やりたいこと、そして今、やれること

私の母親は、私が就職で実家を出ることになったとき、その準備を完璧にしようとして無理をし、

就職後に倒れてしまったことがある。その時期、たまたま他にもいろいろなことが重なって、

よけいに無理をしたゆえなのだけれど、持病を抱えている身で頑張ってしまった。

そして子どもの私は、たぶんそのことにずっと負い目を感じ、そんなふうにしてまで独立したのだから、

それこそ「立派」になって「故郷に錦を飾る」くらいにならなくてはいけない、と、

自分に、さらに拍車をかけることになった。

その結果が、鬱病である。

ダメじゃん。

私、本当に、バカだったなあ。

今になって、やっと、そう思える。

私はずっと、「頑張る子ども」という仮面をかぶってきて、それがまあ、

気持ちよかったからなんだけど、自分のことを叱咤激励してきた。

本当の私はとてもナマケモノで、放っておいたらすぐ手を抜こうとして、

学校の宿題も8月中旬までに終わらせるなんてことはまったくなくて、

そう言う部分が「ダメ」だと思っていた。で、たいていは自分を叱りつつ、動かした。

要はバランスを上手く取れない、不器用な子どもだったわけだ。

「これでいいじゃない」という妥協点を、上手に見つけられなかったのだ。

自分がそういう不器用さを持つことを、いまだにそうであるかもしれないことを、自覚はしているが、

バランスを果たしてうまく取れるようになったのかは、まだよくわかっていない。

そして母親もまた、「頑張る自分」を捨てられない人だったのだなあ、と思う。

子どもに対して常に完璧であろうとし、それが親としての「責務」だと思い、家族のために、

自分を置き去りにしていた。常に常に、他人のために、動いていた。

だから、倒れた。

自分のことを思いっきり棚に上げて語るとすれば、

その頑張りが、私にはプレッシャーとなっていた。

「こうであらねばならない」という見本が、目の前で動いていたようなものである。

母もまた、自分がそうしたいからこそ、無理をしたわけだが、

その無理は結果として、私に引き継がれるような形となってしまったのだ。

チャレンジすること、やれるようになるまで頑張ってみること、そういうハードルを設定すること。

そのこと自体が、悪いわけではない。

でもそのために、と無理をし続けると、必ずどこかに、破綻は出るのだ。自分にも、相手にも出る。

今の私は、そのことを実地で学ばされたようにも感じている。

「目標は高いほうがいい」なんて言葉もよく聞くけれど、もともと頑張りすぎる傾向にある人には、

低いほうがいいのだ。その代わり、段階を増やしていけばいい。

とくに、鬱にまでなってしまったのであれば、確実にそのほうがいいと、私には思える。

もはや、やりたいことと、やれることは、違うのだ。その差異を、自分で把握するようにしていくこと。

サボるのではなく、ただ、無茶をしないこと。一足飛びにできるようには、「あえて」ならないこと。

そして何より、「できる人」あるいは「頑張る人」という、その自己満足の仮面を剥がすこと。

そんな仮面は、もう必要ないのだ。

私自身、いまだ、それがうまくできるようになったとへ思えない。それゆえに今日は

自戒をこめた自分語りの内容になってしまったけれど、必要な人に、必要な部分が、届きますように。

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