ここで言葉を紡ぐ(つむぐ)こと

ここで私がこうして文章を書く。あるいはコメントを書く。

それを読んでくださった方が、どこかで、何かを感じられる。

ブログというのは、そういう機能をもった場所である。

一度もお会いしたことのない方、ブログに綴られたお話の部分でのみ情景が浮かぶ方。

その関係の希薄さが、寂しさと同時に、安心感も生む。

今の自分のありのまま全部を、さらけ出さないですむから。

そういうつながりのなかで、私が延々と書き続けているのはなぜだろう、と考えてみると、

まず、私は私自身の痛みを、吐き出しているのだということ。

これは、痛みも相当、薄くなってきてからの「過去の掘り出し」作業であり、

誰かに読んでいただけるかもしれない場、という中であえて書くことで、

自分を見つめ直している部分が絶対にあると思う。

もう一点。

同じ思いをされた方、されている方が、もし、何かを感じてくださったときのこと。

これは、感じてくださった方の「感性」であり、その「感性」はその方にすでに備わっている「力」である。

私が影響を与えるとか云々、ではないのだ(そんな高ビシャな気持ちで書いていたら、

読んでいる方にすぐバレて、誰も読んでくれなくなる)。感じる、というのはあなたご自身の、力。

そのことに気づいていただけますように、と、願っている。

私の紡ぐ言葉は、今もそうだけど、あらかじめ、入念な下書きはしていない。

思いつくままに、ある意味「気ままに」、書き連ねている。

それが文章となって、なんらかの意味を紡いでいくとき、それをどう受け止めるかは、

その方の力、なのだ。だから常に感謝している。

もちろん、私は誹謗・中傷を書くつもりはないし、自分のことを棚に上げるつもりもない

(また、上げられるような自慢の棚もないしね……(^^;))。

基本的に自分の経験と自分が気づいたことから、言葉を選び、意味を紡いでいるつもりでいる。

それでもときに、おせっかいと思われたり、ときに格好つけすぎと思われたり、まあ、いろいろな

受け止め方は起こるだろう。それは私もまた、他の方の文章を読んで何を受け止めるか、が

まさに「私の視点」になるわけだから、同じなのだ。

誤解を恐れずに言うと、非難や批判を、私は怖がっていない。

無視できるほどの図太さはないけれど、自分の感じたことを文章として紡いでいく以上、

違う、と感じられる方がいらっしゃるのは、当然のことだからだ。

もう二度とこんなブログは読まない、とか、こっちのブログに来ないでくれ、とか(幸い、そこまでの否定は

今のところないけれど)、そういう「要望」があれば真摯に対応するけれど、

それ以外は、こちらから云々、というつもりもないし、ケンカする気もない。とくに怖れていないのだ。

なぜなのかは、自分でもわからない。「関わった責任」とかで、無理して続けるわけでもない。

そもそもブログやSNSという形態のなかでは、関わり方にも限界があると思えている。

そういう意味で、リアルに会っている友人ほどの責任は、きっと負い切れないだろう。

それでも対話したいし、たとえ一時的な意見の相違は起こったとしても、

ご縁のあった方の意見を読み、文章で表現しながら、語り合いたい。

きれいごとのみがあるから、あるいはいつでも逃げ出せるから安心……などとも思っていないから、

たぶん、こうして言葉を紡ぎ合うこと自体が、私はまず、好きなんだろう。

インターネットという環境が出来て生まれてきた新しい関係性だけれど、

言葉を紡ぐ意味を、新たに私は考えさせられることになっている。

そして、うっすらとではあってもここでご縁ができた方々に、不思議な形ではありますが、

ご迷惑もかけるかもしれませんが、どうぞよろしく、と、改めて感謝と挨拶の気持ちを伝えたい。

希薄でありながら、ある部分、濃厚であるこのブログという場所が、

憩い、学び、痛みの解放、あるいは気づき、感動の場として、そういうプラスの場として、

より多く機能していきますように。

私自身がそのように使え、また、私が意図せずとも何かを感じ取っていただける場を、

続けていけますように。

今日はなんだか、ぼんやりとした話でごめんなさいね。

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