カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

夕暮れ

少し涼しく感じられる風が吹いて

赤ちゃんの泣き声にセミの声が混ざり

スーパーからは夕方の特売セールの案内が聞こえて

どこかの家から夕げの香りが漂ってくる

空はまだ明るく

入道雲の上に三日月がぽっかり浮かび

帰り道を急ぐ人たちは

月に気づかず 歩みを速める

この国に起こっていること

世界で起こっていること

自分の周りに起こっていること

うれしいことも悲しいことも

たくさんあるけれど

私が今 ここから感じているのは

人の営みの強さと温かさと

生きているものや自然が垣間見せてくれる

美しさ である

それを感じとることができるのは

私が生きているからこそ

だから 今はただ その事実に 感謝する

やりたいこと、そして今、やれること

私の母親は、私が就職で実家を出ることになったとき、その準備を完璧にしようとして無理をし、

就職後に倒れてしまったことがある。その時期、たまたま他にもいろいろなことが重なって、

よけいに無理をしたゆえなのだけれど、持病を抱えている身で頑張ってしまった。

そして子どもの私は、たぶんそのことにずっと負い目を感じ、そんなふうにしてまで独立したのだから、

それこそ「立派」になって「故郷に錦を飾る」くらいにならなくてはいけない、と、

自分に、さらに拍車をかけることになった。

その結果が、鬱病である。

ダメじゃん。

私、本当に、バカだったなあ。

今になって、やっと、そう思える。

私はずっと、「頑張る子ども」という仮面をかぶってきて、それがまあ、

気持ちよかったからなんだけど、自分のことを叱咤激励してきた。

本当の私はとてもナマケモノで、放っておいたらすぐ手を抜こうとして、

学校の宿題も8月中旬までに終わらせるなんてことはまったくなくて、

そう言う部分が「ダメ」だと思っていた。で、たいていは自分を叱りつつ、動かした。

要はバランスを上手く取れない、不器用な子どもだったわけだ。

「これでいいじゃない」という妥協点を、上手に見つけられなかったのだ。

自分がそういう不器用さを持つことを、いまだにそうであるかもしれないことを、自覚はしているが、

バランスを果たしてうまく取れるようになったのかは、まだよくわかっていない。

そして母親もまた、「頑張る自分」を捨てられない人だったのだなあ、と思う。

子どもに対して常に完璧であろうとし、それが親としての「責務」だと思い、家族のために、

自分を置き去りにしていた。常に常に、他人のために、動いていた。

だから、倒れた。

自分のことを思いっきり棚に上げて語るとすれば、

その頑張りが、私にはプレッシャーとなっていた。

「こうであらねばならない」という見本が、目の前で動いていたようなものである。

母もまた、自分がそうしたいからこそ、無理をしたわけだが、

その無理は結果として、私に引き継がれるような形となってしまったのだ。

チャレンジすること、やれるようになるまで頑張ってみること、そういうハードルを設定すること。

そのこと自体が、悪いわけではない。

でもそのために、と無理をし続けると、必ずどこかに、破綻は出るのだ。自分にも、相手にも出る。

今の私は、そのことを実地で学ばされたようにも感じている。

「目標は高いほうがいい」なんて言葉もよく聞くけれど、もともと頑張りすぎる傾向にある人には、

低いほうがいいのだ。その代わり、段階を増やしていけばいい。

とくに、鬱にまでなってしまったのであれば、確実にそのほうがいいと、私には思える。

もはや、やりたいことと、やれることは、違うのだ。その差異を、自分で把握するようにしていくこと。

サボるのではなく、ただ、無茶をしないこと。一足飛びにできるようには、「あえて」ならないこと。

そして何より、「できる人」あるいは「頑張る人」という、その自己満足の仮面を剥がすこと。

そんな仮面は、もう必要ないのだ。

私自身、いまだ、それがうまくできるようになったとへ思えない。それゆえに今日は

自戒をこめた自分語りの内容になってしまったけれど、必要な人に、必要な部分が、届きますように。

ふと思った「よいこと」を、行動に移してみる

これまで、人目を気にしてきた人、人の評価が気になっていた人。

その理由で激しく落ち込んでしまうのであれば、これからは徐々に、いい意味で

「人からどう思われるかを気にしない」ようになる方向へ、変わっていったほうが楽だろう。

ある心理学系の本を読んでいたとき(エッセイみたいなものだったけど)、

その一節に「他人を気にせず、思ったことを行動に移す」ことについての話が載っていて、

練習方法として「小さな善行をすること」が載っていた。

良い行動は、人目を気にせず行動するための練習になる、というような趣旨だったと思う。

具体的には、「小さないいこと、小さな貢献」をするのだ。

家の中でも、家の外でも、「自分が気になったこと」を自発的に、「手をかけて直す」ような感じ。

家の中であれば、誰かがこぼした壁や床の染みを拭く、違う場所に置かれていたものをもとの位置に戻す、

ふだん、散らかっていてもそれほど不便ではない部分を、あえて使いやすいよう整理してみる、など。

家の外であれば、バスや電車内や町で落ちているゴミを拾う、お年寄りや子ども連れの人を助ける、

街路樹に水をやる、道を掃除するなど。

近所の人への「おはようございます」といったあいさつでもいいかもしれない。

「格好つけて、と思われたらどうしよう」

「わざと人目につくように、いいことをしてる……と思われるのは恥ずかしい」

「いい人のふりしてる、と思われるかな」

などと、これまでなんとなく気恥ずかしくて、そんなにできなかったことを、あえてやってみるのだ。

もし、それが自分にとって「結果として心地いい」「やってよかった」という感覚をもたらすのであれば、

それをがんばって、しばらく続けてみる。人からどう思われるか、ということより、

自分が「やってよかった」と、すっきりした気分になれるほうを、単純に優先するのだ。

あなたの小さな善行を、すべてチェックしている人はいない。

人はそんなに、あなたに注目してはいない。たまたま見かけたとしても、別に不快感は与えないだろう。

もちろん、「どうよ、私ってえらい?」という増長の心を生むためにやることではないので、

誰かに自慢したくて仕方ないような気持ちが生まれてきたら、やめたほうがいい。

変な自己満足の世界に陥る可能性がある。

慣れてくれば、人目を気にしない、それより自分の「楽しさ」「心地よさ」を大事にする、ということが、

意外にあっさりと、つかめるようになる。人目がそれほど気にならなくなって、普通の感覚で

するっとできるようになったりもする。

そして、自分に小さな自信をもたらしてくれたり、「これでいいんだ」という安心感を生みだしてくれたりする。

そこから何が変わるのか? と言われれば、人によって違うと思うけれど、

少なくとも私にとっては、心地よさを増やす練習にはなった。あと、自分に対する、小さな「安心感・信頼感」も。

気恥ずかしいことは承知しているが、視点を変えてみるために、

自分のために、こっそり、少しずつ、やってみてもらえればと思う。