カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

(※追記あり)現状に甘んじてしまったら……?(^^;)

「人間というのは、現状に甘んじてしまったらダメじゃないですか!」

うん、そうですか。

向上心があって、偉いですね。

でもそれ、常に「~ねばならない」わけですね。

ちょっとたいへんですね。誰から教わってきた「価値観」でしょうか。

 

しかもその結果、あなたが実際にやっていることは

自分の気に入らない点に対して不満を持ち続けること、

つまり毎日、気に入らない点「だけ」を見つめて自分にさえ文句を言う

だったりしないでしょうか。

 

現状の「良さ」を見ない、なかったことにするわけですね、自分で

 

すごく簡単な例で、話してみましょうか。

自分の身体について。

自分の鼻が気に入らないんです。はい、そうですか。ほかには?

肌が、目が、眉が、口が、腕が、身長が……etc。

 

鼻があって機能していることで匂いがわかる。

いい匂いはうれしいし、楽しめる。

危険な臭いは自分の身体に害を及ぼすと、察知できる。

しかも食べ物もおいしく感じられるよ! よかったー。

 

皮膚にトラブルが起こらなくて済んでるよ、

目はだいたいよく見えるよ、眉毛が目を守ってくれてるよ、

話せたり食べたり、消化を助けてくれたり、ずっと働いてくれてる口がある、

ものを取ることのできる腕、自分を支えられることのできる腕、

自分の自由に動かせる腕がある。

身長が低いから、高いところのものは誰かが手伝ってくれるよ、

いざというときにすぐ小さくしゃがめて安全だよ、

高いから、高いところにも物を置けて便利だよ。

 

はい。さらに今の自分の境遇については、

もう言わずもがな、ですよね。

 

どっちが「うれしい」でしょうね、毎日。

 

うれしいと、楽しい気持ちにならない? 

楽しい気持ちになれれば、幸せじゃない? そんなのじゃダメなのかな?

あなたが求めているのは「どんな想像上の幸せ」なのかな?

 

すぐには動けない=静かに過ごせる時間を持てている。

静かに過ごすときにやりたかったこと、今、できるチャンスじゃない?

 

二度と元の身体には戻れない。

うん、じゃあ、今、過去の記憶のなかにある楽しさでなく

新しくこれから楽しめそうなことって、何だろう?

 

自分の意志では身体を動かせなくなったことから、

自然の美しさに改めて目覚め、

生まれて初めて、口で絵を描き、字を書く練習をして

それを楽しんだ結果、生まれたのがこれです。

富弘美術館

 

「人からほめてもらおう」と思って始めていたら、さすがにたくさんは

描き続けられないし、そもそもあるレベルまでいけたら、もう続かないよね。

ほめられたいからではない、そうじゃない、という証拠に思える、2つめの美術館。

芦北町立星野富弘美術館

自分が楽しんでおられるからこその、この広がりだと思えるのです。

 

そして、人というのは、

どんなときにも、どんなふうにも、自分を楽しませてあげていいのだと。

実際、星野さんがどのような「性格」の方かは、私は存じていません。

もしかしたらすごく「王様・女王様」系のタイプの人かもしれないよ?

(あくまで勝手な想定です、もちろん)。でも、それでも、自分が楽しんで、

絵や言葉を描く幸せを大切に過ごされている。

「結果として」その部分では、

それを他者が「見たい、知りたい」と感じるほどになり、

その求めに応じて、隠すことなく表現されているからこそ、さらに求められる。

 

これ、「お身体が麻痺されているから、もてはやされているだけで、

美術の価値的には、たいしたことない」って感じる人もいるかな?

そういう受け止め方、したい方もいらっしゃるだろうから、まあそれはご自由に。

 

どの点に注目していくことを選ぶかは、本当に、あなたの自由ですから。

 

幸せになりたい! つまり今は、自分は不幸せの固まりだ! と思うのも

また、個人の自由なのです。ただ、ひとつ言えることは、

幸せは、あなたがすでに持っているものや今の環境に対して、

別のものの見方をするだけでも、たくさん、たくさん見つかります。

 

どっちを選び、何を見つめていくかは、自分が選んでいい。

でも、「自分が選んでいる」という自覚そのものは、大切だなあ、と。

 

私がこういう話を書くのも、私が伝えたいから、書いています。

どう受け止めるかまで、私は強制できないし、したくもない。

他人の問題に口を「出す」のでなく、ただ書きたいから書いています。

なら説教するな? そうですか、そう捉えられたのですね、

そりゃどうもすみません、ははは(^▽^;)

 

え? じゃあ、私はどうなのか? 健康とか、見た目の問題とか?

ええ、今年はね、寄る年波に、少しは抵抗をと思い立ち(笑)、

意識的にコラーゲンやココナッツオイルを摂取したりはしています(爆)

あと、演劇の滑舌練習で有名な「外郎売りの台詞」(ういろううりのせりふ)が

口周りのたるみに効く! という話を知って、数日やってみたら、

「まあ、法令線が心なしか薄くなってきたわ♪」って楽しんでます(笑)

 

でも、年を取り、いろいろたるんでいく自分への抵抗(笑)を、

楽しめる範囲で楽しんでいる。そんな遊びっぽい感覚です。

加齢は加齢、それだけ。無理もしないし、別に悲壮感はありません。

 

ちなみに「外郎売りの台詞」は、本当に発声・発音がよくなるので、

あとでサブの「ひと休み」にでも、久々に紹介ブログ、書きますね~♪

途中から早口言葉の連続で、口周りの筋肉が本当に鍛えられますよ。

 

2014_11_29

Photo by 足成

これはさすがに自由すぎってか……? まあ、選択は自分次第、

楽しめることを楽しんでいいんだよ、の象徴ってことで(笑)

 

※追記

……書いた、というより書けた(笑)

サブブログに台詞、書きました。疲れた(爆)

◎顔の筋肉とか、気持ちとか?

http://miharu.pleasure.jp/?p=255

 

追伸:勘違い

さっきの話に少しだけ 言葉を追加させてね

 

あなたが あなたを守ることは必要

他人をないがしろにする わけではなく

他人とは関係ない 奥のほうでね

 

そして

大切にする

ことと

執着する

ことはイコールではない

 

守る ためにこそ

手放す ときもある

そのほうが いいときも ある

 

あなたは あなたのことを

冷静に見てもいいけれど

 

キライとか 気にくわない面があるなら

それを放置するのではなく

なぜそう感じるのかを

きちんと見つめる日が来て欲しい

とても重要なヒントが そこにはあるから

 

他人に 手を出していくより前に

あるいは

他人に 手を差し伸べる前に

自分自身に 手を差し伸べよう

 

2014_11_20_2

 

 

他人の人生の主人公は、その他人である

今日は脈絡もなく、思いついたことを書いてみます。

 

他人の人生に割り込んで、その相手の人生のなかで

自分を主人公扱いにしてもらうべく、

さもありなん、な正論を述べて自分を正当化しようとしたり。

逆にすがって、あるいは奴隷のように従うことで

なんとか私を救い出してよ、と求めてみたり。

 

ゴメン、それらは、はっきり言って他者には迷惑である。

 

それよりもまず、

あなたの人生の主人公はあなたであるのだから、

『あなたが自分に話しかけて自分を大切にすること』を

優先したほうが、結局は他者との関係も、うまくいくのだと思える。

 

お互いがお互いの主人公であることを、きちんと敬えるようになるから。

たとえ相手が、子どもであっても。

 

正論を吐く人でも、それによって

私を中心にして! を訴えていたりする。

自分のことを自分で何とかする、

という部分を放置している、その点においては、

他者にすがる人と、実は変わらない。

 

この、何とかする、というのは

頑張ります!

とかいう種類の話ではない。

 

人間としての自分のゆがみ、

それは「誰にも当たり前のようにある」ことをまず認めろ、

という話なのだ。

認める、というのは、イコール、

許す、とか、愛する、と同義。

 

自分を敬うことなくして他人は敬えない。

本当の意味では、そうなのだ。

 

もちろん、逆もしかりである。

他人を敬うように、自分も敬い、

自分を大切にするように、他人も大切にする。

 

そうすることで初めて

「他人もまた、敬いを持って自分に接してくれる」のだ。

 

だから自分を放置したまま、他人にばかり口出しする

(絡む、すがるも同じ)人は、自分が自分を満たしていない。

 

きっとそうなのだと思う。

 

そしてもう一つ。

自信、というのはやれるようになるから持てる。

やらないで自信がないのは当たり前だし

やれるようになるまでは自信がなかなか持てないのも当然。

 

練習は、どんなことにも必要なのだ。

 

それを手抜きして結果だけ求めようとするのは

単なる「ずる」でしかない。

 

「ずる」し続けながら自分や他人に不満ばかり感じる人生、

まあ、それもまた、自身の選択だから悪いとは言わないけど、

私だったら「辛いこと」のひとつだ……。

 

その、

いったいどうしたら、

という思いは、

「とにかくできること」から始めてみないことには、消えないよ。

 

実際の行動だけでない。

自分を敬うのは、自分の内側でできる。

 

今まで、理屈や都合だけで何とかしようとして感情を忘れている人は、

自分の感情を「取り戻す」ところからだし、

だからといって見つけた感情をそのまま、

他人にぶつけるのは幼児のやり方だし。

 

自分のなかにこんな感情がある。 

なぜだろう?

どうしてそう感じるんだろう?

どんな「価値観」「思い込み」から私はこの感情を持ったのか?

 

そしてその価値観、その思い込みは

本当にそれだけしか道がないのか?

あなたがそう感じても他人がそう感じない、ということは

ないのだろうか?

 

さらには。

そう感じない他人は、

本当に間違っているのだろうか?

 

そういう「穏やかな自問自答」から視野を広げてほしいと願う。

 

あなたのなかにある、そのイビツさ、は

必ず裏側にあなただけの宝物、を隠しているから。

それを信じて、かつ、安心して、探ってみてほしい。

 

2014_11_20_1