カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

自分をいじめるも助けるも 選択は自由

今の状態 もしつらければ 

その苦しみを 苦しみとして

丸々受け止め続けていくほうを 

やめてもいいし

変わっていくことが まだ恐ければ 

もうしばらく同じ方法 続けてもいい

 

やめられないのは

思い込み が何か あるから とか

脳みそが疲れてるから かもしれない

 

やめられない その理由を探ってもいいし

そのためのパワーを

今はまず チャージするために

寝て 食べて 遊んで 

ひたすら ラクに 過ごしてみてもいい

笑えそうなことしてもいいのよ

落語でも 聞いてみるのはどう?

 

苦しみを 苦しみのまま ますます

自分に深く刻みつけるのも アリだし

そこから 何か 学んでみよう

新しい受け止め方 探してみよう

って捉えるのもアリ

全部 自分が どれでも選べる

 

あ はい もちろん 選ぼうっていう気になれば ね

 

たとえばここ1週間の私

某氏の作った 手抜き書類を

ウガー とか 心で叫びながら整理して

やってみるしかなーい! とチャレンジして

どこが情報として 漏れているか

どこが見落とすと 危険なのか

どうやったら 上手く仕事が廻るのか

 

工夫して はー と ため息も 

たまにはつきつつ 整理して 調べて

 

やったー どこが漏れているか 細かくわかったー

となったら あとは単純に 埋めていけばよくて

 

うんうん よくまとめられたよ 私

と思えれば

あら不思議 手抜き書類の発生源の人には

そういや 恨みは最初から湧いてない

 

そういう意味では今回

ハナから 諦めてたもんねー

これはややこしさ大爆発で 仕方ない って

 

私も慣れてないし 

実はその流れ自体 昨年よりさらに色々

確認しなくちゃいけない部分 増えてたもの

 

ま これは皆が 混乱する元にしか なってないから

やれる範囲でジワジワ 攻略するしかないわって

RPGゲームよろしく ていねいに組み立てていったら

はー なんとか第一段階 クリアだぞ

 

そういうゲーム感覚 そういや昔も よくやってたな

昔はほめてほしかったから やってて

今は 自分が

面白さを あえて感じるために 

いつの間にか ゲーム化させてた

 

で 今のほうが 断然 楽しい!

だって私が 自分の仕事をラクにするために

自分が今後 簡単に仕事できるために

やってるんだもん

クリアできたら ラクになる道筋もまた見えて

そりゃスッキリサッパリもするさ

 

そうなの 恨む前に 楽しむ

自分が飛び込んで クリエイトする

それって私には

新しいやり方 知らなかったやり方

 

そういうことも 選べるのね と実感した

ま のんびりやったから 効率は悪かったけどね(笑)

自分だけの 密かなゲーム感覚であって

経験値上げるためなんだから 別にいいんだー

こんなふうに 自分や他者を「責めない」で

仕事のほうを好きなペースで「攻める」やり方も できるんだね

成功Loveの 認められたがり屋の私が やってるんだよ?

それを実際にやる機会 

やってみて初めて気づける機会

与えてもらったのかも

ありがとう!

2015_04_30

Photo by 無料ゲーム! フラッシュゲーム

 

酸いも甘いも 噛み分けて

花も嵐も 踏み越えて

いいことも 悪いことも

『意識して 自分があえて 楽しんで 味わう』

そんなことも私 もうできるんだよ!?

鬱を経験しなかったら 一生

気づけなかったわ 私の場合

 

なんか ありがたい話……

 

何を選ぶも 自由自在

もう一度言うよ

だから苦しみを 苦しみのままの形状で

味わうことも やめていいのよ

 

そのために チャレンジしてね

達成ではない

楽天でもない

自分のための 楽観 への道

 

味わう という流れへ進んでいくための

あなたなりの 導入部分に

いつか チャレンジしてみてね

 

自己の罪

暴いてみたら

それってさ

罪ではなくて

思い込みだわ

 

そういうことも自分に いつか

感じさせてあげるとラクになれるよ

 

あなたの自分に対するそれ

本当に 罪じゃなくて

本当に 悪でもなくて

十中八九までは

ただの 決めつけた思い込みだから

 

残りの一 二 だけ

あとから 解決できるよ

あとから ね それでだいじょうぶ

 

 

「自分の気持ちを大事にする」っていうのは……

自分の気持ちを

いちばん大切に なんかしたら

自分のことしか考えないという

自分勝手な『ワガママ』と

即 イコールになる

 

そう捉えて 自分の気持ちを

きちんと ていねいに扱うこと

怖がる人 いるようだけれど

 

逆に 自分の気持ちをちょっとしか「感じない」で

言いたいことも 半分くらいにして

それで相手がどう受け止めるかを 見つめすぎるほうが

私から見れば よほど

『自分だけを見る』の罠に 陥ってると思えるよ

 

だってそれ つまりは

自分がどう思われるか

を いちばん 大事にしてるから

 

相手の「気持ちの奥」にある

『なぜあなたはそう感じるか』のところは

あとからしか 見ようとしないもの

 

反応された部分を まずまっ先に捉えて

「ああ そう思われた」

「そう受け取られた」

「そんな人間だと思われた」

そっちの 自分に対する評価のほうで まず頭が いっぱいになって

次に自分が『どんな人間だと受け止められたか』の詳細を 必死で捉えて

そこに起こった誤解やズレを解くには?

あるいはうまく反論するには?

と 対策を考える

 

……ね? 自分のことで頭いっぱい っていうよね それ

自分への評価の部分だけ 見つめてるって言えるよね

 

「私は こう感じるの」

「あなたは そう感じるのね」

そんなていねいなキャッチボールは しなくなってるってことだから

 

またさ 自分が感じることを 大事にしないで伝えない

そういうキャッチボールを 大切にしないままでいると 

全員が全員ではないけれど 中には たまにさ 

何かが起こって 今度は 自分が後ろめたくなったときにも

勝手に自分の内側だけで

仕方ないよ だって私 こんなにたいへんなんだから

ゆるされるよね いいよね って自分を「正当化」して

相手には説明しないで それこそワガママな振る舞いして

そこを突っ込まれたら 逆ギレする人もいるんだよ

 

相手に 後ろめたいその思いを 伝えなかったのは 自分なのに

わかってくれると思ってた! って 怒り出す

 

まあそれではね そりゃあれこれ 問題起きますよ

結果として 自分が感じることも

相手が感じた その根本のところも

大切に扱わない 全然 大事にしないからね

 

たとえ最初は怖くて 難しかったとしても

あるいは疲れていて どうしても説明が面倒なときでも

あとで逆ギレするくらいなら その前に

ごめんなさい 今は説明 無理

でいいんだよ そこはせめて 伝えなよ

 

そしてもし 相手の受け止め方が 自分の意図とズレていたら

そのズレ「私は悲しい」よね?

ならば まず「悲しい」って 伝えていいんだよ

 

どう思われたから こう だの

それはきっと ああだから だの

説明や言い訳を思いつくより先に

私はそれ 悲しい って まず素直に伝えなよ

 

あるいはさ 自分の意図とのズレを合わせる

そんな「つじつま」部分の説明さえできず

もう 相手の顔色 うかがうことが

顔色に合わせて 話すこと変えるほうが

いちばん問題なく過ごせるから とか思ってる?

 

あのさ 私の知っている範囲で

そういう 相手の顔色だけが 本当に大切だったと話してくれたのは

相手からの一方的な暴力を受けて おびえていた人とか

ある理由からどうしてもしばらくは そこに勤め続けなくてはいけないのに

相手がものすごくワンマンな雇い主だとか

あるいはもう お金のためと割り切っているがゆえの

すごい上顧客の人への追随 おべんちゃら とか……

 

自分の過去の苦しみとして そうした話をしてくれた人たちは

ブログや著書や講演で それがいかに偏りを持っている苦しみだったかの実例として

自身の体験を伝えてくださり

それぞれそのとき 大きな問題を抱えていて

本当に 命を護るためだったとか

本当に お金がそのときどうしても必要だったから とか

そうした すごく明確な意識で 

自分が感じることの『封印』

あえて わざと やっておられたんだよね……

 

それは ある種の 覚悟を持った割り切りだった

それもまた 自分を護るための選択だったの

その人たちは 自分の存在の根源 護るために

そのとき 割り切って 覚悟持って 気持ちを封印してたんだ

だから自分の気持ちは 感じないと「決めること」ができていた

 

自分の気持ちを 大切にしないっていうのは

意識してやるなら それくらいの覚悟が必要で

辛くて たいへんなことなんだよ……

 

でも 日常において

自分が感じることを 大切にしない人は

そんな覚悟や決意までは していないだろうから

ただ ひたすら おかしな具合のことが起こって

問題がねじれていって たいへんなだけになると思えるんだ

 

だって私は私のこと 嫌いなんだもん!

そんな 大切になんか したくないんだもん!

こんな私みたいな人間にそんなこと する気になれない できるはずない!

うん そう言い切れるのなら さ

なぜ 相手に

自分を大事にしてほしいって 望むのだろう?

自分ではやらないことを なぜ他人に 求めるんだろう?

そこは 矛盾してるよね

 

そして何より

あなたが大切でないものを 他人が大事にしてくれたところで

あなたは 本当に心からは 喜べないよ

だって 信じきれないもの それ

泥団子にダイヤモンドの膜を かぶせたような具合に感じられて

誤解してるんじゃないだろうか

今だけじゃないだろうか

またすぐ 悪いところがバレて

嫌われるんじゃないだろうか ってね

 

せっかく目の前の相手が 

あなたを今 まさに

大切にしてくれているのに

あなたの不安 消えないままなんだよ

 

だからさ あなたがもし 自分のこと 大切にしてほしいって

相手に対して今 本気で望んでいるのなら

そして自分の気持ちを「感じる」ことを

命がけの問題として抱えたある理由から 封印しているのではないなら

(もし封印している場合は まずその環境から離れることが何よりも優先

物理的に対処できる部分を まっ先に実行することが いちばん重要だよ)

 

あなたが 誰よりも先に

自分を大切にして いいんだよ

自分を大事にして いいんだよ

というより あなたが自分を嫌うことを やめるのが先なんだよ

 

大嫌いな自分 

そこをきちんと 見つめてみようよ

なぜ そこまで 否定しなくちゃいけなくなったか

なぜ そこまで 嫌わなくてはいけない存在なのか

ひも解く必要があるのは そっちだよ

 

なぜ 私は他人の顔色ばかり うかがってしまうのだろう

なぜ 自信がないのだろう

どうすれば 他人の顔色 うかがわないようになれるのだろう

解きほぐすべき問題は その部分じゃないんだよ

 

あなたが今 まさに思い込んでいる

ダメな自分 どうしようもない自分

そっちのほうだ

 

自分のダメさは 自分のひどさは

自分がいちばんよくわかってる?

 

本当にダメで 本当にひどい人って

自分のことしか 考えてないよ

自分のこと どこか嫌ってるけど

それはもうまったく 見ないことにして

自分のことだけ 可愛がってるよ 表面上はね

そしてそれを貫くためにも

特定の人物以外の その他の顔色なんて うかがわない

 

だからさ たとえば振り込め詐欺だって お手伝いできるの

自分はお金儲かるもんね いいもんね って正当化して

そういう方面のひどさを 発揮できる

 

見る人が見れば そういうひどさだって

かなりの Help me! な

SOS信号なんだけれどね

まあ その話は 今はいいや

 

つまりはさ 自分が嫌い! って明確に意識できる人は

本来の意味では ひどい人ではない

ということは あなたは いや あなたがたぶんいちばん

自分のことを 今 わかっていない

 

そう『今は』だけれど

いちばん自分のことを 理解していないと

私には ごめん 思えるよ

 

そしてまた 自分を嫌いと思えてしまう

その気持ち自体が どれくらい苦しいことかは

私も 過去に知って それが苦しかったからこそ

「自分の思い込み」にも気づけたんだ

 

苦しみって 自分を知るきっかけにもできるよ

わかっていなかったことを 気づけるよ

私自身の話だけじゃなく そんな例が 本当にたくさんあると 学んできて

だからこそ今 私もまた あなたは自分のことわかってないよ と 言えるんだ

 

相手の顔色 知る前に

相手にどう思われるかを 知る前に

自分が自分のこと どう捉え直せばいいか

そっちを知ってほしいと

心から祈るよ

 

あなたは あなたが思っているほど ひどい人じゃないから

絶対に 絶対に それは 違うから……

 

2015_04_26

Photo by jr_juninho_210
Pixabay

 

『怒り』という面倒くさい感情

いきなりなんだかな、なタイトルですみません(^◇^;)

前のブログに、自分で

「無駄なことにエネルギーを使いたくない」、

という類のことを書いて、

そういえば最近の私は、怒るという行為を

『すごく疲れるもの』だと

思っていたことに、改めて気づきました。

 

2015_04_19

Illustration by Nemo
Pixabay

 

もともと、怒りの感情は、私の場合、

実際にプンプンしているときにでも、

長引かせたくない、と強く思える種類のものでして。

 

だからドッカンと爆発させるよりは、

どちらかというと説明を試みるほうへ注力していました。

でもまあ、こちらも怒っている状態でそれをやるわけですから、

当然、相手にも怒りの波みたいなものが届いて

肝心なポイントは届かない、なんてことも普通に起こり(伝える内容そのものよりも

「なぜそんな言い方をするのか」の部分で先に相手にも反発が起こり、

伝えたいことがうまく伝わらなくなる)、

疲れる結果が残りやすいと感じていて。

 

あと、私は、はっきりモノを言うクセもあるため、余計に反発もされやすく、

それゆえに感覚的に「難しいやり方」と捉えていて、

さらに『苦手』な範囲のものだった、かもしれないです。

 

そしてまた。

私の場合は、他人に良く思われたい、見られたい、

認められたいという気持ちが強かったため、

批判されることになりやすい『怒りの表現=ケンカ』というやり方が

さらに苦手に感じるのだろう、とも思っていました。

 

とくに仕事の面では、怒りを見せることで、自分の感情を

まともに扱えない、

コントロールできない、

みっともない人間だと思われて、

他者から認めてもらえなくなる。

そんな方面の捉え方、していました。

 

それは裏を返せば、仕事ですぐに怒る人間のことを

私が『感情コントロールがうまくない人』だと

評価しているってことで、しかも、

よろしくない方面のことだと捉えていた、ということになります。

 

ま、仕事だけに限らず、プライベートでも、

私は良く思われて得をしたかったのかもしれないですね(^^;)

 

これらのうち『認められたい自分』と『コントロールできないこと』については、

鬱で心理学その他の本をたくさん読んで、

人の話も聞いて、少しずつ変わってきていると思えます。

脳の器質、つまり仕組みの個性による個人差もあることも、知りました。

 

そして何より。

他者評価よりも自身の気持ちを大切にする、という捉え方を知り、

それを何度も練習していくうちに、だんだんと、

相手も同じく、そうしていいんだ、ということを感じ始めました。

 

それでもなお、そうじゃない! と自分が思うことはもちろんあり、

また、相手もそう感じれば、お互いに通じないことはある。

これも当たり前の話です。

 

鬱になる前の私は、そういう『当たり前』のことを

知っているようで実は知っていなくて、

いろいろ失敗してたなぁ、と思えます。

 

そして通じないときに、

選択の自由の範囲なんだな、と思えたり、さらには相手の怒りが

相手側の「問題ゆえ」だったりする、ということを体感し始めてからは、

こちらも『今は届かない』という事実を、受け入れられるようになって。

 

そこを「なぜだよ、何でなんだよ」と、長々引っ張り

自分がもだえてしまう(笑)時間も減りました。

 

あきらめるというよりは、いったん留保する感じ。

そして留保している間に、私の気持ちや考えは、本当にそれしかないのかどうか

(ま、これはある意味、悔しいやり方(笑)でもあるのですが)

見つめてみようかな、と思えたりもして。

 

見つめてみて、それでも、私はこのほうがいいと思う人間なんだ、と

自分でつかめれば、そこは『自分が』安心できるわけです。

 

で、そのあとで相手の言い分についても検討して、

私とは感覚が違うけれど、この人は、それがいいと思えるんだ、

というふうに「つかめた場合」は、

私、とくに身近な相手については、自分がそうつかんだのだ、ということを、

言い合いした相手に直接『あえて伝えてみる』、

そんな方法をやってみようと思ったのです。すごく勇気がいったけれどね(^^;)

 

合計で3回くらい試して、あ、それは全部、同じ相手でしたが、

その結果、その相手とは、ケンカすること自体がほぼ、なくなりました。

 

具体的には、

あんな「言い方」をしたことをまず謝るね、

ごめんなさい、言い方からしてもう、伝わらなくても当然だった。

私はこう主張したけれど、あなたはこう主張してたんだよね、

で、私は、この部分については、あなたの言い分もなるほど、と思えて、

ここについては、どちらでもいいんだ、と思えて、

この部分は、自分が言ってることのほうが

こういう理由から「私にとっては良い」と思えて、そこはごめん、譲れないわ。

 

こんな感じ。

当然、相手も最初、すごく驚いていました。

そして私が「ケンカ口調になったこと自体」を『先に』謝ったことについて、

その人の場合、びっくりするくらい、喜んでくれたのです。

自分は、なかなかすぐに謝れない人間だから、

先に言ってもらえて、うれしかった。その勇気もすごいと思える、

こちらこそ、激高してゴメン、と。

 

これはね、ケンカしてわりとすぐあと(1~2時間後くらい)だったから、

私もうれしくて。

そして、自分のコンプレックスを素直に打ち明けられるこの人もすごいな、と思えて。

 

こういう空気感になったら、お互い静かに、一緒に検討、相談し合えるのだと、

これもまた、初めて知ったことでした。

で、お互いに譲れない部分は、仕方ないね、残念、となって。

 

まあ、たまたま、その相手の人がすごい人だったから

うまくいったと言えばそれまでですが。

でもね、これ、さらに自分に波及効果をもたらしたのですよ。

 

留保を知ると、なおさら、怒るような事態が起こっても、こちらはまず

「怒りに使う時間」そのものを、長引かせないで済む。

そして怒っている相手のことを、自分が気にしすぎない。

通じる人にはあとからきちんと通じる、だいじょうぶ、という確信ができて、

そういう意味では、目の前の相手が怒っていても、たぶん怖くなくなったのです。

 

これもまた、とてもありがたい話で。

自分が「怖くなくなった」から、結果的に、

先に述べた自身のマイナス的な捉え方、

『認められたいがゆえに怒りが苦手』な意識も、

たぶんね、自分の中からジワジワ消えていってるのだと思えます。

しかも実際、怒りを引きずる時間が減ってるわけだから、さらにラクで。

 

こうなると、卵が先か鶏が先か、じゃないけれど、

相互作用で自分がどんどん、面倒な感情を長引かせないで済んでいるわけです。

 

だから、勇気を出して自分の内側だけででもまず練習してみることで、

それは、いろいろな形の波及効果を自分にもたらして、

本当に良い方向へ作用してくれることがありますよ、って、

私ははっきりとした確信を持って、今は言える次第。

 

たまたま、今回は『怒り』がテーマでしたが、

これ、悲しみや自己否定にも、応用できますよ。

誰かへの実践練習は難しくても、

自分の捉え方のほうは、落ち着いているときに練習することが可能だと思えます。

そういう例として、読んでいただければ幸いですm(_ _)m