カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

ちょ……ちょっと!(笑)

すみません、自分の話で、しかもつぶやきレベルです。

 

先日、私は、自分の体験談を書いてみます、と言って

『マイナスの無限ループ』

という記事を、ここにアップしました。

 

その体験で私は、

「私が至らなくて、皆に迷惑をかけてもかけなくても、どちらでもいい」

という「新しい仕組み」の気持ちを、発見できたわけですが……。

 

今朝、心屋さんの記事で、

私のこの気づきを、まさに今、ご自分で「実践」されている方を発見。

それがあまりにドンピシャで、

そのご様子があまりに心地よさげ(笑)だったので、

ツボにはまって、笑い出してしまいました。

■100点満点で7点のオンナ(*’▽’) ありの~ままの~♪

 

も~神様(仏様?)ったら、よくぞこの記事に、めぐり合わせてくださいました!

どうせ7点「でいい」のよ私~(笑)

ダメな~ままの~姿~見せるのよ~♪(爆)

なるほど、了解です! :*:・( ̄∀ ̄)・:*:

神様せんきゅうぅぅっ!!(笑) ヽ(*^o^*)イェ~イ♪

2014_09_14_yey

 Photo by 足成

 

 

 

何かをすると

自分が ある日 何かをすると

その結果 何かが起こる

何かが起こると それに対して

反対する人 賛成する人 などが現れる

 

自分がやった結果 起こったこと

それが 誰かの命を もて遊ぶようなものでなく

誰かの命に 関わるようなものでなく

あるいは誰かの人生を 狂わせ 狂気に陥れたり

誰かを二度と 元に戻せないような変化 でないのなら

 

それが 自分の身の回りに起こる 変化のうちであるのなら

 

私は 自分の起こしたこと それに伴う変化を受け入れ

自分が最初 やりたいと思った その気持ちをまず 大事にしよう

 

そして 起こった変化の その次に始まったことに対しては

自分がどう感じ どう思い どう考えるかを まず大切に眺め

それから 何かを言う人 賛成も 反対も その声を聞いて

それらを含めた場合 さらに自分が どう感じ どう考え

ゆえに どう行動すればすればいいかを あらためて捉える

 

他者の命や 人生を 自分勝手に狂わすことでない限り

私は 自分が感じたことを素直に 何よりも大切にしよう

 

他者の声は 私の「判断基準」ではないのだ

私が判断するのは 「自分の声に従って」のことなのだ

 

私は それを忘れないように しよう

誰かのため も 何かのため も

すべて そうすることを 自分が選んで 決めたのだ

誰かに責任をなすりつけるのではなく

誰かの賛成の声 反対の声に 怯えて従うのでもなく

私は 私の声に 従おう

 

私が 自分の道を 自分で最終判断し続ける

それが 私にとっては 私自身を大切にするために

いちばん 守っていきたい 守って 生きたいことだ

 

私の愛も 私の涙も 私の喜びも 哀しみも 怒りも 楽しみも

私が決め 選んだ結果 その次に 起こること

だから それらをすべて 私は引き受けよう

 

私は 私の覚悟にもとづき 私のために 自分で決めていく

これまでもきっと そうだったけれど これからも

いや これからは なおさら ずっと……

 

2014_09_02_torukokikyoh

 

 

開き直る、という感覚

これはとくに、がんばってきた人、

あるいは「他人が怖い」人に向けての話……だけれど。

 

この2つはぜんぜん、違うものであるようでいて、でも実は、

その根っこには同じ部分があるのかも……と思えている。

何が同じかというと「自分を何かしらの方向で、良く見せたい」という願望の部分で。

 

もちろん、あなたにはもともと「良い部分」がある。

今の段階では、それを「信じられない」人もいるかもしれないけれど

もし万が一、100%悪人、っていう人がいるとすれば、

そもそも「がんばろう」とか「他者の目が」なんてこと、

気にしない……と思えるのだ。

だってたぶんそういう人って、本気で自分の都合しか考えないから。

 

他者を気にする、ということや、自分を自分でなんとかしよう、と思えること。

それは「他者のこと」をちゃんと意識し、考えられる人、ってことなんだと、

私には感じられるのだ。

 

で、こうした人たちに共通するのは

先ほども言ったように「良く見せたい」(良くなりたい)という願望、かな、と思う。

でもそれって行き過ぎると「見栄」につながる。

この「見栄」が、扱いを間違えると「自分に嘘をつく」ことになる……。

過去の自分を振り返ってみたときの経験もふまえ、そう思えるのだ。

 

強がり、意地っ張り、その反動としての「後から湧く」自己嫌悪。

見栄を重視し過ぎて、本当に自分が望んでいること、を超えて、

自分に無理をさせたり、自分を「ごまかしたり」する。

それはやがて「望んでもいない自分」を演じようとすることにつながる。

なぜなら、それをはるかに超えても気づけなかったり、

逆に「できない」と決めつけて怯えさせたりするから……。

 

ゆえにそれが、やがては「自分に嘘をつく」ことへつながる。

「望んでないもん!」って意地をはって「求めるものを見ないように」したり、

「もっともっともっと、きちんとできないと!」って、

すでにできてる部分まで「自分で見えなく」したりする。

 

今、現在、できていようと、できていなかろうと。

そもそも、そこまで完璧に、できなくていいのよ。

「いい加減」は「良い加減」でもあって、

できなさ過ぎるのも、でき過ぎるのも「度を越している」ことになる。

 

その「見栄」、そこまで必要じゃない。

必要だと「思い込んで決めつけている」のは「今の」あなた自身であって、

そう決めつけていることが「今」、まさにあなたを苦しくする。

 

実はそれ、ちょっとでいいの。少しずつでいいの。

やらないより、やったほうがマシ。そんな程度。

もう一度繰り返すよ、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのだから、

やらなさすぎも、やりすぎも、「度を外れている」って意味では同じ。

だから、やりすぎる人がやってない(怖くてできない)人を

見下したりバカにするのも、実は違うし、

やってない人が「『やってる人』ってきっと、私をバカにしているに違いない」って

勝手に決めつけ、すねるのも、ある意味、失礼だよね。

少なくともその相手は「すでに実際、チャレンジをがんばっている人」なんだし、

そこですねたら、まるで逆恨みしているようにも、見えてしまうかもしれない。

 

ねえ、まずは、自分に「嘘」をついたり「ごまかし」をすること自体、やめようよ。

求めるのはいいことだよ、それ自体は全然、否定しないでいい。

でも、「自分で自分を『素晴らしい!』と自画自賛できるところまで」

求めすぎると、動けない、あるいは動きすぎることになる。

 

そんな自画自賛って、もしかしたらただの「自己満足」にすぎないのかも。

そっちを求めることによって逆に、

他者の心を「思いはかる」視点、消えちゃうのかも。

もったいないよね、そもそも今すでに、持っているのに。

 

怯えも、やり過ぎも、「見栄っぱり」すぎる自分がいるから。

失敗したっていいのよ。っていうか普通はみんな、

「失敗しながら」練習してる。

練習しないと上達しない部分は、確かにあるからね。

当然そこでは「失敗」(と自分が感じること)だって起こる。

 

必要なのは「何度、失敗してもいいから、いつか望む方向へ行こう」という

自分の思いを大切にできること、なんだと思う。

それを「開き直り」と呼んでもいいのだと。

ふてぶてしく、態度をわざと悪くするような「開き直り」ではなく

「いずれ、できるようになりたいから」の、静かな、ひそやかな決意の開き直り。

 

それは決して「厚かましさ」にもならないよ。

「練習の積み重ね」の原動力、につながるものなのだと思える。

 

だから、あきらめないで、よい意味で

「開き直って」ほしいと思う。

練習って「こうやったら、なるほど、うまくいく、あるいはいかないんだな」っていう

「方向性の確認」なのだから。

それって失敗、というより、

エジソンの言うように、1万回でも、方向性を確認してみて

「うまくいかない」部分と「うまくいく」部分を少しずつ、自分で体得すること。

だからこその「練習」なんだって、ことだと思う。

 

「自分が望む」段階ですでに、その能力はあなたの中に「ある」のだから、

あとは「自分が心地よい範囲で、上手に、バランスよく表現できる」方法を、

練習、するだけだよ。

 

ぜひ、あきらめないで、開き直りつつ、やってみてください。

いっときバカにされたように感じようが何しようが、そんなのどうでもいい。

あなたの求めるものは「その先」に必ず待っている。

練習して体得した先に「感じられるもの」は、きっと

とても素敵なあなたの「開花」になると、私には思えるから。

 

  よい開き直りで、順番に、「本当の花」を咲かせていこう。少しずつ。