過去に不幸な出来事がありました。
それで、こんな苦労をしました。
それゆえにあんなに大変なことがありました。
世の中で数々ある、質問コーナーなどにも出てくる経験談。
そこで問いかけられる言葉の多くは
「どうすれば立ち直れますか」であろう。
どう思いますか、も、そうだし、
許せなくて苦しんでいます、も、
裏を返せば、どうすればこの苦しみから逃れられますか、である。
脱出方法を考えているならば、まだいいのだが。
そうではなく、私はこんなに不幸なのです、と、
ただそれだけを、世間に長期に渡り訴え始めると、
たとえ、どんなに本人が苦しんでいても、
繰り返していくうちに、受け止める側が「不幸自慢」と
感じてしまったりもする。
整理するためでなく、
打ちひしがれたその苦しみを手放したいからではなく、
大事に保管しているように思えてくるのである。
まるで、もう一生、私は不幸のままです、と
宣伝、PR活動しているかのように。
それが誰か他人のせいであれば、「憎しみPR」と
受け止められるかもしれない。
あるいは「苦しみPR」、「悲しみPR」……。
決して責めているわけではない。その苦しみ、悲しみ、憎しみは、
すべて本物であり、あなたをとてもつらくさせていることであろう。
現在進行形で苦しめられているなら、なおさら、つらいだろう。
だから、そのつらさを吐き出すことは、決して間違いではないのだ。
ただ、たとえば何年も、同じ状態を繰り返しているなら、
なぜそこから変化していかないのか、疑問を持つ人もいることは確かだ。
鬱で脳みその回路が狂いっぱなしでない限り、
悲しみも苦しみ憎しみも、やがて思い出、にはしていける。
少なくとも時間は、「記憶の風化」という治療薬になる。
PTSDの症状さえ、適切な吐き出しによって、
徐々に軽減させていけるとされているし、
実際、その効果は少しずつでも上がっているようだ。
その出来事により、体調も身辺も、激変してしまったとしても。
その出来事自体の受け止め方は変えられるし、
変えればラクにもなりうることを、
たぶん、私たちは皆、知っている。
だからこそ。
なぜそのショック状態、苦しみのど真ん中で、
ずっと立ち止まったままでいるのかを、
やがて人は、疑問に感じるのである。
他人のそうした状態は、とてもよく「気づく」ものだし、
目にも止まりやすい。近しい人ならなおさら、
気づきやすくなるだろう。
でも、なぜか自分のことは、よくわからない。
そして、あのときのあの苦しみが、今、形を変えて
こんなことにまで影響しているのか、なんていうことも起こるのだ。
確かに、すんなり変えられるとは限らない。
ただ、ここで一つ、気づいておいてほしいこと。
その受け止め方を「変えられる」のは、自分だけである。
他の誰も、あなたの代わりに、変えてあげることはできない。
だってそれを経験し、そう受け止めたのは、あなた自身だから。
どんなに素晴らしい自己啓蒙の書だって、
あなたがそれをうまく使って受け止め方を変えようとしない限り、
その苦しみは変わらないのだ。
そこを忘れてしまうと、いつまで経っても
「どうして どうして どうして」
「なぜ 私がこんな目に」
を繰り返し続けていくだけだ。
もしかしたらやがて、自分を変えていく、という発想すら消えていき、
同情を集めること、それによって人の注目を浴び続けていくこと、を
願ってしまうかもしれない。
受け止め方を「かわいそうな私」に固定すると、
そんなことさえ起こりうる。そして注目を浴び続けようと
自作自演の悲劇まで作り出し、場合によっては
他者の生命すら、自分の悲劇のための道具にしてしまうことがある。
そのような犯罪が少なくとも欧米であったことは、
何かの本で読んだ記憶がある。
そこまでいかなくても、「かわいそうな自分」を固定することは、
変化への努力をしなくていい言い訳にはできる。
苦しいのに、苦しいまま、生きていったほうが、
それ以上、失敗しないし、面倒なことがないし、と、
無難……のようにさえ、思えることはあるのだ。
その結果。自分からは受け止め方をとくに必死には変えないけれど、
会う人ごとに「苦しみ」を訴えてみて、
うまくいけばたまたま、いい言葉などで自分が簡単にきっかけをつかめ、
ラクに、自分を変えていけるチャンスが生まれるかもしれない、と
思い始めていく危険性はあるのだ。
自分でしか変えられないのに、なぜか、他力任せ。
私はあえて、この記事で、そういうラクして得しよう、とするやり方を
「かわいそう」ごっこ、と名付けてみようと思う。
私、ずっと、苦しい。つらいままだわ、シクシク
。・゚・。 (ノД`) 。・゚・。
そのあとに「でもいつか」「まあ、今はまだ」
「こういうときも」「仕方ない」が続いていかない、
そんな固定の受け止め方。
探し疲れたから、うまくいかないから……。
うん、途中の苦しさもまた、わかる。でもそれこそ、その後ろには
「どうせ だって やったところで 何も変わらない」
の気持ちが、くっついていないだろうか?
しかもそのさらに後には「私なんて」が
こっそり、コバンザメ状態化していないだろうか?
あきらめたら、そこで終わる。確かに何も変わらない。
急ぐ必要も、途中で焦って苦しむ必要も、まったくないのに。
「あなた」が、
「自分自身」を、
「勝手に」、
あきらめているのである。
そしてやっているのは「かわいそう」ごっこ。
シクシク 。・゚・。(ノД`) 。・゚・。
それって周囲もだんだん、どう慰めていいかわからなくなるし、
何よりキツイ事実は、あなたがそれを続ける限りずっと、
自分イジメをしていくということである。
なぜ、その「楽しくないほう」「幸せにはなれないほう」を
わざわざ自分から、この先もずっと、
選んでいこうとしているのか……。
変えるためのきっかけは、他人からやってくるとは限らないのに。
「かわいそう」ごっこ、を自ら選び、
受け止め方を変えるのはあきらめているのに、気が向いたら
PR活動などもたまにして……何を得るのだろう。
今回はあえて、厳しい表現で書いて、
しかもそのままの口調で終わらせてみる。
これも一つの伝え方だと、私には思えるから。
刺さるかもしれない。
刺さってしまったら、
心から、ごめんなさいm(_ _)m