カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

私は自分で捉え方を選べる

私はストーカー(になりかかっていた人)という存在に出会った。

暗い気持ちのときだったからよけいにイライラして、

電話してきた相手を責めた。

でもその経験で私は「どんなに自分が『間違っていない』と

思えることでも、相手には意味が通じない場合がある」ことを知った。

なぜなら相手にとっても「自分は『間違っていない』と思える」

(愛ゆえにゴミを拾うのだという)信念があったからだ。

それをすることは、相手にとっては間違いではなかった。

知りたいという欲求を、直接、近づいて言葉をかける代わりに

別のもので満たそうとしたのだ。愛情ゆえに。

それはただ「悪いな」と思える程度のことでしかなかった。

まさか、好きな人から怒りと拒絶反応を起こされるほど

ヒドイわけではない、なぜなら「僕があなたを好き」なのだから、

その部分をわかってほしいだけなのだから、と。

信念を持って、愛情の証として、ゴミを拾う。

なぜ、そこの部分を理解しようとせず、

ゴミを拾った行為そのものを責めるのだ?

……つまりは、そういう主張だった。

通じないのだ、気持ち悪い、ということが。

勇気を持って近づく代わりに、ゴミを拾うこと。

それはとても卑怯な手段だと、私が感じていることは、通じない。

しかも、その電話の会話でさえ、偽名を名乗られた(警察で調べてもらい、

そんな住人が地区にいないことは判明した)。

名前も名乗らず、ゴミを拾っても、

その相手と付き合える、と思えること自体が

自己都合の塊だということに、彼は気づいていなかった。

そこには「私がどう感じるか」という想像は、完全に欠けている。

そりゃ、通じるわけがない、こちらの感情。

ハナから相手の思考の範疇には、私の感情が存在しないのだから。

これを経験したから、私は、私の常識が人に必ず通じると思うな、と

いうことを、ダイレクトに教えてもらえたのだと思う。

届かないときには、言葉で説明しようが、何をしようが、届かないのだ。

だから最後には私は「もうご自由にどうぞ、次に声をかけたいというなら、

そのとき、あなたの身元を証明するものを

必ず見せてくださいね」としか、言えなかった。

何を思って相手がそう言うのかを、どれほど説明されても

理解困難どころか、相手の感情の存在すら「感じられない」。

そんな人もいる。

それをあからさまに教えてもらったからこそ、

私は「届かないときにはあきらめる」ことを学んだのかもしれない。

また同じく。

ワーカホリックになり、仕事にのめり込みすぎて鬱になり、

死にたいと思った経験があったからこそ、

私は、自分の気持ちをもっと大切にしていいこと、を、学んだ。

その練習をしている人たちとも、知り合いになれて、

率直に「練習の難しさ、コツ、経験」を

お互いに語れるようになった。

宗教組織でもなく、怪しまれるような商売仲間(笑)でもなく、

まあ、スピとか仏教とかキリストとか、

出会いのきっかけはそこにあったけれど、

その枠を越え、友人として、人生や感情や感謝を語り合える人に

何人か知り合えた。

批判もなく、私のやり方を見守ってくれる相手。

これはとても大きい意味があった。

受け容れることのすごさや、人にはそれぞれ課題があるよね、と

人の考え方や行為をまずはゆるせる範囲が拡大した気がする。

自分がそれを選ばないようなことであっても、

それはまあ、その人の選択なのね、と捉える感じ。

直接的に「気持ちを害される」こと以外は、

落ち着いて見つめられるようになったし、

たとえ直接的なことが起こっても、何を思って相手がそうしたのか、

まずは探ろうとする余裕が少しずつ生まれてくるようになった。

それを想像することで、自分の不快感、つまり怒りや悲しみやショック、

という部分に、完全に呑まれることがなくなり、

落ち着け、私、と、自分の感情を見つめられるようにもなった。

この「幅のようなもの」が生まれたことは、

私にとっては、すごく大きな視点になった。

そしてまた、お互いが見守ること、あるいはお互いの思いやりが

通じ合うことが、すごく心地いいことなんだ、とも

はっきり思えるようになった。

そういうことを、臆病にならずに経験できる機会にも恵まれた。

家族や親友でなくても、

彼氏彼女じゃなくても、

人は人を「結果的には」助けられるし、助けたことがまた、

「結果として」その人自身をも救うのだ、と知った。

通常なら、災害など悲劇的状況で起こりやすい思いやりの交流が、

悲劇的状況以外でも可能だったのだ。

鬱にならなければ、私はたぶん、それを「思い知る」ことは出来なかった。

確かに、苦しい、悲しいことは、あったけれども。

学べたことが大きかったので、それはそれで別途、

自分を助ける道となったと、はっきり言える。

昔より、心の交流は豊かで、ありがたく、素晴らしい。

このブログという場でも、それは幾度か生まれていて、私は

私の思いを感じとってくださることの

うれしさとありがたさを、ここでさらに学んでいる。

本当に、本気で『捉え方で変わるのだ』と、今は思える。

いつもそれを教えてくださって、ありがとうございますm(_ _)m

読んでくださっている方々に、改めて、そうお伝えします。

感謝をこめて。

あくまでも「私は」ラク、という話

今日は、自分が今、持っている感覚、の話。

素直に、最近の私はこう感じている、ということで、

これが良いとか悪いとか、善悪つけるつもりもない。

たまたま、私の場合は、これで自分がラクになった、という話。

まず、気持ち。

自分の考えることが、とてもいいとか、とても悪いとか、

「正しいかどうか」を、今の私はあまり気にしない。

居心地よく感じること、を優先しているかもしれない。

結果的にそれは、一般的に言えば、

間違いとはいえない範疇に収まっているんじゃないかな、くらい。

世の中に、ある一定の理論に沿った「正しいこと」なんて、

それこそ山のようにあると思える。

たとえば、殺人を息子にさせるのは嫌だから戦争反対、というのは

ある意味「正しい」ことで、

平和を祈念するのも「正しい」。

で、どっちの「正しい」が、私にとって

より心地よく感じられるかというと、

平和祈念、なわけだ。

個別ではない、国争いにおける殺人に反対、という気持ちは、

もし、身近な誰かが戦争によって

爆撃で死んだとき、銃撃で死んだとき、

「相手が憎い」につながり、

もしかしたら、少なくとも直後には

仕返しを肯定するかも、と、心のどこかで思えているからだ。

万が一、戦争になってしまったとき、

真逆のことを自分が感じる可能性を知りつつ、

それでも今は戦争反対、と、言い切るのって、どこか気持ち悪い……

そんな感覚を覚えてしまう。

だからこそ、ガンジー元首相のすごさを感じるのだけれど……これは余談。

それよりは平和を祈るほうが、自分にそんな嘘をつく、

真逆を肯定する可能性がほとんどあり得ないので、

より、自分にとって心地よい。

これって、私の感じることが常に「正しい」わけではないことを、

まあ、自分を殺したくなったからこそ、

思い知った……とも言えるだろう。

自分の感覚なんて、環境やそのときの体調、気分によって

いろいろ変化するのだ、と。

当てにならないということではあるけど、

当てにならないからこそ、執着する必要もないと思えるようになった。

そして、身体。

鬱になる前は、過信もあって、かなり自分の身体にムチャクチャな

負荷をかけていた。寝ない、休まない、無理気味でも出かける、などなど。

その結果、恒常性を保つ機能が崩れ、

身体は完全にバランスを失った。

壊死性リンパ節炎という奇病にかかったり、

地味に発熱だけ毎晩したり、

脳みそのバランスが崩れて鬱になったり。

さんざん、こき使った挙げ句、壊れた。

で、今でも、完全にはもとに戻らない。

ときに現れる過激な低血圧(普段は上が100なのが、

いきなり80を切ってしまうとか)、

それに伴う頻脈、めまい、たまに血圧には関係なく微熱も出る。

過信して、私がつくったわけでもなんでもない身体を、

奴隷のように扱った結果が今だ。

もともと、思い通りにさせること自体、不可能だったのだ。

心臓に命令ひとつできない。

なのにいつの間にか、頭の中の考えを優先して、

まるっきり自分がこの身体を支配しているかのように

勘違いした。だから壊れた。

そのために睡眠薬と向精神薬を投与し続け、薬漬けにもした。

薬が抜けたころ、低血圧が始まった。

……自業自得なのだ、ある意味では。

ゆえに私は、自分の身体に対しても、

感謝する……程度になった。

過信もコントロールもしない。

その代わり、ムチャな放置もしない。

身体の働きに対して、自分の意志で協力する、くらい。

ご飯、睡眠、衛生、ストレス解消など、それも

ガチガチにしっかりでなく、ある意味、適当、ゆるい協力。

そんなふうにゆるくなってから、私が支配するものではないから、

私の所有物ではないから、決して思い通りにも、

うん、当たり前だ、ならないんだわ、と

捉えられるようになった。

身体は身体で勝手に、バランスを整えようと、日々、調整に

チャレンジしてはくれている。

たまに間違いをおかし続けるけれど、

その狂いを生じさせポンコツにしたのは、ある意味、私だ。

私はそう扱ったのだ、壊れるほどに。

という感じで、私は、

身体が私の思い通りになるもの、という発想をやめ、

なんとなくだが、提案型にしていった。

たとえば体重が増えないように、

ちょっと意図的にもやらせてね、みたいな、

友達感覚の話しかけ……に近いもの。

今日はご飯、こんな感じの手抜きしていいかな、とか、

逆に食べていいかな、寝ていいかな、寝ないでいいかな。

そんな感覚になってから、たとえば、体重を減らしたくなったとき、

実際、いい感じで減り、その後も体重が増えにくくなったりもしている。

ゆるいお付き合いで、身体の狂いはある面で、あきらめ気味、

まあ、プチチャレンジくらいさせてよ、なイメージになったら、

急激な体調不良が来たときも、やれやれ、と

「眺めて」いるような感覚になれた。

つまりは心・気持ち・考え方も、

身体も、私が

「こうあるべき」をやめたのかも。

やめたら「本当はこうじゃなきゃいけないのに、なぜ!?」

というような「責め」や「不安」が減り、怒りも減り、

ついでに考えに自信もなくなった分(笑)、他者への怒りも減り、

幻滅よりは、自分とは違うな、という

割り切りが先にくるようにもなった……。

ゆるいかもしれない、

いい加減かもしれない、

ダラケている、と捉える人もいるかもしれない。

でも、私、ラクになりました。

「かわいそう」ごっこ。

過去に不幸な出来事がありました。

それで、こんな苦労をしました。

それゆえにあんなに大変なことがありました。

世の中で数々ある、質問コーナーなどにも出てくる経験談。

そこで問いかけられる言葉の多くは

「どうすれば立ち直れますか」であろう。

どう思いますか、も、そうだし、

許せなくて苦しんでいます、も、

裏を返せば、どうすればこの苦しみから逃れられますか、である。

脱出方法を考えているならば、まだいいのだが。

そうではなく、私はこんなに不幸なのです、と、

ただそれだけを、世間に長期に渡り訴え始めると、

たとえ、どんなに本人が苦しんでいても、

繰り返していくうちに、受け止める側が「不幸自慢」と

感じてしまったりもする。

整理するためでなく、

打ちひしがれたその苦しみを手放したいからではなく、

大事に保管しているように思えてくるのである。

まるで、もう一生、私は不幸のままです、と

宣伝、PR活動しているかのように。

それが誰か他人のせいであれば、「憎しみPR」と

受け止められるかもしれない。

あるいは「苦しみPR」、「悲しみPR」……。

決して責めているわけではない。その苦しみ、悲しみ、憎しみは、

すべて本物であり、あなたをとてもつらくさせていることであろう。

現在進行形で苦しめられているなら、なおさら、つらいだろう。

だから、そのつらさを吐き出すことは、決して間違いではないのだ。

ただ、たとえば何年も、同じ状態を繰り返しているなら、

なぜそこから変化していかないのか、疑問を持つ人もいることは確かだ。

鬱で脳みその回路が狂いっぱなしでない限り、

悲しみも苦しみ憎しみも、やがて思い出、にはしていける。

少なくとも時間は、「記憶の風化」という治療薬になる。

PTSDの症状さえ、適切な吐き出しによって、

徐々に軽減させていけるとされているし、

実際、その効果は少しずつでも上がっているようだ。

その出来事により、体調も身辺も、激変してしまったとしても。

その出来事自体の受け止め方は変えられるし、

変えればラクにもなりうることを、

たぶん、私たちは皆、知っている。

だからこそ。

なぜそのショック状態、苦しみのど真ん中で、

ずっと立ち止まったままでいるのかを、

やがて人は、疑問に感じるのである。

他人のそうした状態は、とてもよく「気づく」ものだし、

目にも止まりやすい。近しい人ならなおさら、

気づきやすくなるだろう。

でも、なぜか自分のことは、よくわからない。

そして、あのときのあの苦しみが、今、形を変えて

こんなことにまで影響しているのか、なんていうことも起こるのだ。

確かに、すんなり変えられるとは限らない。

ただ、ここで一つ、気づいておいてほしいこと。

その受け止め方を「変えられる」のは、自分だけである。

他の誰も、あなたの代わりに、変えてあげることはできない。

だってそれを経験し、そう受け止めたのは、あなた自身だから。

どんなに素晴らしい自己啓蒙の書だって、

あなたがそれをうまく使って受け止め方を変えようとしない限り、

その苦しみは変わらないのだ。

そこを忘れてしまうと、いつまで経っても

「どうして どうして どうして」

「なぜ 私がこんな目に」

を繰り返し続けていくだけだ。

もしかしたらやがて、自分を変えていく、という発想すら消えていき、

同情を集めること、それによって人の注目を浴び続けていくこと、を

願ってしまうかもしれない。

受け止め方を「かわいそうな私」に固定すると、

そんなことさえ起こりうる。そして注目を浴び続けようと

自作自演の悲劇まで作り出し、場合によっては

他者の生命すら、自分の悲劇のための道具にしてしまうことがある。

そのような犯罪が少なくとも欧米であったことは、

何かの本で読んだ記憶がある。

そこまでいかなくても、「かわいそうな自分」を固定することは、

変化への努力をしなくていい言い訳にはできる。

苦しいのに、苦しいまま、生きていったほうが、

それ以上、失敗しないし、面倒なことがないし、と、

無難……のようにさえ、思えることはあるのだ。

その結果。自分からは受け止め方をとくに必死には変えないけれど、

会う人ごとに「苦しみ」を訴えてみて、

うまくいけばたまたま、いい言葉などで自分が簡単にきっかけをつかめ、

ラクに、自分を変えていけるチャンスが生まれるかもしれない、と

思い始めていく危険性はあるのだ。

自分でしか変えられないのに、なぜか、他力任せ。

私はあえて、この記事で、そういうラクして得しよう、とするやり方を

「かわいそう」ごっこ、と名付けてみようと思う。

私、ずっと、苦しい。つらいままだわ、シクシク
。・゚・。 (ノД`) 。・゚・。

そのあとに「でもいつか」「まあ、今はまだ」

「こういうときも」「仕方ない」が続いていかない、

そんな固定の受け止め方。

探し疲れたから、うまくいかないから……。

うん、途中の苦しさもまた、わかる。でもそれこそ、その後ろには

「どうせ だって やったところで 何も変わらない」

の気持ちが、くっついていないだろうか?

しかもそのさらに後には「私なんて」が

こっそり、コバンザメ状態化していないだろうか?

あきらめたら、そこで終わる。確かに何も変わらない。

急ぐ必要も、途中で焦って苦しむ必要も、まったくないのに。

「あなた」が、

「自分自身」を、

「勝手に」、

あきらめているのである。

そしてやっているのは「かわいそう」ごっこ。
シクシク 。・゚・。(ノД`) 。・゚・。

それって周囲もだんだん、どう慰めていいかわからなくなるし、

何よりキツイ事実は、あなたがそれを続ける限りずっと、

自分イジメをしていくということである。

なぜ、その「楽しくないほう」「幸せにはなれないほう」を

わざわざ自分から、この先もずっと、

選んでいこうとしているのか……。

変えるためのきっかけは、他人からやってくるとは限らないのに。

「かわいそう」ごっこ、を自ら選び、

受け止め方を変えるのはあきらめているのに、気が向いたら

PR活動などもたまにして……何を得るのだろう。

今回はあえて、厳しい表現で書いて、

しかもそのままの口調で終わらせてみる。

これも一つの伝え方だと、私には思えるから。

刺さるかもしれない。

刺さってしまったら、

心から、ごめんなさいm(_ _)m