「そうか、やってみたら成功してしまったのね……」というふうに、

なぜか感じていました。

 

そしてその知人の自死により、私はさらに、

トンネル内に立ち止まることができなくなったと思え……。

相変わらず死というものは、私の身近にいたけれど、

単にそっちへ私が曲がれない、と決めただけ、みたいな感じでした。

 

その後、知人の死による社内の大混乱があり、

それが落ち着いたころからの、次の自己イメージ。

私は『藻がいっぱい生えて濁っている川の中』にいる、小さな魚みたいなもの。

水は黄土色で視界が悪いから、まわりに何があるかはわからない。

見えないし、どうすればいいかもわからない。

とりあえずは藻の中にいて、ひたすら、口をパクパクさせながら、

その場所にとどまっている魚。

 

幸い、お日さまの光はうっすら届いていて、

真っ暗ではなかったのですが……。

2015_04_28_1

Photo by ウィキペディアコモンズ

これのね、もっと水が黄色く濁った状況。まわりの他の魚も見えないで。

何とも曖昧な、ぼんやりした感じでした。

 

そのイメージを持っているうちに、でも、

このままではラチがあかない、と、

回復への学びを深めようともし始めたのです。

 

やがて、頑張りすぎていた自分が『なぜそんなに力んでいたか』を

探ってみるのがよいように感じられ、さらにあれこれ、本やブログをたどり、

カウンセリングなどもいくつか受けて。

 

ダメであってもよい自分

ダメ、をたくさん決めつけていた自分

勘違いしまくっていた自分

 

に、いろいろな角度から気づけていけました。

私はものすごいレベルの『井の中の蛙』だったなあ、とも思えて、

それを笑ってゆるせるようにも、なっていったのです。

 

私がどんなふうに、漠然とした中を手探りで進んでいたか、

少しは伝わったでしょうか。

これかな、と思えるものを、ジワジワと探していった感覚。

あるキッカケでいきなりうまくいって、ばく進できたわけではありません。

一歩進んで二歩下がって、一歩進んで一歩下がって、二歩進んで一歩下がって。

それを、自分にゆるした……のです。

だって、本当はきっと死んだほうがよい程度の、ダメ人間だと感じていたから。

ダメ人間だからこそ、ダメでもともと、という開き直りを、

できたのかもしれません。

 

そういう意味では、この病に「ハッキリした解決策」なんてものは

もしかしたらなくて、ただ、なんらかのキッカケにより

自分の気持ちに変化が生まれることで、

たまたまそこから、ダメな自分をゆるす、という練習が始まるのかも、と

私には思えています。

 

他者と比較したところで、死にたくなるほどダメになっている自分が、

そもそも勝てるはず、ないんです。

そこの視点にしか、とどまれないうちに

自分が何らかの点で優秀になろう、何かを得ることで自分を認めようと努力する、

そういう部分でいくら、もがいても、あがいても、

自分を素晴らしいと思えるようになる夢なんて、叶うはず、ないのです。

だって基本の自己イメージが、ものすごい低さなのですから。

 

普段から、どこかで自己否定していたから、鬱という病に到ったのです。

そんなつもりだと自分ではよく知らなかった私も、

フタを開けてみたら、否定的な意識、てんこ盛りで。

 

でも、フタを開けてみようとするためには、

結局、否定的な自分を探ってみるしかなかったのです。

 

ダメな自分であること、それを常に、あるいは

何かあるたびにガンガン、自分でバカにし続ける限り、

たぶん鬱からも抜けられないし、ずっと井の中の蛙で、

ずっと、希死念慮につきまとわれたままなのかも……と、想像しています。

 

つまり、そのままでいることを、選ばなくていいんですよ。

他者と比較したところで負けるとわかっていて、

その否定的なまま、何かどこかに達してみようと、あがき続けなくていいのです。

 

そこから脱する、そのために必要なのは、きっと

自己否定につながる暗い気持ちのスイッチが入ったときに、

それを『鬱という病の症状』だと、ある意味、割り切ってしまうことなんだろうと、

今の私には思えます。

 

最初はとくに、どうしようもない中で、そこから変えていくしかないのです。

暗い気分になったとき、そんな意識になる自分を、さらに自分でバカにする。

その習慣自体をやめてみるくらいしか、最初はできないのでは、とも思えるのです。

 

もちろん、暗い気持ちは、めちゃくちゃ居心地が悪いです。

でもそこでイライラして、悲しんで、自分を罵倒しても、なぜなのよ、と暴れても、

鬱という病は、たぶん良くなりません。

その『自己否定する自分』を、『さらに罵倒』したところで、

自分の状態は変わらず、かえって疲れるだけです。

すると、病の症状として悪化することはあっても、

改善にはなかなか向かわないように思うのです。

 

自身では叱咤、の方法で激励しているつもりでも、

暗い気持ちのスイッチは、

ダメ、という言葉のほうに反応して

うっかり入ってしまうかもしれません。

 

暗くてダメな自分を、それ以上、非難しない。

罵倒し始めたら、やめることを選択する『勇気』を持つ。

それを繰り返してしまう自分のことも、批判しない。

イライラするくらいなら寝る、歌う。

無理やりにでも切り替えるくらいに、何か他の簡単なことをする。

 

酒、薬、自傷行為にも、頼りまくらない。

やってしまったときは責めない。

それくらい自分を痛めつけてしまうこと、

その『症状が起こっている状態である』ことのほうを、自分で認めてみる。

ゆるすのは、そっちです。自分の今の状態、のほう。

食べもの、飲み物の『量』で結果的に改善していくことではありません

(そういう手段に頼ると、逆により悪化する可能性が高いことは、

とてもよく知られていますよね)。

 

あなたが自分を「否定してしまう症状」、それ自体は今、仕方ないのです。

その状態を、またさらに自身で非難し続けるからこそ、

よけいにねじれて、らせん状にぐるぐるするだけで、長引くのです。

 

そんなことするくらいなら、暗くてバカな自分のままでいてください。

その状態を、採点すること自体、やめてください。

 

どうか、

もう、

やめて、

あげて、

ください。

 

あなたが、そこから脱するキッカケ、

それに気づいていく『チャンス』を、

あなた自身で、潰さないであげてください。

 

今は ダメ なまま でいいのです。

そういう、病なのですから。

批判でなく放置で構わないのです。

 

そこをまず放置していければ、私がここで『今はダメ』をあえて強調した理由に、

やがてあなた自身が、気づけます。きっと、必ず。

 

あなたは、自分を変える力をすでに持っている。

だからマイナスの方向である鬱にも、なった。

あなたが今、鬱だからこそ、あなたがすごい力を「すでに」秘めていることを

私も『知っている』と、言えるのです。

 

なので本当に、だいじょうぶ、なのですよ。

 

追伸:

ごくたまに、悲劇の主人公で居続けることで

中毒的にウットリと安心される方もおられますが、

そのままいくと、単に一生、悲劇の中で生きていかなくてはならないだけです。

出来事の悲しさの度合い、そうした派手さと、自分の良さを引き換えにすること、

『普段の自分をますます、つまらない人間と感じさせていく』罠に堕ちておられること、

そうした自分イジメのくだらなさ、レベルの低さに、

いつか気づかれますことを、心からお祈り申し上げます。

 

2015_04_28_2

Photo by ergiu Bacioiu
No.010005076
cc-library