カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

誰かの二番煎じでなく「盗む」こと

お母さんの真似

お父さんの真似

あれが出来る○○さんの真似

 

うん、

良いところを「盗む」ためにやるのと

「あの人になろう!」(あの人と同じ人間になろう!)

とするのとでは、意図がまったく違ってくるよね、

言葉としては同じ「真似」でも。

 

仕事柄、デザイナーさんやカメラマンさんやその他、

「メジャー」な方々から、何度も聞いてきた言葉を、

あるインタビュー記事を読んで思い出したよ(最後にリンク、張るね)。

 

売れっ子の彼ら、彼女らが、軒並み、言ってたこと。

自分の感覚を『自分自身で』養う。それだけ。

 

たとえば、あるデザイナーさんの言葉。

自分のやってることで、いいと思ってくれたところは、

どんどん「同じように練習して、

感覚つかんで、盗もう」としてくれてOK。

でも、他人のものをまったくそのまま、模倣しようとしたら

自分の感覚の良さまで、どんどん殺すことになる。

 

そこに気づかない人は、一生、他人の真似しかしないし、

真似している限り二番煎じ、

オリジナルの人を絶対に抜くことは出来ない。

当たり前だよね、オリジナルの人は「自分の感覚」を使ってて、

自分の感覚でそれをやってるし、大事にしてるもの。

 

うーむ。今、あらためて考えれば、これは仕事のみならず、

人生、全部そうだわ。

 

誰か何か、に『自分のことを何とかしてもらおう』と

「たくらんで」いる限り、

ずっと誰かの気に入るようにしなくちゃいけないし、

それ、自分じゃないわ。

 

他人になりすまそうとしてるってことでもある。

他人の感覚で生きていくことでもある。

自分が楽しいかどうかの感覚を無視して

「他人が楽しそうなことを猿真似」したり、

誰かの言うこと『だけ』を聞いて「正しく」「良く」なろうとして

自分がどう感じるかはバカにしてたり無視したりして。

 

それで万が一、良くなったり正しくなれたり成功できたとしても、

自分はいつまで経っても「楽しくありません」「落ち着けません」

「これでいいか確信が持てません」。うん、そりゃ当たり前だ。

あなたの確信は、あなたの内側『だけ』にあるのだから。

 

そう考えたら本当に、

自分を嫌ってたり、バカにしてる場合じゃないよ、

そっちを解放して『やめ』ない限り、

ずっと「誰かへのなりすましを、たくらむ」だけの人生だよ。

 

何か、壮大とか、立派とか、尊敬やら愛やらを集める

自分になろう、ならねば、と、誇大な妄想だけして、

いつまで経ってもできなくて、

他者ともうまくいかなくて

自分ともうまくいかなくて

イライラしていく人生と。

 

どんなに小さいことでも、自分の感覚に従って

これ、好きだ、楽しいな、心地いいいな、と

毎日プチプチ思えて『私はこれがいいんだ』を味わえる人生。

 

それこそこれって、「どっちのほうがトク」だろうね?

 

誰かの命令、誰かの感覚に従って生きていけば

間違えないのに! と信じて、

そのために自分の『オリジナルな感覚』を

徹底してバカにし続ける人生と、自分がうれしくなれる人生、

どっちが「ラク」だろうね?

 

このインタビューでも、お二人が会話されているのは

「他者の意見でなく、自分の感覚を大事にできるかどうか」の話で、

それを実際、やってみたことについての感想だ。

 

「成功」してるかどうかとか、そういう視点だけで見るから、

妬みの気持ちが浮かぶ。

偉そうに、と批判したくなる。

 

心屋さんの「僕だから」という言葉も、本当にそうだと思えたよ。

この言葉を、心屋さんへの批判として使うのか

「どうせ私は何も持ってない」という比較しての自己罵倒に使うのか

「だったら私も、自分自身の感覚をもっと」という

やり方、テクニックを盗める教訓として使うのか。

 

それによって「あとの結果」が変わってくると、改めて思えるよ。

 

そのための練習って、

ひたすら、ひたすら「今」を味わう気持ちになることだと思う。

今できる「心地よくなれること」を毎日、練習すればいい。

いたわる時期の人は、本気でいたわろうよ、自分を。

何かに「成り代わろう」とするより、そっちが絶対『先』だよ。

 

そんなことで人生うまくいくはずがない! 

というやり方を選ぶのも、

自分の「オリジナル」な感覚で本気でそう思えて、

それが本当にうれしくて楽しいなら、いいんじゃない?

人に認めてもらうために、ではなく、

人を見下げたいがために、でなく、

自分自身が「うれしいから」なら、それでいいんじゃない?

 

自分が好きなものに対して、その「好き」という感覚に

自分で責任を取る、ということでもあるから、

甘いばっかりじゃないと思うよ、これ。

まあ、他人についていって『おべんちゃら』かまして

何の責任も負わずして甘い汁、

横で吸わせてもらいたい人もいるだろうから、

自分で「自分の好き」を感じたくないなら、

それはそれで、自分にとって楽しいと感じられるなら、ヨシ。

徹底的に、それをやればいい。

自分の感覚を使うほうが、ラクにはなれると思えるけれどね。

 

少なくとも私は、このインタビューで

「けっ!」と他人を批判してバカにしているつもりで、

実は内心、嫉妬してひがむのは、自分が楽しくないな、と思えたわ。

ま、どう受け止めようと、それが「自分のオリジナル」な感覚なら、

それでいいのか、うん。

 

てなことで、そんなことを思い出させて感じさせてくださったお二人に、

感謝の気持ちをこめて、リンク。

 

◎宮本佳実 さん
『心屋仁之助さんとのインタビュー記事が公開されました^^』
http://amba.to/1SUjnmV

 

2016_05_08_1

うれしいこと、ホッとできること、小さくたくさん。まずはそこから。
Photo by jarekgrafik
Pixabay

 

恥をかきたくない、認められたい、の、さらに奥にあるもの

おお、なんだこれは、という「上下目線」の情報が

わーっと表れたので、紹介しておきます。

私には使えない(まだ勇気がなくて、

あるいは不向きで、な)表現で伝えてくださる方たちに

心からの感謝を捧げつつ。

 

自分を見下げて「どうせ私なんか」と言う方に届けたい。

その捉え方ひとつですでに「自分を苦しめてる」んだってこと。

お金やら立場やら、アタマやら資格やら、

見た目やら行動範囲やら、

あなたの「問題」は、そこでは全然、ないってこと。

 

くどいけれど、自分を苦しめている「ものごとの捉え方」を知って、

そこから自分を解放することのほうが、先だってことです。

そうすればお金も立場も見た目も、それこそ変わってくるよ。

 

ではいきましょうか。

あ、もちろん、自戒を込めてますよ。

私もまた、今は日々、これらを学んでいるからこそ、

自分の目に止まったのだと思います。

そして今回のご紹介が、

心屋さん方面の方お2人なのは、勇気のある

「自分で情けないと思える部分を明かせるようになった」方たちが

その界隈に多いからだろうなあ、と。

その部分でもしみじみ、脱帽するよ。

 

ひとつめ。

女性同士の日常のつきあい、その間にも、

こんな気持ち、あるよね、という。つまりは上から目線バージョン。

◎TAIZO さん
『要するに「ぼくちんをほめてちょんまげ」って
言いたいだけなんですよ』
http://ameblo.jp/drfg2nd/entry-12156516725.html

 

ふたつめ。

たぶんこれって、「自分を認めていない」

ということも、本当は関係しているだろうな、とは思う。

きっと関係しているのだけれど、実はその奥? 周辺? に、

さらに自身で、気づけた部分がありました、な打ち明けの例。

とある「座談会」の開催主催者をやってみたら、

気づかれたという……うーむ、すごいな。

ちなみにPCで見ると真ん中あたりの1行が、

なぜか下段のアメーバ広告で隠れて消えていますが、そこには

 

違う違う、こんなキレイな心じゃないの。
単純に…プライドが許さなかったみたいなの笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

という文章が隠れています。うおお。

◎にゃあ さん
『「私なんて助けてもらう価値ないので」という言葉の中身は
クソみたいなプライドでした(土下座)』
http://amba.to/1XdpZ5g

 

でね。

これ、とりあえずの解決策なのだけれど……。

今、まだ「自分が得したい!!!」の方には届くかも、と思い、

たぶん初めて『Black&White』な生き方の方の言葉を、

ご紹介してみることにします。

 

得したい。その気持ちを、もろに事業にしつつ、しかも成功したうえで

それでもこの人の言うことには、なんか一理ある、という(笑)

とても「希有な例」の方の言葉です。

 

「それだとあなたが損をするんだよ」という言葉が

これほど、ご本人の心理や行動や「結果」に

裏打ちされている方もすごいな、と思うのです。

光と影、どちらも濃くて突き抜けてて、すごいパワー。

 

そんな人が、スピやら、宗教やらを吹っ飛ばした枠で

「自分のあり方」を説明すると、こうなります。

この説明の仕方のほうが、今は届く人、いると思う。

実際、リアルで説得力があるよー。音声動画です。

あくまでもこれをきっかけ、ただの「途中経過」にしてほしいので、

動画の画面まではリンク張らないけれど。

 

あ、動画中の言葉を2つ紹介しておくね。

 

「先生がそう言ってたから」って、何十年落ち込んでるんだよ

 

愛だと思って相手の「振動数」下げるようなことばっか言う人、

いるんだよな

 

どう?

 

◎斎藤一人さん
『悪いことばっかり起きる理由』2016
https://youtu.be/CY5Zuw8U65E

(わかる人には伝えておくね、
斎藤さんがバシャール的世界を解釈して説明すると、という内容です)

 

2016_05_07

Photo by jarmoluk
Pixabay

 

感じる「心」の力はあるよ

苦しいから、なんとかしたい。

なんとかできない、だからもう、生きることから逃げたい。

 

あのね、だったら、

なんとかしたいのに、の、その『なんとか』の価値観、

変えるっていう方法は、あるよ。

 

自分を過小評価しているときは、そんなこと、

たぶんやりたくなくて、

これまで抱えてきた、その『なんとか』という部分、

過去から思い込んできたその「考え」に、先に執着するのだろうね。

 

もう本当、文字通り「憑かれる」という感じ。

なんとか、の部分を達成したい、でももう、

失敗したくない、と、頭で「考え」ておびえる。

 

おびえるから、次に、心も冷えを「感じ」る。

 

なぜ失敗したくないのか、というと、そのなんとか、の部分で

これ以上、自分に失望したくないから。

なんとか、の部分で、

社会的に「うまく立ち回れない自分の情けなさ」を

自分で見たくないから、なのだけれど。

そこからしてもう、捉え方が

思い切り偏っていて、つまりはそういうときって

 

過去の暗い記憶やら世間一般の価値観? だと

自分が信じ込んでいるもので、もうすでに

いっぱいいっぱいになってる「脳みそ」だけで、

まだ、ものごとを全部、捉え、カタをつけようとしている

 

っていう証拠なんだよ……。

 

と、自分の過去の記憶を掘り起こして、そう思う。

 

あなたに通じそうな表現で言えば、

疲れ切った脳みそにまだ無理やりムチ打って、

まだ、なんとか、の部分で誰かにやってもらうなど、

ずる賢く立ち回ってトクをしようとしてるよ

 

という話。要はこれまでって計算しまくってきたのよ、

あなたの過去の経験の「記憶」だけで、頭を、使って。

 

自分にとって、今までの経験がすべてなんだ、

それこそが『私がダメな証拠』なんだよ! と、

あなたは言うだろうけれど、

じゃあ本当に、すべての経験を覚えているかというと

覚えてないよね? 

というか、わざわざ比べて悲観的になるため用の

「過去の、外側に自慢できそうな、ものすごくよかったこと」以外は、

良い記憶のほう、使ってないよね?

 

普通に無事に過ごせた部分なんて、使いたくもないはず。

自分が今まである意味「普通だなんて」と、馬鹿に、粗末にしてきたから。

それゆえに、その平凡さの、

『落ち着きの記憶』さえも使えなくなってるよね、今は。

 

そしてそういう、悲観的に使うための素晴らしかった良い記憶か、

または失敗的な悪い記憶ばっかり、

これまで何度も何度も思い出させられてるから、

脳みそはめちゃくちゃ疲弊してるのよ。

心も、だからこそ、冷え切ってるの。

 

そんなことしなくても、

あなたには「頭より先に感じる心」という能力もあって、

それは別に、まったく衰えてなくて、

ただ、あなたがそれには意識を向けないから、

再び気づいてもらえることを、今は静かに待ってるのよ。

 

あなたは頭ですべてを、まかなっているわけではない。

頭、脳みそは、自分が普段使える範囲で言えば

五感と記憶から「反応を起こす」ための、処理装置だよ。

しかもそれ、心からの入力も結構、利用してる。

 

心で『感じる』という部分が先にあって、

それを頭があとから認識していることも多い。

 

でも今、あなたは自分をダメだと、先に頭で捉えておくことで

「悲しい」とか「寂しい」などを発生させてる。

頭から、心に降ろしていってるのよ。

逆の、心から頭へ、のルートは遮断して、頭で先に世界と自分を否定して、

そんな否定をするから、心も『悲しみ』を感じるの。

意味、わかるかな。

自己否定、他者否定の言葉を信じると、心には「悲しみ」の部分が伝わるのだ。

 

心から頭へ入る部分はなかなか使ってもらえなくて、

それゆえ、うれしい、楽しい、平穏、という感覚も

あなたから「頭で」拒否される。そんな場合じゃない! と。

なので心は、受け取るだけの控えめな形になっている。

 

控えめにしているその心の部分、

再び使えば、頭の状態もまた良くなるのにな。

 

要するにあなたはまだ、いろいろ計算したいのよ。

何が何でも、幸せを世間さまに見せつけたい。とかね。

どうしても、

非凡であったりしたい、

他人より優れていたい、

素晴らしい私を見ろ! と叫び、

自分が評価してもらって、それを受け取れば

自身でも素晴らしいと信じられる、と考えているんだよね。

 

つまりはそれ、計算、なのよ。

「ああやって外側に対してこうなりたい」なわけだから、計算。

狭い世界で王様になりたい、

井の中の蛙になりたい!

という欲望を、捨てきれないんだね。

 

うん。確かにそれもまた、ひとつの人生だ。

ある特定の他人をなんとか見下げられるようになりたい、

あるいは世間さま、的な他者を

見下げられる位置に立ちたい。

または、誰かの力でそういうところへ、連れていってほしい。

そう願うあまりに、その計算がうまくいかなかった今は、

結局、自分を見下げて、馬鹿にすることを選んでいる人生。

 

心→頭の良いほうの入力ルートは使わず、

本当の意味での自己責任を背負うことは嫌がり

(自分の人生は本当は自由でその代わり自分個人のものだと覚悟したくない)、

金や見栄えや、地位や立場や他者との関係などで自分を飾りつけて、

ほかの平々凡々な他人を見下ろしたいと願う人生。

日常なんてくだらない、と、ありがたみなど、クソくらえな日々。

 

そんな生き方を選ぶんだね、今は。

そこから抜け出す力は、ずっと持っているのに使いたくない人生。

 

つらいね。

気づいていけると、いいね。

 

2016_05_03

Illustration by Viscious-Speed
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