カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

欠点は、本当に「欠点」か

私が、自分自身を探るという作業を延々やっていたときに、気づいたことがあった。

生まれて以降、親や、友達や、社会から学んできたこと、そのときどきに人から言われたり、自分で感じたこと。

そのなかで「私は、こういうところがいけないんだよな」と思っていた部分は、

他の人から見た場合、見方によっては「うらやましい」とさえ言われるものだったりしたのだ。

たとえば私の場合、はっきりと、思ったことを表現してしまうこと。

親からはさんざん「建て前というものが人には必要」と言われ、本音で話しすぎるといさめられていたのだが、

あるとき「肚を隠さない人」とか「腹蔵のない人」という言葉でほめられた。

しかも、その意味が伝わりやすい、と。

伝えようとする言葉を「選ぶ」のは、職業柄ゆえのクセかもしれないが、自分にとってはずっと長い間、

「欠点」だと思い込んでいたものが、大人になってたぶん、ある程度の分別もついたのか、あるいは

自分の表現方法が変わったのか(たとえば柔らかくなったとかね)はわからないが、

一種の「美徳」的な形で受け止められたのだ。

そうした例がいくつかあって、自分でも結構、意外だった。

極端な言い方をすれば「ないものねだり」な感じで、それが欠けている……と思う人にとっては

「そうできること」はいいことだったのだ。

確かに、強気な人はビジネス面では「主張がわかりやすい、頼れる」とも受け取られるだろうし、

別の場面では「強引」と思われるだろう。

そのように、性格的なものや行動時のクセは、相手次第でどちらにも受けとめられる、

長所でもあり、短所でもありうるのだ。

だから、これまで自分をいろいろな面で卑下し続けている人は、

それが本当に「100%絶対にいけないことなのか」を客観的に見直してみればいいと思う。

長所と短所は表裏一体だということに気づけば、「絶対的にダメな自分」から、少しは離れられるかもしれない。

鬱になる、ということは、感受性が高い証拠である。

きつい言い方かもしれないが、無神経な人は、ある意味、鬱になりにくい。

他人に気を遣わない場面が多いからである。

それを「強さ」と取るか「無茶」と取るかも、そのとき次第、相手次第だろう。

私は、強引で自分勝手なタイプの男性と結婚生活を続けた結果、何十年も経ってから、

ある日突然、片方の耳がほとんど聞こえなくなってしまった女性を知っている。

夫である男性が、外出時などにいつも並ぶ側の耳だった。

もはや身体が「相手の言葉を聞くことを拒否」したのだ。その人自身を、守ろうとして。

もちろん、それによって相手の男性の態度が変わったわけではなく

(医者からはストレスだとはっきり指摘されたにも関わらず、だ)、女性は自分を責めた。

それくらい、心や身体は、敏感に反応を示すことがある。

鬱は弱さ、だけではない。優しさ、気遣いという面も、含んでいるのだ。

今はまだ、自分の欠点を思い起こすことさえ、キツイ作業かもしれない。

でも、強すぎる人から見れば、弱い人は心の広い人かもしれない。

嫉妬心が強い人は、向上心も強いかもしれない。

がんばりすぎてしまう人は、自分を励ますのが上手いかもしれない。

そういう、いろいろな面を含んでいるということだけでも、知っておいてもらえたら、と思う。

「あなたの良さ」は、「あなたの悪さ」の裏返しの面かもしれないのだ。

だから自分のすべてを否定し尽くす必要も、本当はないのである。

自分が「好き」とか「嫌い」とか。その(2)

さて。

昨日書いたように、自分の視野が今は偏っているという前提のもとで、

できればひとつ、作業をしてみてほしい。

これは変わっていくための、あるいはその暗闇から抜け出すための

第一歩だと思っていただければうれしい。

ただし、鬱という病のまっただ中にある人は、

自分の脳がまともに作動していないので、

そのことも十分、承知しておいてもらえたら、と思う。

やることは筆記、だ。

ノートやルーズリーフに、自分のどんなところが嫌いかを、箇条書きしてみる。

PCを使ってもいいが、手書きのほうが、本音の言葉を思い浮かべられるように感じる。

誤字も脱字もレイアウトも、気にならないから。

思いつく限りの全部を、書かなくていい。

2~3個あれば十分だし、順位も、順番もいらない。

書いたら、そのうちからひとつを選んで、今日のテーマとする。

どんなときにその部分を「嫌い」と感じたかを、

思い出して、また下に書いてみるのだ。

何度も感じたことがあるなら、どんどん、過去にさかのぼっていっていい。

書きやすいテーマを選んで、思い出も、長々と書く必要はない。

自分さえわかればいいのだから。

恥ずかしい気持ち、隠していた感情も、書いてみよう。

このときに気をつけてほしいのは、それは単なる過去の羅列であって、

今のあなたを責めるためのものではない、ということ。

それでも書いているうちに、あまりに心苦しくなるようなら、

他のテーマに変えてもいい。

書きながら泣いても別にかまわないのだ。

ざっと書き終えたら、いったん、休憩する。

自分を落ち着かせ、視点を変えるための作業だから、

そこから、自分の気持ちを切り離してみてほしい。

一息入れたら、次に、目線を変えてみる。

その過去の出来事が起こったときに、

あなたは、本当はどうすれば、自分を嫌いにならずに済んだだろうか。

それを考えてみるのである。

ポイントはあくまで「自分を嫌いにならずに済む」である。

だから自分だけ得をする、とか、自分だけ我慢する、という方法も、

そこでは選べなくなるはずだ。

書いてみるとわかると思う。

解答は、こうしたらよかった、あるいは

結局、あのときは、そうするしかなかった、のどちらかしかない。

そして、改善点を見つけられたのであれば、

実はそのとき、すでに気づいていたのに選ばなかったのか、

今、気づいたとしても、もうそれで知ったのだから、

次からは、その改善点を「使える」のだ。

どの選択肢もベストではない場合は、どれが一番「マシ」だろうか。

実は一番マシなものか、二番めくらいのものをすでに選んではいなかっただろうか。

ある意味、あたり前なのだが、人は、何か行動するとき、一番よいと

そのときに思ったやり方を選んで行動しているのだ。

どうしようもなくて、それしかなかった、なんて場合は、その立場になったとき、

誰でもそうするってことだ。あなただけが、あなた自身をさげすみ、嫌いになる必要も本当はないのである。

この辺のことは、理屈で書いても実感できないかもしれない。

実際に、試してみてほしい。

さらに。

あなたが尊敬する人、大好きな人、親しい人、そんな人を1人、思い浮かべてみる。

もし、その人が、過去のあなたと同じ状況になったとしたら、

あなたは、その打ち明け話を聞いてどう感じるかを、考えてみる。

許せないだろうか。

あり得ないだろうか。

その人を、絶対、確実に嫌いになるだろうか。

仕方なかったよ、とは、思えないだろうか。

落ち込んでいるその人を、励ましてあげたくはならないだろうか。

もし、仕方ない話だとはどうしても思えないなら、

やはり、そのことにもう気づけたのだから、次から選ばなければいい。

仕方ないよ、と、なぐさめたくなるなるなら、

あなた自身に対しても実は同じ話だってことになるのだ。

なぜ、大好きな人なら許せるのに、自分自身は許せないのか。

どこまであなたは、自分に対し「完全無欠であること」を求めているのか。

あなたは、そんなに素晴らしい、立派な存在であらねばならないのか。

ならないとしたら、それはなぜか。

こうしたことを、どんどん書いていくのである。

解決、ではない。そういうところにたどり着ける脳ではないので、

たぶん、途中で堂々めぐりになるとは思う。

それを解決へと導くには、他の人や本などからのヒントや、別の出来事や、時間も

たぶん、必要になるだろう。

ただ、今は単純に、視点を変えるとはどういうことかを体験してほしい。

検査で原因を見つけるかのように、

自分が自分を嫌っている「元」の部分を、知ってみてほしいのである。

今日はやり方を書いたので、私が感じたことの掘り下げなどは、また明日以降に……。

ぜひ、「感じて」みてください。やってみて損はないと思うから。

弱さを認めるために

心と身体は深く関係しているので、心が弱ると身体も弱る。その逆も起こる。

そうして弱っていったときに、何かで徐々に切り替えていければいいのだが、たまたま痛む出来事が

重なってしまうことがあると、そこから抜け出せなくなり、「何もかもダメ」という気持ちになっていく。

病は気から、という言葉があるように、そうなってくると体調もますます狂いがちになる。

持病の悪化や体質の変化を招くのだ。そして、がんじがらめになる。

今回の天災のように、突然降って湧いた出来事には、誰も、太刀打ちできない。

そうして一気に、落ち込んでしまった人もたくさんいる。

これは被災地だけに限らない。

津波映像を見て、あまりのひどさにショックを受け、引きこもりのようになってしまった方も大勢いるのだ。

今回の震災そのものについて、今日の話の例えに出すつもりはない。

なぜならまだ、あまりにいろいろなことが現在進行形で混乱し続けており、先行きが見えなさすぎるからだ。

だから震災前から痛んでいて、今、さらに苦しくなっている人に向けて書いてみたい。

自分の人生になんとなく青写真を描こうとし始めていて、それがうまくいかず、苦しい人に向けて、だ。

仕事の面で、段取りや予定が狂った人も大勢いるだろう。

震災はさまざまな方面へ影響を与えているし、いろんな形で、人の心を痛めさせたから。

そういう前提で、書き進めていく。

弱っている自分がいて、なんとかそこから脱出しようとするときに、よく聞く言葉がある。

本などにもたくさん書いてあったのだが、それは「そうなってしまった自分を許す」という言葉だった。

簡単に言ってくれるな。こんな今の自分を、そうそう許せるはずはないじゃないか、と、私も思った。

でも、まずは単純に考えてみよう。

通常、何か問題やトラブルが発生した場合、その解決を図る手順はこうなる。

現状の把握 → 原因の追究 → 改善案の作成 → 実行

そのこと自体は、間違いではないだろう。

そして現状の把握とは、今、自分が「どうなってしまっているのか」を分析することであり、

原因の追究とは、「なぜそうなったか」を探ることである。

このときに「こういう理由でこうなった」と、見つけなくてはいけないのだ。

そして、その見つける、という部分が、また「今の自分の現状を認める」ことにもなる。

自分の現状を認めるというのは、自分は、こんなところが弱かった、と、認識すること。

その弱さを、自分でしっかり把握すること、である。

そして改善していくにあたり、それを「許す」こともまた、必要になるのだ。

「すでにそうなってしまっている自分」である、という立場から始めないと、

新しいしっかりした改善案は作成できない。

過去の原因だけ追究しても、現状を把握していなければ、また別の段階で失敗するだけだろう。

このように書くと、自分を許していくことは、避けては通れない道であることが、少しはおわかりいただけるだろうか。

ありのままの現状を認め、その状態から、自分を立て直す基盤をつくっていくには、

まず何より、「ありのままの自分」そのものを、自分に許さなくてはいけないのだ。

それを否定し続けることは、自分の現状を認めないことになる。

つまり、失敗した自分というものを、認めないことになるのだ。

そりゃあ、そのままでいる限り、どんどん自分のことがイヤになるよね。

そんな状態で改善を図ろうとしても、しっかりとした基盤をつくって持ち直すことは、ものすごく難しい。

自分を見ないまま、表面だけ取り繕うようなものだもの。どこかでまた、別の形でほころびが生じる。

もちろん、何度も書いてきたように、「揺り戻し」はたいていの場合、起こる。

三歩進めば二歩下がるだろうし、もしかして三歩、四歩と下がってしまうかもしれない。

でも、三歩でも進めれば、たとえ戻ったとしても、その三歩分をまた歩き直すことは前より容易にできる。

その部分でもどかしさを感じても、自分の努力を認めることで、より早く、元の三歩先まで再び進むことができるのだ。

こうやって、「気持ち」という部分を脇に置き、理性的な言葉で語れば、なぜ、今の自分が

うまくいってないか、とか、改善に至る過程のどの部分にいるのかは、少し理解できるだろう。

やっかいなのは、その「気持ち」の部分だ。

見たくない、認めたくない、許せない(自分のことも、相手がいる場合は相手のことも、ね)。

感情というものは、理性で制御できるわけではないので、そうそうすんなりと、いくはずもないのだ。

でも、あえて考えてみてほしい。「イヤだもん!」と思って、自分を、自分の状況を否定し続けて、

何か変わっていくだろうか。感情だけを「あるがまま」にさせておくことで、あなたは、

新しい自分になれるだろうか。

震災だって、気持ち的な部分では、本当に日本全国の人が、心を痛めている。

沖縄だろうが九州だろうが関西、四国、東海だろうが北海道だろうが、その気持ちの部分では関係ないのだ。

では、そうやって気持ちに振り回され続けて、体調も崩して、あなたは、そのままでいいの? と聞かれたら、

もちろん、答えは「No」だろう。

であれば。

「こんな私はイヤ」というところから、少しずつでも「今の私」を認めていくしかないのである。

そうなってしまった「弱い自分」であることを、自分に許してあげたほうが、結局は早く改善できるのだ。

そのために、プロのカウンセラーがいる。病院がある。さまざまな集まりや、吐き出し口としての

電話(この相談窓口もあるよね)、ブログ、手紙、会話。知識としてのネットや本、そういうTV番組。

手段は、あなたに合ったものを探せばいい。

自分の弱さを認めることは、何も、自分を卑下することではない。

そういう心の問題は、今の日本を見てもわかるように、誰の身にも起こりうるのだ。

そして、どんな原因でそうなってしまうかも、千差万別なのである。

それを「自分だけ」が悪い、弱い、どうしようもない、と、さげすむ必要は、本
当に、本当にない。

あともうひとつ、弱っている自分を、まるで非難するかのように、ガンガン追究しないこと。

だんだんと「許していく」のだから、それこそ今からは、自分に優しくしてあげよう。

日々のニュースなどで心が痛む人は、たとえば昨日、私が書いたように、光で自分を守ってあげてほしい。

身体の中心から四方八方に光を広げ、さらに身体の外側にまで、卵のように自分を優しく包み込むような

光を広げていくイメージを思い浮かべてもいいだろう。

こうしたイメージングは実際に、身体と心をゆるめてくれるのだ。

その光のなかで、他人やテレビからの影響を受けず、ゆったりとまどろむ自分を想像するとか、ね。

その光は、あなたをこれから先、明るい方向に導いてくれるお守りのようなものだから、

つらいと感じるたびに、思い描いてみてもいいだろう。

もう、本当に、使えるものはすべて総動員するつもりで、自分を痛めつけることをやめ、

優しく、柔らかく、原因を探っていって、今の自分であることを認め、

そうあることを仕方ない、ここからだ、というふうに、許してあげてほしいと思う。

これだけは、私自身がはっきりと経験したので、約束できる。

弱さを認めることに挑戦する価値は、十分にある。

そのあとあなたは、まったく別の部分において、ものすごく強いものを手に入れる。

必ず、手に入れるから。