カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

認められなくても」の部分の、自己変化

昨日の記事を書いて、

ふと、書きたくなったこと。

 

本気の「過去形」で綴れるようになった、

今の私の変化を、感じてもらえたら幸いです。

 

私は、優れていたい人、でした。

成功、という結果を残したい人だったし、

コンペで勝つ、とか、読みが当たる、とか、

良いものを作った、と誉められること、

また、その機会、チャンスを取りにいったり、「もらえる」ことまで含めて、

とてもとても、そういうことが、好きでした。

 

やり甲斐はあったし、

実際、誉めてもらえたら、すごくうれしかった。

数値での結果や、記事の視点での結果が残せた、

と感じる瞬間も、とても幸せ。

 

そういう人間でした。

 

結果が出せたら、誰でもうれしいよね、

と、当時の私は思っていて、

よい結果を密かな自慢にもしていたし、

自分が作るものに対しては、

「少なくとも自己採点で80点」、

と自分でできるだけ思えるように、やっていました。

 

もうね。

この段階で、私は自分で作った罠に、

自分で2つも、はまっていたわけですよ。

 

1つめ。

80点、って何よ。の罠。

明確な基準など何ひとつなく、

感覚的な、自己満足度で付ける点数。

 

社会人3年目の80点と、

社会人10年目の80点では、

当然、レベルが違う。

だけどそれを計る物差しは、自分の感覚。

 

数値やその他、ハッキリとした基準があるならまだしも、

自分の感覚が主体なのだから、

要はどこまで打ち込んで、どこまで自己満足できたか、だけの話。

 

客観的基準がもし、ね、あったとしたら。

社会人3年目での制作なら100点だったかもしれないし、

10年目だったら、60点に届いてないかもしれないのに、

打ち込んでいく、とか、調べて加える、とか、

そうした「のめり込む感覚」の部分で、

勝手に80点以上を目指してた。

 

しかもずっと同じ種類のものを、作っていた訳でもない。

ゆえに、自分でどんどん、「真剣に打ち込む」部分のハードルを

上げていくしかなかった。

 

で、あまり自分に向いてない制作物で、それをやろうとしたら?

無理矢理、自分に言い聞かせるしかなかった。

 

この制作物でも、レベルが低いもの、

私は、作るわけにはいかない! って。

 

また、過渡期にある制作物だったから、どんどん状況は変化するし、

そのたびに、80点以上欲しいわけだから、

出来る限りの情報は拾っていこうとするし。

 

イメージとしては、こう伝えれば分かるかな。

締め切り、納品。

つまり試験日と結果発表の日は決まっているのに、

試験範囲だけが、試験前になるにつれ、どんどん、広がっていくの。

 

中3レベルの試験だと思っていたら、勉強していく間に、

はい、この試験は勝手に高2の範囲も含みますよ-、となっていく、みたいな話。

 

実際にものを作りながら、その情報を内容に組み込もうとしたら、

そりゃ、制作の時間と、情報を調べて覚える時間に

忙殺されるの、当たり前。

 

なのにたとえ、いきなり高2レベルになろうとも、

そこで80点以上取ろうとしていたわけです。

 

無理無理。

そのことにまったく気づいておらず、

くー、情報、増えすぎじゃあ! などと

文句言いながら、やっていた私がいた。

 

さらに、ですよ。

みんな、誉めてもらえたらうれしいよね、の部分。

 

私は、実は他の人より、めちゃくちゃ執着していたのです。

「認められないと私は存在価値がない」と、

陰で自分が、はっきり思い込んでたから。

 

言ってしまえば、

他の人なら「普通にうれしい」こと、の範囲を、

私ははるかに、はるかに超えて、

そりゃもう、ものすごく喜んでいたようなわけで。

 

自分の存在意義を、認めてもらえた、の感覚。

この、他の人とのうれしさ度合いの差にも、全然、気づいてなかった。

っていうか生まれてこの方、そんなの、まったく知らなかったよー。

この「うれしさ度合いの差」が、2つめの罠。

 

もはや達成しないといけない!! の

強迫観念に近いものを持っていたのに、わかってなかった。

 

この2つが揃えば、どうなるか。

想像つきますよね。

 

そう。年を経れば経るほど、

職種としての経験値が上がれば上がるほど、

自己満足できるラインがアップしていき、

どこまでやったら達成したと思えるか、

自分でもわからなくなっていった。

 

何の目安もないのに、やってみるしかなくて、

ハードルを、上げざるを得なかったわけです。

 

実際に、作ったもののレベルが高かったかどうか、

ぶっちゃけ、わからないのにね。

判断の目安も、お客さんの感想くらいしかなくて。

 

セールスプロモーションなどで、売れ行き等、

数値化できる範囲が明確にあるものの場合は、

まだ良かったのだけれど。

 

そうではない制作物のときは、

あくまでお客さんの主観的感想、みたいな話だったから、

余計、歯止めがなくなって……。

 

基準のない自己満足ハードル、どんどん上げっぱなし。

コンペで勝つのも、お客さん(=その年の、担当者さん)の主観なのにね……。

 

ということで、自分に課すキャリアアップ、のイメージが、

上とか言いつつ、実はとんでもない方向へ進んでいったわけです。

 

そして当然の結果として、ある日プツッと、燃料切れ。

そりゃそうだ、ただの自己満足ハードルだもの。

その裏に「認めてもらえないのが怖い自分」がドカーンと潜んでて。

 

際限ないワーカホリック方面への突っ走りでした。

その道のりの途中、途中で、

大人の麻疹になって入院してみたり、

壊死性リンパ節炎になってみたり、

最後のほうは謎の発熱、繰り返してみたり。

 

身体全体からのSOS、いろいろと出ていたのに、それでもやめなかったのは、

ひとえに、本当は怖かったから、だったのですね。

おバカさん……。

ええ、バカ者でございました、本当に。

 

で、今の私になって。

うん。認められたりしたら、やはりうれしいし、ありがたいね。

でもあそこまでの執着は、しないですむ感覚。

疲れたら休めるし、そもそも、達成よりも、

味わえることを喜んでいっていいのだと思っています。

 

さらに。

親の期待からは、外してもらうよう、

本人たちに、ハッキリ伝えられました。

私が勝手に解釈して、勝手にプレッシャーに感じてしまうから、

その方向、私はもう受け止めない、

ということを、

やっと、やっと!

今年の初めに、親に言えた……。

 

実際、親からしてみれば、

とんでもないダメな子ども、と思われることも、すでにやってる。

だから今の親にとって、今の私は、かなりの親不孝者だろう。

 

でもね、自分が力まなくなって、

普通レベルの「誉められ好き」へ変化していってる今、

他者からどう思われるか、よりも、

自分が自分のこと、どう思うかのほうが大切。

自分を広くゆるめる練習も、まだやりたいし、

これまでとは違う方向で、

自分をきちんと、それなりに、ゆるいまま、

成り立たせてあげられるようにもなりたい。

 

ゆるやかに、呼吸していきたい。

温かいものをたくさんたくさん、感じたい。

それはとてもラクだし、ホッとできるし、

ときどき、キラキラするものも還ってくるし、

過去の経験値も、まったく役に立たないわけでもないし。

 

バカやって、壊れて、ぺしゃんこになる、

それでやっと気づけるレベルの、

本当にマヌケな私ではあるけれど。

 

私は、何が好きだろう?

私は自分に、何を楽しませてあげよう?

と、改めて思えるようになった今の日々には、

本当に感謝できる。

そこにたどり着けるまでに新しく出会った、

たくさんの温かい人たちにも、本気で感謝できる。感謝している。

 

過去のよい部分の記憶と、

今の自分の、よい部分、

および、悪くはない部分を

上手に使いながら、

これから、また、私は、別な方向へ、伸びていく。

日々の、いろいろを、楽しんでいく方向へ、伸びていく。

 

そうありたい、と思えるようになった、

すべての出来事、もの、人に、改めて感謝を捧げます。

バカさ加減に気づけたのだから、

ボッキリ折れた、あのときの自分にも、ね。

 

もう、怖くて耐えることも、

認めてもらいたがりすぎることも、

あのバカ者加減も、私には、いらない。

やっと、きちんと、そう言えると、

今、自分で思う。

 

2015_03_09

Photo by jojo nicdao
ID:201502272000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

別のところを見つめて、知ってみる

たとえば、自分のダメな部分を誰かから指摘されたとき。

 

→なるほど。では私、そこがダメなのだから

頑張ってそれをやめていこう

→その指摘を受けなくなった、あるいは軽くなった

→なるほど、これでいいんだ、と思う

 

しばらく経って。

→また同じような(あるいは別の角度の)指摘をされた

→なるほど。ではまた頑張ってそれをやめてみよう

→しばらくは指摘されなくなった

→やはりこういう変え方でいいんだな、と思う

 

このパターンをこれまで、繰り返している人は、

何か問題が起こるたびに、

「ではどうしたら、次から指摘を受けなくて済むようになるか」、

に注目している。

 

そうした方策を考えるのは、仕事などの役割分担ならまだ良いのだけれど、

いや、仕事上でさえ、いつも自分がそこにしか注目していないなら、

これ、実は、ときどき危険。

 

もしかしたら相手の都合や、その場の状況に合わせて、

自分を曲げちゃうとか、無理させることがあるから。

 

なるほど、という部分の「素直さ」は、

とてもいい『資質』なのだから、

その部分は大切に取っておいてね。

 

で、それとはまったく別に。

指摘を受けた
  ↑
このときの自分にも、ちょっと注目してほしい。

 

そう言われた自分のこと、どう感じるか?

毎回いつも『私はダメだわ』と否定的?

自分に対して、非難ごうごう?

ゆえに、では、頑張って○○を……。

 

またはあの人が、この部分が、悪いんじゃないか! 何言ってる! の反論中心?

で、同じく、では頑張って○○を……。

 

他者に対して、自分に対して。

いつもそこの視点でとどまっているなら、

少し、もったいないよ。

 

これは怒りや、悲しみ、後悔などのパターンでも同じ。

なぜ、私は、そんなふうに感じるんだろう。

その視点、あとからでいいから、持ってみてほしいのだ。

 

ただし、

こんなの許せない(自分を、または相手を)

なぜそんな!(相手が、自分が)

等を感じている間は、

その自分の『感情』にも振り回されるから、

上に書いたような視点、持つことは難しいよ。

 

感情の渦巻きから、ちょっと離れられたときに、落ち着いて

「なぜ私はそもそも、そう思う(思いたくない、

あるいは相手から思われたい、思われたくない)」のか、

このところを、紙にでも書き出してみてね。

 

するとね。

どの部分を、どんなふうに、自分が嫌だと思いたいか、または非難しているのか、

そういうのが、見えてくるよ。

 

そうしたら、さらになぜ、自分がそんな非難をしたくなるのか、

そう『自分が』感じるのか、を、見つめられるようにもなる。

それも書いて整理してみていいと思う。

 

実際、やってみるとわかるけれど、

このとき、誰々がそう言ったから、という理由、書きにくくなるのだ。

だって、その誰々さんと自分は、違う人だからね。

誰々に言われたことをきっかけに、

『あなた自身が思った、感じた』ことを書くわけだから、

なぜ、の理由は、別のところに見つかるはずだよ。

 

こうした掘り下げ、ぜひ、やってみてほしい。

自分が本当は、何を望んでいるか、見えてくるよ。

 

そうして、掘り下げたところで、もし「傷ついてる自分」などを見つけられたら、

それをまた、責めたり、変に哀れんだりするのでなく、

ああ、そういう自分がいるのだなって、

いったん、その『事実』自体は、淡々と認めてほしい。

 

たとえ居心地が悪く感じられても、そういう自分がいる事実そのものを、

見なかったことには、しないでほしい。

 

そういう自分がいたことを、ただ、知るだけでいいから。

そこから、視点が、きっと変わり始めるから。

 

とくに、いつも何か、うまくいかないパターンのことがある場合、

その場面における『自分が何をどう感じてるのか』

『さらに、なぜそう感じられるのか』を見てみることは、

自分の思考の切り替えに、やがてつながっていくよ。

 

「本当は私、○○だと感じてるや……」

「○○を願ってる……」

というところに、たどり着けるようになると、いいね。

 

いつもいつも、自分を責め、あるいは相手を責めて、

では変わらなきゃ、やめなきゃ、

次にどうするか、だけを考えるのでなく、

そのときの自分を、あとからでいいから、

いったん立ち止まって、丁寧に、見つめ直してみてね。

 

2015_03_07Photo by Chris g Collison
GATAG フリー画像・写真素材集 1.0

 

せつなさと 祈りと 自分が見ていく方向と

自分が痛めつけられているから と

さらに 自分より弱い立場の人間を 痛めつけることで

何とか 自分にだって力があるんだ ってことを 確認しようとしたり

 

自分を有利にしたくて 起こってもいない出来事を 

起こった あるいは起こったに違いないと 信じてみたり

そうやって決めつける形の考え方をする ある一方の立場 の人に

そうだったのか と「名誉&金銭」欲で 肩入れして

本当かどうか 調べてもいないことを

そうだったのだ! とさらに 美談に仕立て上げて 断定して拡散したり

それをまた 確かに金になるからと 持ち上げて 協力したり……

 

まあ……自分をすばらしいと思いたい その気持ちは確かに

誰もが 持っているものだし 決して 決して 悪いことではないのだけれど

 

そのための手段として こんなふうに

暴力や 金や 権力 立場 のほうへしがみついてしまうと

どうしても その居場所を守るために 嘘をついたり

自分が本当のところでは「そうは思ってない」ことも

「そうだ そうだ」「それは正しい」「すばらしい」などと

言わなくちゃいけなくなって 

ときには 自分も何か しなくちゃいけなくなる

そんな場面に たくさん遭遇していくよね……

 

そうしてますます 自分にとっての「ゆがみ」が キツくなって

それが自分の気持ちを 立場を 首を ジワジワ 締めつけていく……

 

またさ こうした「利害関係」にはまると

周囲も 似たタイプの人ばっかりになるから

その居場所での 時間が経てば経つほど

ここから抜け出す やめる なんて言うの

どんどん 勇気がいるようになるしね

 

それでも なお

そこから抜け出してほしいと願うのは 傍観者の勝手な願い かな

 

取り返しのつかないところにまで 進む前に

 

私はさっき ふと 宮部みゆきさんの

『名もなき毒』を思い浮かべ

人に染み込む そうした毒のことを今 まさに自分が感じているなと思えたのだけれど

辛くても なるべく早く それを振り払っていく勇気を

そこから逃げ出す勇気を 持ってほしいと とても勝手ながら 願ってしまう

 

それが暴力なら さらに

近所の警察さえ アテにならないときは

隣の都道府県の警察に 駆け込んだっていいから

どうか 自分を 守ってあげてほしい と

 

たまたま出会っただけ

あるいは少し やさぐれたりしたときに そうした世界に巻き込まれ

そこでおびえたまま 命の危険にさらされたり 命を失ったりするのは

あまりにも……せつないよ……

 

そして大人になってからでも

自分が 好き好んで 志向したとはいえ

その世界に巻かれたことに気づけず 

虎の威を借る状態にも

いつまでたっても気づけずにいると

痛いキツイ反撃のような形で

「借りてること いい加減気づけよ」な出来事がやってくるのも

これまた見事に 法則みたいに そうなってるな と……

しみじみした 土曜の 午後

 

ある面での弱さを 自分のひとつの資質として 持つ

でも実は それでもいいんだと 知ることができたときから

少しずつ 変わっていけるのだけれど な……

 

私は でも あきらめないでいよう

それに気づいていける世界になることを

よくなる面のほうを向こう

 

たとえ何度 悲しくても せつなく感じたとしても……

 

そのためにも また 自分のためにも

目の前の範囲

今の自分が できることから なのだな

 

2015_02_28

Photo by ゆんフリー写真素材集