カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

傷ついた子どものような心

昨日たまたま、10代後半かな……くらいの若者で、「イライラしつつ虚勢をはってる」ことが

わかる子を見かけた。

最初は、若者特有の「なんだかわからない青春のイラ立ち」(笑)みたいなものなのか、と

思えたけど、だんだんと、それよりはもっと「痛々しい」感じのする、

「自分ではどうしていいかわからない、迷ってる子ども」のような印象に変わっていった。

要は2人の男の子が、大人の言葉に対してニヤニヤ笑いながら、ケンカ売ってたんだけどね(^^;)

そのうち1人の子は、それを愉快犯的に楽しんでいる感じで、もう1人がイラ立ってるような感じ。

見た目にはいわゆる「すぐキレる」と言われるような雰囲気で、ああ、そんなに変なふうに、

大人にケンカを売らなくても……と、思っていたのだが、

愉快犯の子はともかく、なんだかイラ立っているほうの子が、だんだん、切ない子どものように見え始めた。

私が中学生くらいのとき、いわゆる「不良」と呼ばれる同級生たちは、もっとトゲトゲしてた。

イラ立ちをはっきり見せることもあったし(まあ、仲間にはそんなにしょっちゅう

キツく当たる訳じゃなかったけど)、ときどき「オレに触るな」って感じの雰囲気を

まとわりつかせてるときもあったりして、子どもながらに、ああ、○○くん、

なんかつらいことがあったんだろうな……とわかったのだ。

それに比べると、その2人がずっとニヤニヤしてるのは、まあ、不気味、と言えなくもないけど、

逆に「怖さ」という点では、一瞬、薄れるんだよね。見方によっては「ん? からかってるだけ?」とも思えちゃう。

オブラートに包むかのようにはっきりものを言わない、人を直接的に傷つけるのは御法度、のような風習が

今の10~20代にはある、という話を聞いたけど、これなのかな、と思う。

はっきりとは本心を見せられないような、荒々しくなりきれないような。

こんな話を長々と書いたのは、他でもない。

大人になったらこんなふうに、イラ立ちをオブラートでくるんだりして、怒ってるんだか

笑ってるんだか、卑屈になってるんだかわからないような状態で、その場をやり過ごそう、とするのが

ある種の「普通」になってるよね。子どもだから違和感を感じるんだよね、ってこと。

その、イラ立っている男の子は「実は傷ついてる、なんかどうしよもないと思ってる心」の鱗片をつい、

匂わせちゃったけど、大人になったら、それすらも見せられなかったりする。

でも、そこには、その男の子と同じような、小さな子どもが傷ついているかのような心も、

隠れているよな……って。

もちろん、そうした気持ちを上手にガス抜きして、コントロールしていくのが「大人になった証拠」って話に

なるのかもしれないけど、ホントに、上手に息抜きさせていかないと、

大人でも当然、「どうしていいかわからない」気持ちが蓄積していくだろう。

とくに今のような、不況や天災や原発や、いろいろな問題があって、将来への不安や政治不信なども

取り沙汰されてるような時代に、そういった気持ちを「隠して」表面上、取り繕うことは、

それだけで結構、ストレスになるように思える。

そこへさらに日常の人間関係、会社での上下関係とか、家族とか……が重なるのだ。

心が痛んでいるときに、そうしたストレスが「当然のように」かかってきて、

しかもこれまでよりは大きい、という状況では、まあ、鬱じゃなくても、なのかな、多かれ少なかれ

みんなが、あの男の子のような「どうしようもない感覚とイラ立ち」をずっと抱えているのかもしれない。

その象徴を目の前で見せられたようにも感じて、

うん、上手にガス抜きしていくことを、普段以上に心がけないと……って、改めて思えたのだ。

まさにこんなときだからこそ、意識してください。

どうか可能なときには、存分に自分に優しくなって、

自分を甘やかしてもいい時間をしっかり味わってください……。

心からそう願う。

生きていこうとする力

先日来、人の心と身体のすごさ、不思議さを感じる話にいくつか出会っている。

心の病や機能性障害などに関する話なのだが、それらから私が感じたことは、

人は、生きていこうとする力を元々備えているのだな、ということだった。

このことは、以前から何度か、その欠片のようなものを感じてはいた。

たとえば映画「レナードの朝」を観たり、

ノンフィクション「24人のビリー・ミリガン」を読んだりしたときに、

生きるために、人は「あらゆる方法」で自分を支え、守ろうとするのだな、とか。

その方法は、ときに人智をも超える。

これ以上自分を「傷つかせない」ために別の性格をつくり出したり、

機能的な障害が起きてもそれを補いながら、できるだけ恒常性を保とうとする。

すべて、自分の意志でも誰の意志でもない。

心や身体が、そう判断するのだ。

それゆえに、結果として本人にはつらいことになったりする。

たとえば「レナードの朝」では、たまたまある薬物が劇的な効果をもたらし、

患者は回復を見せるのだが、やがて激しい副作用により投薬を続けられなくなり、

元の「硬直してただジッとしている」状態に戻ってしまう。

その奇跡的な一時回復は、本人や家族にとって幸福だったのか、不幸だったのか?

そんなことを考えさせられたりもするが、

別の見方をすれば、「身体があきらめず生きていた」からこそ、

そうした奇跡が起こりうることを本人や家族は知ったのである。

24人もの人格を生み出したビリー・ミリガンの場合は、

「生きていくうえであまりにもつらかったこと」を封印するために、多重人格を作り出していく。

でも、それもまた、まさに「生き続けようとするからこそ」なのだ。

確かに別の苦しさをもたらしはする。けれど、そうした力があること自体は、

ただ素直に、すごい、と、私には思えるのだ。

もうひとつ、こちらは現在進行形の実例の話。

画家の翠葉さん のブログから知ったのだが(翠葉さん、ありがとうございます)、

かっこちゃん、こと山元加津子さんという、福祉の世界でとても有名な先生がいる。

その同僚である宮田俊也さんという方の話である。

宮田さんはある日突然、ひどい脳幹出血で倒れ、寝たきりで二度と意識も戻らない状態になるはずだった。

が、なぜか同僚であるかっこちゃんは大丈夫だと思い続け、

「きっと、宮ぷー(学校の生徒につけられたあだ名)は意識が戻る」と応援し続けた。

病院側の努力・協力もあり、結果として宮ぷーは徐々に意識を取り戻し、まったく動かないはずの身体も

ほんのわずかながら動かせるようになり、身体の微細な動きで気持ちを伝えられる

意思伝達装置、という媒介を通じて、会話ができるようにまでなっていくのである。

彼のここまでの回復は、確かに奇跡、と呼べるかもしれない。

だがしかし、これも「人智を越える」例ではあるのだ。

罹患したら100%絶対にダメ……な病気は、たとえば感染症なら

「狂犬病」や「狂牛病」だけだし(ただし、これも厳密に100%とは言えないそうで、

狂犬病には数例の延命報告があり、狂牛病もこの先はまだ不明、であるらしい)、

それ以外は「遺伝子的要素」によりかかってしまう難病くらいだそうである。

あとは「10年後生存率」など統計による「あくまで確率的にみて」の話でしかない。

いったい、そこまでして生きようとする力が、自分のどこに潜んでいるのだろう。

それを事前に知ることは、自分にも周囲にも、医師にさえもできない。

でも、確かに、私たちの身体と心はそのような力を持っていて、

生きるために、私たちを守ろうとしてくれる。

以前書いた「死にたい気持ちは脳の過ち」である、という下園荘太先生の話によれば

鬱という病も自分を守るためだし、生きようとするあまりに脳がミスを犯すからこそ、

自死という発想が起きるのだ。

自分のなかには、自分のまったく知らないところで、

そんなすごい力がもともと備えられているのである。

翠葉さんを始め、このことに改めて気づかせてくださった方々とのご縁に、心から感謝したい。

最後に。

宮ぷーとかっこちゃん先生の話は、ドキュメンタリー映画として撮影が進められているので、

その情報をお知らせしておく。

わたしは以前、かっこちゃん先生ご自身のドキュメンタリー映画を観たことがあり、

この人はすごく困難な道を歩まれているな、でも素晴らしいな、と

思っていたのだが、そういう人がまた、よりによって(と言っていいと思う)

このような出来事にめぐり遭い、宮ぷーを支えているのかと思うと、

なんだかもはや、彼女は「神様」にそのように仕組まれ、

「障害」という状態が秘めているある種の素晴らしさを、

伝える使命を持たされているんじゃないか……とさえ思う。

●E.E.プロジェクト(映画についてと、予告動画)

http://www.ee-pro.net/movie/miyapu.html

●宮ぷーこころの架け橋プロジェクト チラシ(PDF)

http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko//miyapupuro/miyapuketui.pdf

●ブログ 「宮ぷー レッツチャットで、今日もおはなし」

(すごさが伝わる日記をリンクしておきます)

http://ameblo.jp/miyapu-ohanashi/entry-10940502691.html

「孤独」ではないということを。

前の文章の続きのようなもの……です。

私には、あなたを「助ける技術」はありません。そのような専門的な勉強はしておらず、

職業として責務を負ってきたわけでもありません。

ただ、人に話すのが怖い、と思う方に「一度だけでも、体験してみてください」と言いたいのです。

それが何を意味するのかは、ご自身で必ず感じていただけることだということは「知って」おり、

私は、きっかけのきっかけ、小さな小さな第一歩の、背中押し役なのだろうと思います。

また、自分は誰ともつながれない、誰にも話せない、

どこにも行けず、ひとりぼっちで孤独な人間なんだと、思われる方がもし、いらっしゃったら。

だいじょうぶ、あなたは絶対的に「ひとり」で「孤独」ではありませんよ、と。

私でも、あるいは私に限らず、あなたの話を聞く人は、この世の中に、必ずいますよ、と。

その点だけでも、お伝えしたかった……のだと思います。

だって、それは、本当のこと。

厳然たる事実なのですから。

孤独を、孤独のまま、自分のなかで放置して、

これ以上、ご自分を苦しめる必要は、もうないですよ、と、

たぶん、私は、言いたいのだと思います。

それを、今、ここでお伝えしておきます。

必要な方へ、必要なタイミングで、届きますように。