カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

恥ずかしいから、怖いから、ウケたいから……

最近、私は、自分の女性らしさ、の部分を

どうすれば『もっと居心地よく』自分に納得させられるか(笑)、

ということを、気に留めるようになり。

 

参考になるかな、と思って、

愛らしい感じの人を観察してみたのですが。

 

観察してみてわかったのは、

 

気に入られたいから、

嫌われるのが怖いから、

という土台から、やっておられるものは

私の参考には、全くならない。

 

ということでございました。

まさか「女性らしさ」を知ろうとして

代わりに、自分の笑いの持ちネタを増やすことになろうとは(笑)、

思ってもみなかったけれど。

 

それはしなくていいよー

 

って神様が明るく(笑)教えてくれたんだわ、と。

 

「怖がる気持ち」って、

とんでもない方向へ自分を連れていくんだなぁ、

と、改めて知る結果にもなったし、

うん、結局、自分を丁寧に扱ってみようとすることって、

どんな形であろうとも、

ちゃんとムダにはならないように仕組まれている……、

と再び、感謝もできた次第です。

 

私がなりたいものを、私が選ぶ。

 

誰に決めてもらう必要もなく、

誰に気に入ってもらう必要もなく、

やった「あと」で生まれるうれしさや喜びのみ、を

『私が』選択すればいいだけの話なのだ。

 

とりとめのない表現だけれど、

そんなふうに思えた経験でもあったな……。

 

やっぱり、自分をいろいろな方向からゆるめて、

自分が望むものはつまり、すでに内側に芽があることを、

自分にもっとたくさん、感じさせてあげようと思います。

心が喜ぶこと、心地よいものだけ、参考にしよう。

ちゃんちゃん(*^^*) ←オチはココだったよ(笑)

 

2016_03_05

Photo by werner22brigitte
Pixabay

 

嫉妬=自分の『現実』を見たくない、さらに……

起業カウンセラーであり、心のセラピストでもある

大野木さんの、この記事を読んで

◎大野木睦子さん
「おまえに嫉妬とは何か、教えてやる。」
http://ow.ly/WrtGY

嫉妬って、

自分では今、できていないことを

自分で認めるのが「本当は」怖いから

他人に転嫁する部分、あるよな……、

と、改めて思った。

 

で、そういう転嫁についてもさ、

認めたくないのは甘えだ! とか

おかしい!

わかってないよ!

などといった批判を浴びせるだけなら、そりゃ誰でもできることで。

 

これを、自分に対してやっている人は

(自己批判・自己非難ね)、嫉妬のさらにその奥側のほうに、

「だってどうせ私は」ダメだし

をいつも抱えているんだよな、と。

 

嫉妬したとき、このままでは何となくダメ、程度なら

それ本当に、ダメだと感じているの? どんなふうに?

という部分からも、

問いかけることは、できるけれど。

 

鬱にまでなっている人だと(なっていない人でもときに)、

自分を心底、嫌っているから、

そんな問いかけをしても(本当にダメ? も一応、心の奥の話だけれど)

だって

どうせ

でも実際に!

だからといって!

という、堂々めぐりの答えしか出ないのだよね……。

過去の私もそうでしたわ。

 

だから、そこまで自分を嫌っている人は、

目の前の問題解決を目指す以前、

何とか改善! を目指す前に、

 

そもそもなぜ、

自分のことをそこまで、ダメでどうしようもなくて嫌いだと

信じている わけ?

という、その方にとっては、

さらに奥の、ものすごく痛い部分を

いずれ、見つめてもらう必要はあるのです。

 

そこを見たくないから、もろもろがズレていき、

いろいろな嫉妬も起こる場合がある……。

 

これ、奥のほうから逆に、捉え直してみるね。

 

自分の一番根底にある、もともとの自己卑下は

いつも当たり前のものとして、放置している

→ 現実問題で発生する問題

→ (例えば)悔しい、どうせ私には無理、できない……あの人はできているのに

→ 嫉妬

 

こんなふうに、奥に何を抱えていても、

現実問題はいつも2番目以降のことだから、

それらだけで表面的に捉えていると、

うらやましい、のあと、

せいぜい、反省して、私も何とかしなくちゃ、と

そのあたりでウロウロして試行錯誤ばかり。

あるいは試行錯誤もできなくて、そんな自分を罵倒。

で、いつも終わっちゃっては、いないかな。

 

2番目以降を何とかしようとしても、

土台が「『当然レベル』の自己嫌悪」なのだから、

何かのキッカケがあれば積み上げたものは、雪崩のように崩れるのよ。

で、勢い、他のモノ(自分以外のモノ)で

何とか埋め合わせしよう、なども始めたり。

 

嫉妬したときに、せっかく、このままではダメ、と言って

これをしてみよう

こうなってみよう

こう心がけてみよう

これを手に入れれば

あれになれば

これをできるようになれば

 

ってやっていっても、自分を嫌ったまま、がくっついていると、

本当の意味では解決には至らないのです。

 

もう少し、説明してみるね。

見春屋でお手伝いさせてもらっている私が

いつも感じるのだけれど、

私に告白してくださる側は、出来事などから、

さらにその奥の自分の気持ちについて

話をすることになる場合が多いのです。そのとき、

とんでもなく嫌な自分、を、
他者に打ち明ける

ってことにも、チャレンジしてくれているなあ……と。

 

それっていつも、すごい! と思えます。

だから私も、そのたびに、

私に話してくださる意味、を、真摯に捉えながら、向き合っています。

 

つまりね、何が言いたいかというと、

嫉妬しちゃったわ

→ こんな自分なんて(また)ダメだわ

 

が繰り返されているなら、それこそがまさに

自分についての深い深い気づき、のチャンスだよ、ってこと。

 

(また)の部分が、いつもくっついてくる人は、

その思いを何度も繰り返してきているはずです。

 

どんなふうに繰り返しているのかというと、

表面に現れた問題を、

自分の思い込み……私はダメ人間、の

『強化』『証拠』に、最初に変換しているの。

 

問題自体をまず『自己卑下に使える現実的な証拠』として捉え、

その「あと」から、それらの問題へ対処しようとする。

いつも先に、そうやって、

現実の問題に、余計な視点をくっつけているのです。

 

すると結局は、目の前に現れてきた問題も、

自分の奥の、また奥にある根っこの思い込みも、当然、

美しく(とてもよい形で)解決することは、なかなかできにくくなる。

しかもその場合、いろいろな思い込みの色眼鏡も、入りやすくなるしね。

 

とはいえ、たとえば「嫉妬から湧き起こる『いつも私は……』な感覚」は

あるわけだから、そこで本気になって、自分の内側を整理し始めれば、

奥の土台のほうの問題へつなげられる糸口は、

必ずちゃんとつかめる、方向性は見えているのです。

 

だから今すぐに、とは言わないけれど、

信頼できる人に、いずれは

『自分で自分を変えるために』土台のほうまで全部、明かしてみる、

そうすることで、自分の奥を見つめる手助けを求める

(整理は手伝ってもらえても、気づいていくのは自分でしかできないからね)、

その勇気を出してもらえれば、と願います。

 

表面でクルクルしているだけでは、もう、

苦しいままだと気づいているのなら、なおさら……。

 

2015_12_30

Photo by Simon
Pixabay

 

余計なこと、してますが(笑)

このブログを書くことを中心に、

私は、ときに、気持ちが赴くままに話しかけています。

特定の誰かに、の場合もある。

 

この話しかけは、私にとって

ドキドキ、ワクワク、ウキャー!

という類のものではありません。

決して『刺激』ではないのです。

 

誰かの記事を読んだりして、

自分の中に、湧いてくるものがある。

そうすると、私はそれを、文章にしたくなります。

 

ときには、怒りに近いものを感じることもあるけれど

(「他者に対する非難、批判」ばかりが続く記事とかね)、

それを「いやいや、これもまた、それぞれの方に必要な過程であって、

そこを私が邪魔するのも違うし、批判の批判は同じことが続くだけ。

拾うとしたらそこじゃないんだ」と思い直すことで、

自分は、ならば何を大切に感じるか、という見つめ直しに使えたりする。

そうすると、また、書きたいことが湧いてくるわけです。

 

まあ、もちろん私も聖人君子ではないので(笑)

はっきりしたキツイ意見も書くし、

残念だ、と思ったその気持ちを「残念だわ、私とは違うわ」って

表現することもあります。

 

それは、まさに私にとって必要な過程なのだと思えるので、

書きたいときは、隠さずに書く。

 

書いていない秘密も、もちろんある(笑)けれど、

そういうことまで含めて、自分なのです。

 

そして、この年末にひとつ、

来年早々も、たぶんだけれど、ひとつ。

自分にとっては「荒波」になるかもしれないな、

と感じられる局面に、私は向かうでしょう。

さらにきっと、5月頃にももうひとつ。

 

これは今のところの予定として見えているもので、

もちろん、大きな荒波にするつもりもないけれど、

波が来たら来たで、まずはそれに合う、

波乗りボードを選ぶつもりで

(別に私はサーファーではないけれど)、

向かってみるしかない、と思えています。

 

なぜなら、私に起こるすべては、

『自分のため』に通る過程なのだということを、

私はもう「知っている」から。

 

うまくいけばカヌーを持てるかもしれないし、

それどころか豪華客船にめぐり合うかもしれない。

逆に、ボードだと思っていたものが、ただの板切れになるかもしれない。

 

それもまた、私の選択なのです。怖いもの、ではなく、学び。

 

そうして、波を越えていく経験のなかで、私が感じられたことは、

たぶんまたここで、何らかの形で

はき出されることになるでしょう。

 

ここで勝手な語りかけの文章を綴るという、ある見方をすれば

本当に余計なことをしているのだけれど、

たまに、それを拾って、ご自身の

糧にしてくださる人に出会えると、

書いてみてよかった、そう受け止めてくださって

本当にありがとう、と思えます。

 

そしてそれが、私にも、力を与えてくれるのです。

 

ということで、2011年の2月から始めた

このブログは、私の心に、

静かで温かい光をときに届けてくれる、

とても貴重な場となっています。

 

少し早いけれど、今年も、

読んでくださった方に、心から感謝いたします。

 

年末にも記事を書くかもしれないですが、

一足早く、年の終わりのごあいさつを

お伝えしたくなった次第。

 

毎度のことながら、今年も、

余計なお節介をしてすみませんでした。

懲りずにまだ続けますので(笑)、

これからもどうぞ、

よろしくお願いいたします。

 

この1年、私のブログを訪れてくださったすべての方に、

改めて、心から御礼申し上げます。

 

2015_12_28

Photo by foulline
Pixabay